ノーベル賞が、物理学三氏、化学賞一氏に決定されて、国内は沸きかえっている。出身地や出身校などは、「誇り高い、栄誉なこと」と、お祭り騒ぎになっている。
しかしこうした中に水を差すようだが、もっとすばらしい方が居られる。いや、居られた、と言うべきかも知れない。そうした方を少しも敬い讃える事もなく、ノーベル賞とかオリンピックメダルとかに小躍りしているのは、「愚かさの美学」というものだといえるだろう。
二千五百年も前に生存なされていた「釈尊」、一般におなじみの「お釈迦様」は、悟りというものを開かれた。その悟りの内容というものは、この世の成り立ちは「どういうものか」というもので、「縁起」であると明らかにされている。
この「縁起」は、「因果」とも言う。「因果律」の事であり、「全てのものは因により、縁を持って、果を結ぶ」と説かれている。
今回のノーベル物理学賞の対象となったという「自発的対称性の破れ」という理論も、私のような科学とは何の関係も無い素人にも、「縁起や因果」という面から見てみると、何となく理解が出来る。それは「縁起や因果」を理解していれば、物理学などは理解し易いと言えるかも知れない。
釈尊が修行されたのは、元々は「人生の苦しみ」の解決のためであった。「苦」からの脱却のためである。即ち「精神的」なももの、解決を求めていられた。
だがこの「精神的」なものは、「物的」なものの成り立ちという根本に触れるという事になり、それは同時に「物心両面」に関わってくる「普遍的」な事柄としての全体像を見詰めなければならないものになってくる。
一部分という限定的なものについてあれこれ言うのではなく、全体から、普遍的に見て見詰めなければならない。
しかし私達は、一部分のことについて「優れている」とか、「栄誉」とか「誇り、誉れ」といっている。だが、例えば物理学でノーベル賞をとっても、物価高騰や金融危機、多発する社会事件などを平和に安定させる、何らの手段にもならない。これらは、単なる「愚かさの美学」のようなものに過ぎない。
しかしながら、こうした物価高騰や金融危機、多発する社会事件なども「縁起と因果」に基づいて成り立っているものと知るならば、この解決法は自ずと知る事ができるだろう。
今日現在、もっとも大切な事は、いたずらに「愚かさの美学」におぼれる事なく、私達が生きており、生かされている世界の「縁起と因果」という真理の法を、理解すると共に、その心というものを受け止めていかなければならない。
しかしこの私達が思っている存在感は、いつ何時崩れるかもしれないという、危ういものでもある。ことに今日のようにいつ災害に見舞われるやら、事故事件に見舞われるやら判らない状況の中では、いつ何時「死」と向き合わないとも限らない。
それなのに私達は、この「死」というものと、向き合う事がない。むしろ、避けがちになっている。
こんな事を述べると、当事者からは非難ごうごうを受ける事になるだろうが、「医療訴訟」という事には、私には納得できない部分がある。
「医療訴訟」をする人達は、何故「医療事故」という事にしか目を当てないのだろう。
そもそもの元は、医療を受けなければならなくなった、という事実からであったはずだ。この「医療を受けなければならなくなった」という事実の時に、医療を受けなければ、この被害者は助からなかったかもしれないのである。
即ち、「医療を受ける」時点で、生死は分かれていたことになってくる。
ところが、この事実を忘れていて、医療を終わった後の結果について「訴訟をする」とか言っている。これは「愚かさの美学」そのものと言わざるを得ない。
もっと有体に言えば、いつか訪れるかもしれない「死」と向かい合っていない、「愚かさの美学」なのである。
こうした事は「拉致被害者」の家族の人達に対しても、言う事ができる。
「拉致被害者」の家族の気持ちは、よく判る。
しかしだからと言って、相手に対して「経済制裁」などというのは良くない。そうした「報復や復讐」めいた事をして、何になるだろう。
もとより「拉致を指導、決行」したものには、制裁を加えるべきかも知れない。しかし「経済制裁」のようなものは、飢えや飢餓に苦しむ一般庶民を苦しめる何物でもない。
といっても、現在のようなやり方の「経済援助」ではなく、高級品とかブランド物ではない、ごく普通の、上級家庭や富裕層が目もくれないような物資で、それでも貧因層に喜んでもらえそうなものを援助すると良いと思う。「制裁一辺倒」では無しに・・・・。
何彼と「報復、復讐」的なことをするのは、「被害者、被害者」と言ってしおらしい事を言っても、罪も無く困窮している多くの人々を、更に困らせようと意図している、恐ろしい「愚かさの美学」を持つ貴方方である。
この二つの例は、言ってみれば「可愛い、愛しいわが子」を、病気や事故で失ってしまって、それを「蘇らせてくれ」というのに似ている。
だが、それは出来ない。それこそ「愚かさの美学」なのだからーーーー。
私達は、どこかで諦め、事実を事実として素直に受け止めて、いつまでも事実に目を背けて拘り続けていないで、「愚かさの美学」を断たなければならない。
その事は健康とも密接に関連を持っていて、「健康でありたい」という願いでも、思いでもある。
しかし、この世はままならない。
