青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

命の捨て方

2013年03月31日 | 人生設計

我々人間の人生に対する思いは、「幸せ」になることといってよい。
「幸せ」を求めて、「四苦八苦」している。それば「豊かに、楽しく、楽(快適、便利)」になることによって、この「幸せ」を満たそうとしている。
しかしこうした我々人間の願いながら、この世という世界には、期待通りにさせてはくれない。
なぜ期待通りにならないかと言うと、この世のありようと我々の期待とは、相反していることにある。相反しているということは、物事には二面的になっている。また複面的にもなっている。一方だけには、偏ることがない。

たとえば、我々がどんなに健康でいたいと思っても、必ずに病むことになる。そして「癌」など不治の病気を宣告され、「なんで自分が」と世を呪い、愚痴を言い、不平不満をもらしも、効果がない。それはいくら何百万円もの治療法である「放射線治療」を受けたとしても、余生が少し伸びただけで、結局必ず死を迎える。
言わば我々人間が生きているということは、この「死」に向かっているということで、そのための人生ということになる。
そしてこの「死」は、いつ何時やってくるかわからない。一秒後かもしれないし、何年か後になるかもわからない。
現代は交通事故や、遊覧旅行などに行って事故に合うとか、何のためにかも分からずに殺傷されたりする。
このようにいつ何時訪れるか知れない「死」に対して、我々はいつ死んでもいいように「死に方」を決めておかなければならないことになる。
それは「命の捨て方」でもある。

「命の死に方、捨て方」は、茶道の極意でもある「一期一会」のように、「一秒一刻」が、この「死に方、捨て方」となる。
「まだまだ」などと、まるで今日の政治のように、先延ばしにとか延期してはくれない。
それ故に「捨て所」という気概が、いつ発揮してもいいように用意しておかなければならなくなる。

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