ブログの更新が滞りがちなため、シーズン終了後、かなり間が開いてしまいました
が、毎年恒例のカープの現役引退選手への感謝記事です。
佐々岡真司投手は島根県の浜田商業からNTT中国を経て、1990年にドラフト1位
でカープに入団しました。NTT中国本社ビルは広島市民球場のすぐ隣にあり、
佐々岡投手とカープの相思相愛を語る時によく話題になっていました。
初登板で初先発初勝利を飾りますが、守護神・津田投手の故障離脱でストッパー
に転向。津田が持っていた当時の日本記録(7試合)を大きく更新する、17試合
連続セーブポイントをマークするなど、大車輪の活躍を見せました。
忘れられないのはその17試合目、8/14の対ドラゴンズ戦です。9回表に登板して
同点に追いつかれ、誰もが記録が途切れたと思ったその裏、山本監督にそのまま
打席に送られた佐々岡投手は、ドラゴンズの郭源治投手からサヨナラホームランを
放って記録を伸ばしたのでした。その試合は、珍しく福岡でもラジオ中継されてて、
生で聴いて激しく興奮しました。
シーズン終盤には先発に再転向し、13勝17セーブの好成績を残しましたが、新人
王争いは同じNTT(東京・当時)出身でドラゴンズのストッパーとなった与田剛投手
に敗れました。(セリーグ会長特別賞を受賞。)
翌'91年は、2年目のジンクスとは無縁で、エースとしてリーグ優勝に貢献。17勝を
挙げて最多勝、最優秀防御率の2冠に輝き、MVPと沢村賞も受賞。日本シリーズ
では第4戦でライオンズ相手に8回1アウトまでパーフェクトという快投も見せました。
'92年も12勝を挙げますが、守乱に足を引っ張られて崩れるケースも目立ち始め、
'93年はチームと共に低迷してしまいます。(17敗を喫して最多敗戦となる。)
'94年、衰えが見え始めた大野投手に代わってストッパーとして復活。以降、毎年
のように先発と抑えを行き来するという、他に例の無い「エース」でした。
'03年に100勝100セーブ、'06年には江夏投手以来という先発100勝・100セーブも
達成。「先発に専念していたら、今頃は200勝を達成していたかも知れない」という
声もありましたが、本人は「チームの勝利の為なら、どんな役割でも引き受ける」
と語っていました。
'99年にはノーヒットノーランも達成。無四球は史上3人目の快挙でした。
引退試合となった10/6のベイスターズ戦は、連休で伴侶の実家に帰省したため
市民球場に駆けつけることはできませんでした。
9回2アウトから登板し、村田選手にホームランを打たれるという、彼らしい最後
でした。
翌7日の神宮球場でのスワローズ戦でも、古田捕手の引退試合に「友情出演」で
登板。市民球場では黒田投手から快打を放った古田捕手を見事打ち取り、現役
最後のホールドをマークしました。
球界のために尽力してきたこの2人が揃って引退する年に、両チームが最下位
争いを繰り広げたというのも、皮肉な感じがします。
今後については情報を得ていませんが、しばらく解説者をするのでしょうか。
個人的には、小林コーチに代わって、すぐにでもピッチングコーチになってほしい
ものです。実績・人柄とも申し分ないだけでなく、ブラウン監督にも一目置かれて
いますから。
まあ、それはともかく、18年間本当にお疲れさまでした。
が、毎年恒例のカープの現役引退選手への感謝記事です。
佐々岡真司投手は島根県の浜田商業からNTT中国を経て、1990年にドラフト1位
でカープに入団しました。NTT中国本社ビルは広島市民球場のすぐ隣にあり、
佐々岡投手とカープの相思相愛を語る時によく話題になっていました。
初登板で初先発初勝利を飾りますが、守護神・津田投手の故障離脱でストッパー
に転向。津田が持っていた当時の日本記録(7試合)を大きく更新する、17試合
連続セーブポイントをマークするなど、大車輪の活躍を見せました。
忘れられないのはその17試合目、8/14の対ドラゴンズ戦です。9回表に登板して
同点に追いつかれ、誰もが記録が途切れたと思ったその裏、山本監督にそのまま
打席に送られた佐々岡投手は、ドラゴンズの郭源治投手からサヨナラホームランを
放って記録を伸ばしたのでした。その試合は、珍しく福岡でもラジオ中継されてて、
生で聴いて激しく興奮しました。
シーズン終盤には先発に再転向し、13勝17セーブの好成績を残しましたが、新人
王争いは同じNTT(東京・当時)出身でドラゴンズのストッパーとなった与田剛投手
に敗れました。(セリーグ会長特別賞を受賞。)
翌'91年は、2年目のジンクスとは無縁で、エースとしてリーグ優勝に貢献。17勝を
挙げて最多勝、最優秀防御率の2冠に輝き、MVPと沢村賞も受賞。日本シリーズ
では第4戦でライオンズ相手に8回1アウトまでパーフェクトという快投も見せました。
'92年も12勝を挙げますが、守乱に足を引っ張られて崩れるケースも目立ち始め、
'93年はチームと共に低迷してしまいます。(17敗を喫して最多敗戦となる。)
'94年、衰えが見え始めた大野投手に代わってストッパーとして復活。以降、毎年
のように先発と抑えを行き来するという、他に例の無い「エース」でした。
'03年に100勝100セーブ、'06年には江夏投手以来という先発100勝・100セーブも
達成。「先発に専念していたら、今頃は200勝を達成していたかも知れない」という
声もありましたが、本人は「チームの勝利の為なら、どんな役割でも引き受ける」
と語っていました。
'99年にはノーヒットノーランも達成。無四球は史上3人目の快挙でした。
引退試合となった10/6のベイスターズ戦は、連休で伴侶の実家に帰省したため
市民球場に駆けつけることはできませんでした。
9回2アウトから登板し、村田選手にホームランを打たれるという、彼らしい最後
でした。
翌7日の神宮球場でのスワローズ戦でも、古田捕手の引退試合に「友情出演」で
登板。市民球場では黒田投手から快打を放った古田捕手を見事打ち取り、現役
最後のホールドをマークしました。
球界のために尽力してきたこの2人が揃って引退する年に、両チームが最下位
争いを繰り広げたというのも、皮肉な感じがします。
今後については情報を得ていませんが、しばらく解説者をするのでしょうか。
個人的には、小林コーチに代わって、すぐにでもピッチングコーチになってほしい
ものです。実績・人柄とも申し分ないだけでなく、ブラウン監督にも一目置かれて
いますから。
まあ、それはともかく、18年間本当にお疲れさまでした。