私はもう一月ちょっとで満四歳になろうとする時、地震に見舞われて倒壊した家屋の下敷きになって助け出されたが、背骨が曲がりくねってしまった。そのため色んな障害があったが、鈍いためか気にしていなかった。
老人と呼ばれるようになった今日、この半生を振り返ってみて、「健康であるという事」とはどういうことであるかというと、こういうことだと思う。
全てにおいて、人は「健康である」ということは無い。生まれながらに何らかの障害や病気をもっいるとか、途中で病気や事故で障害者になるものである。
そうした中で「健康である」という事は、こうした「病気や障害」と共に「健康に生きる」ということが、健康な事といえると思う。
人には「長所と短所」、「優れた面と欠点」がある。誰しも、この二つの面を併せ持っている。
だからといって、他人と自分とを比べるのは、惨めである。寂しい。そしてそれが元で「いじめや中傷」などになっていったりもする。
だが「自分の欠点、短所」をそのままま認めて受け入れ、そのままに人として生きていこうとするなら、それは健康な生き方になってくる。
先日の報道では、何とかのタレントが六百万円かけて全身美容整形したとして、テレビで誇らしげに出演していたが、この人は整形前の自分と今の自分とを、比べているからなのだろう。それで「健康」だと思っているようだ。これは「愚かさの美学」みたいなものである。
「短所や欠点」を見据える事も無く、「長所や優れた面」を誇示したり、「短所や欠点」ばかりに目を向けるのは、「愚かさの美学」である。
「短所や欠点」をよく見詰め、それをそのままに素直に受け入れ、そのままにそれを生かしていくことが、かえって「短所や欠点」は長所にもなり武器にもなる。
人と比べれば、「惨めにも寂しく」もなるだろう。しかし病気や障害を持って生きるという事が、自分にとって何よりも「尊い生き方」と知るならば、この病気や障害を持った事が誇りにもなる。
それが「愚かさの美学」から脱して、「健康に生きる」という秘訣になるだろう。
人間社会では、子供が産れたら、親が認知する必要がある。父親だけでなく、母親も認知しなければ、産れた子供は、無国籍で無戸籍になってしまう。
ところが「安部、福田、麻生」と三代続く政権は、一度も総選挙の洗礼を受けていない。いわば「国民からの認知」を受けていない政権内閣といえる。即ち「無国籍、無戸籍政権内閣」なのである。
こういう「無国籍、無戸籍」なのに、「解散権」という伝家の宝刀という大権をもたらされているのだから、「愚かさの美学」もたいしたものである。
「退陣し退任し、政権が変わったら」、総選挙をして信任を受け、認知を受けなければなるまい。
だがそうした事をしないで首相自らが、「暴言、放言、雑言」を放ち、人々を困らせたりしている「愚かさの美学」がある。
国会で、新首相の所信表明演説が行われた。
この中継やニュースは、孫などにテレビを取られてしまったりしていたので見なかったけれど、翌日の新聞記事でゆっくり見たが、それにしてもこの演説の内容の「愚かさの美学」的なのには、これからこういう首相に国の進路を任せる事になったのかと思うと、やりきれなくなる思いがしてしまう。
それは言ってみれば、二つある。
一つは「教養の無い幼稚さ」にある。
「所信表明」は、政策の提示であるはずである。その政策の提示を示した上で、更によりよき政策となるように検討して欲しいとすべき事が、本来の所信表明であったはずである。
しかしこの「所信表明」では、具体的内容には言及していないし、むしろ避けている感がある。
そしてその一方では、相手に対して「対案を示せ」といっている。相手に対して「所信表明せよ」というに等しいし、喧嘩腰になっている。これでは、どちらが首相なのか、判らなくなる。
政とは、「治め、平定」する事なのに、これでは社会を乱し、混乱させるだけである。
そういう「教養の無い幼稚」さがある。
二つ目は、哲学性の無さにある。
相手に「対案を示せ」と言ったりするように、近頃の政治は押し付けるような政策が多くなっている。それで「不平や不服」があったなら、「対案を示せ」と、こうなる。
社会を構成するのは、自分と似通っているとか、自分に都合がいいとか、そういう人達ばかりではない。種種雑多な、老若男女に賢いものもものも劣るものも、富める者も貧しい者も、一緒になって生活している。
それは例えてみれば、皆でピクニックするようなものだ。
しかし若く健康で賢いものに合わせて行こうとすると、この集団はまとまって移動する事はできない。弱者は、必ず置いてきぼりにされてしまうからである。
この集団がまとまって移動するには、弱者に歩調を合わせなどして移動する事が望ましい。
それと同様に、政を行うにも、何事も「優位、評価、数値」からではなく、底辺からの判断や施策をして弱者の立場に立ち、視点に立ち、目線に立たないことには、必ず社会は乱れ混乱を招く事になる。非正規雇用や後期高齢医療や教育、医療制度のように。
それは「愚かさの美学」ばかり目指していたからだ、と言える。
新首相の「所信表明演説」は、全くといっていい程の「愚かさの美学」である。
今日現在、米国を発信源に「サムプライスローン」に関わる金融危機が、恐慌状態になってきたといわれる。
だがそれは、金持ちの話で、我々貧乏人の、その日暮のものには関係ないし、「痛くもかゆく」も無い。
何せ「愚かさの美学」どころではなく、その日暮に一生懸命なんだから・・・・。