一番喜ぶ 女の子たち 2011/2/14
母親から5億円にも上るお小遣い貰ったものが、首相になってやったことと言ったらこういう事。
お小遣いやった「おっかさん」、ようやってくれましたなぁ。
一度は退陣すると言いながら、それをひっくり返して再登板の弁が、この「方便」。
これでまだ国の税金からも、お手当をひっ手繰ろうとしている。
草葉の陰の親後の父親さん、どんな気持ちで見ていらっしゃるかな。
個性は、相対する個性と、それは無限ともいえる複数のものとの対象と必須の縁を結び、互いが「劣るものを補い合い、力を合わせ、且つ助け合い」して、この世の森羅万象を描き出している。
我々の一般的普通の観念や概念としては、この世の形は「三次元」のものとしてとらえている。
しかしそれは、この世が「物質」として捉えたものであることからにより、哲学的に「物と心」との二つのものが存在している以上、それを見据えた上でとらえるとどうなるだろうか。
哲学では、「物心一体」とする「一元論」と、「物と心は別物」とする「二元論」がある事は、よく御承知だろう。
こうした考えは、この世が「物質」として捉える「三次元世界」とする、即ち「縦、横、高さ」による世界観からきている。しかし「心、精神」の存在がある以上、この「三次元論」は意味をなさなくなる。
「物質」と「心、精神」の存在を絡めて見据えるならば、「縦、横、高さ」といった「三次元論」は否定される。
そしてどうなるかというと、「流動性(時間)、広がり(空間)、物質」が「三次元になる。
そしてもう一つ、これら「流動性(時間)、広がり(空間)、物質」の世界で行われさせる「力(エネルギー)」があり、これを以ってして「物質」に必須の「縁」の働きを持たせている。
言わば、我々が産まれ生きているこの世は、「四次元世界」なのである。
ところで、この「四次元世界」に於いて必須の「縁」の結び様はどういう有り様かというと、それはちょうど「織物」が織られるように、「縦糸と横糸」が織りなすような「縁」の模様を織りなしていく。
「縦糸」の「縁」の張り様は、時間的張りようとも言え、「過去、現在、未来」を表す。即ち、「先祖、親子、縁故、師弟関係」ともいえる「縁」である。
一方の「横糸」の張り様は、横の繋がりとも言え、「夫婦、近所、友人、同僚関係」などとの繋がりの「縁」を言うだろう。
だが今日現在は、こうした「縁」が薄れていくだけでなく破壊されていっている。
そうすると、普通に結婚して改称した者は、「馬鹿な事をしている」と言いたい訳。
そういう貴方たちこそ、一般人として結婚して改称した者の「名誉毀損」をしている。
こういう人たちの、弁護人までもが、である。
逆提訴したくなる。
「主体性」を持って存在できるどころか、他に寄りかかって頼らなければならない「従体的」な存在ばかりである。
「主体性」を持たず「従体的」であるが故に、「因果、縁起、因果律」が引き起こされる。
では「無縁社会」の根源は、どういう事が原因になっているのだろうか。
実は、この事を2500年も前に予想しておられたように思えるお方がおらけれる。
そのお方とは、誰あろう「釈尊、お釈迦様」である。
尤も、この事は全く知られていないし、釈尊に関する故事にも述べられていない。
だが仏教経典の中でも原始経典と言われる「経集、阿合経」など、また「法句経などをを参照してみると、そこに述べられている釈尊の生の言葉というべき語集の中から、人類の将来がどのようになっていくかを予測されていたのかが伺い知らされる。
しかし釈尊は、人類の将来がこのようになるのを予測しながら、何らの手をうとうとは為されなかった。
何故か ?
