宗教が必要なのは、人間においてだけである。他の生命を持つものは、必要としていない。なぜ必要としていないかというと、これらの生命は、自然の摂理と条理に即した生き方をしているからである。
しかし人間はそうではない。なぜそうでないかというと、人間は知恵というものを持っているからである。この知恵を持つが故に、人間は自然の摂理に従った生き方ができない。
どうして自然の摂理、条理に沿った生き方ができないのかというと、自分の思う通りに生きようとするからである。そこに不条理な人生を描くこととなり、苦難に満ちた中で苦しんでいくことになる。
ところで宗教を見つめるうえで、時間的観念が必要ではないかと思う。
過去、現在、未来という風にである。
宗教ではこれを、前世、現世、来世という。
このうちの前世などは、「前世の因果」などという風に使われ、そこから悪業が今に現れたなどと言って惑わせている。
そうではなくて、これはお釈迦様の説法の中にあるものだが。
大海に盲目のウミガメが泳いでいたところ、古木と遭遇した。こうしたことが、遥かなる未来にも同じような現象として起こる。
これは現在と同じようなことがズーッと先の未来にも起こるということであり、翻って言うならば、ずーっと以前の過去にも起こっていたといえることでもある。
この過去に起こっていたことが因縁としてなって、今に姿を現している。
かといって、この過去の因縁のままにあればいいということではなく、過去の因縁は因縁のままに、そうしておいて今を、将来の良き因縁にしていくようにすべきというところに宗教の意義がある。
それは例えていうならば、今夫婦である者も、遥かな過去世、前世においても夫婦であったとして今の夫婦があり、遥か彼方の将来にも夫婦となる身であるものであり、そうであるならば今の夫婦生活を良きものにしていかなければなるまい。
よって時間はこうした長いものというものではなく、今の一瞬をいかに良く生きるかであり、それが因果になって1秒後にも結果が結実していく。