横浜焼売(シウマイ)物語2023

2年ぶり再開。ハマっ子のソウルフードは崎陽軒のシウマイ。漫画書き柴犬溺愛。落語らぶ。晴れ時々ランニング、更新随時

カメラ小僧にカメラ女子、ホトガラ青年下岡蓮杖を忘れるな。

2013-05-25 | 横浜ラブ
今やデジカメはひとり一台。いや、もっと多いね。みんながカメラマンな時代の始まりを作った人がいるんです。
あ、ホトガラっていうのはPhotograph フォトグラフのことよ。

横浜馬車道の県立博物館のななめ向かい側にある奇妙な形のモニュメント。




下岡蓮杖(久之助)というのは、上野彦馬とともに、日本の写真技術の開祖といわれています。
伊豆下田の出身、画家を目指して江戸、狩野派に入門。
ところが、市中で見た銀盤写真に衝撃を受け、何とか外国人と接触してこの技術を学びたいと考えるようになります。
時は徳川末期、黒船が浦賀に来航。開国か攘夷かで国内は二分されている時代。
そこで思いついたのは、浦賀奉行所の足軽にリクルート、という方法。これなら、外国人と知り合うチャンスは多そうですもんね。

その後故郷の下田が開港したと聞くや、下田野玉泉寺に開設されたアメリカ領事館に再々リクルート。
領事館で働いていた幼なじみの仲介で、ハリス領事の通訳ヒュースケンに師事して、写真技術を学び始めます。
基礎はしっかりと学んだものの、最後まで現像に使う薬剤の名前は教えてはもらえなかったとか。
その後、様々な苦労を重ねて18年、横浜の野毛で小さな写真館をはじめます。

この当時、写真は「ホトガラ」といって、あまりに人物が本物そっくりに写るため『魂をとられる』と大抵の日本人は怖がって近づこうとしませんでした。そのため、お客はもっぱら居留地の外国人ばかり。
しかしそこで、アイデア勝負。
外国人に日本の着物を着せたり、元は画家の腕を活かして日本の景勝地を背景画に描いたり。
まるで、現在のスタジオ・ア○ス。
このアイデアは大当たりし、口コミで評判は伝わり、まもなく弁天通(今の本町4丁目付近)に写真館を移して本格的な営業を開始しました。

これが我が国最初の営業写真館といわれているそうです。
(奇しくも同年、上野彦馬も長崎に営業写真館を開業しています。)
これは現代の写真スタジオ。


ところでこの下岡蓮杖先生、写真館だけでは物足りず、喫茶店から牛乳販売、石版印刷、乗り合い馬車、と次々に手を出し失敗したり成功したり。後進の指導にも熱心で、門下生からは優秀な写真家を輩出しています。
この方の人生を語るとキリがありませんが、今から200年前、こんなユニークな人がこの町にいたんですね。

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