それは「縁生縁滅」の理を、如何に釈尊であっても、自然の摂理に逆らってどうのこうのとしてはならない事を知っておられたからである。
源に釈尊は在命時に、生国であり母国である「シャカ族」の国が、隣国に攻め滅ぼされるのを見捨てられている。
尤も鯉国が攻めようとして進軍して来た一度目と二度目は、その進路において座禅を組んでおられて遮ろうとなされていられ、この様子を見られた隣国の王は尊敬する釈尊に尊敬の礼を持ってして軍を返している。しかし三度目の侵攻に対しては、釈尊は何もなされず、「これも世の習い」として受け止められ見捨てられている。
それと同様に、釈尊は人類の行く末に気付きながら、古い経典に遠回しな言葉を残すのみで見捨てられている。
その事に気が付かず、「宇宙開発の、ノーベル賞の、五輪メダルの、代理受精で出産だの」などと言っている場合の、いい気になっていて「無縁社会」に目を向けないでいてよいものではないのである。
小沢前民主党幹事長の政治資金管理団体には、出所不明の4億円がある。
これを引き出して、除雪費用の不足分に充てなさい。
小沢前民主党幹事長の口癖である「国民のため」に使うのだから、文句は言わないだろう。
いい年して、少しも日本語判らないらしい。
もっとよく勉強しなさい。
毎日毎日、国会や記者会見で言っている事は、暴挙発言ばかりだよ。
それも閣僚の一員であるのに判らんとは、暴力団内閣みたいな政権だね。
先の官房長官も、そうだった。
それを「国民の声」と、責任を国民に押し付けたりして、何を暴挙言っている。
親鸞聖人は、
「地獄は一生の住処ぞかし」
徳川家康は、
「人の一生は、重き荷を背負いて、遠き道のりを行くがごとし」
と述べている。
我々は普通、人間として生まれたからには「楽しまなくては」とか、「楽をして過ごすようにならなければ」とかを目標にする。
しかし我々は、「衣食住」の糧を得なければなせらない。
「衣食住」の糧だけでなく、家族の存在があり、この家族に対しての役割も担う。
我々人間は、こうした事を「金銭」によって賄おうとしている。
しかしながら、単なる流通価値しかない「金銭貨幣」にすがる時、それによって人生そのものに背負わされている命題が成し得るかというと、成し得る事は無い。
できるのは、「逃れる、逃げる」というやり方でしかなくなる。
親鸞聖人や徳川家康は、人間は本質的に「苦」や「悲」から逃れられないものと受け止めることから、そこに人間としての始まりがある事を証している。
即ち、「苦しみや悲しみが当たり前」と、自身自らをその世界に生かすことに専念させる。
「苦しさに耐え、悲しさに耐え」入る事が当然のこととなし、「楽しむ事、楽をする事」を仮法の事となしている。仮法のものは、必ず崩壊する事を、知る。
極楽への道は、この「苦しさに耐え、悲しさに耐え」て行く中で、実りを実らせる恵みである。
この恵みは、しっかりと「苦しさに耐え、悲しさに耐え」てこない者には判らない。
この恵みは、「賞やメダル」などとは比べ物にはならない程の、「力と器量」を育てていく。
こうして得られた「力と器量」が、極楽への道へと導いて行ってくれる。
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現代の人間世界は、こうした「極楽への導き」となる「力と器量」が廃れている。
それ故に悲惨な事件や争いが絶えない。
社会構造も「無縁社会」と言われるような、テンデンばらばらな結び付きが希薄な社会となってしまった。
次回当たり、この「無縁社会」の成り立ちについて述べたい。
★ 国建つ日 春日のような うらら中
まぶしき雪に 迷い溶ければ 2011/2/11
国政は権力争いで混乱し、社会は悲惨な事件に無縁社会となっていく。こうした迷える世の中の雪解けは、いつの日か・・・・・。
我々はなまじっかいい気になって、「したい放題」の事をし、「言いたい放題」の事をしていて、それで満足できるようになる事、即ち極楽や天国に行かれ、幸せになれるように思っている。
だが本当に「極楽に行かれ、天国に行かれ、幸せになれる」には、条件がある。
この条件が満たされない事には、「極楽へも天国へも、幸せにも」なれない。「極楽、天国、幸せ」は、タナポタ式に落ちてくるものではないからである。
「極楽、天国、幸せ」となるための条件とは、「したい事を、しないこと」と、「したくない事を、する」ことが条件になる。
「したい事を、しない」という事は、欲するままにすべきではないということであり、且つ、「悪い行い、悪い言葉」を行いたい事を抑えることである。
「したくない事を、する」という事は、人としての生業や、親や高齢者に対する孝心、夫婦お互いへの助け合いと尊敬、子供や子弟への養育心、それらを疎かにせずにしっかりと取り組み、愚痴や怠け心にくじけず、忍耐して努めていく事を求められる。
「したい事を、しない」という「したいのに、してはならない」という事と、「したくない事を、する」という「したくないのに、しなければならない」という事は、我々の思い描く「豊かに、楽しく、楽(快適、便利)」さの幸せさとは、裏腹の世界になる。
こうした逆進性的な思想の上に、真の「極楽、天国、幸せ」の世界が成立している。
こういう真の「極楽、天国、幸せ」の世界に導いてくれるのが、真の宗教である。