横浜焼売(シウマイ)物語2024

2年ぶり再開。ハマっ子のソウルフードは崎陽軒のシウマイ。漫画書き柴犬溺愛。落語らぶ。晴れ時々ランニング、更新随時

掃部山を、ハキべヤマという勿れ

2022-06-23 | 横浜ラブ

掃部山公園、カモンヤマ公園と読みます。

小学校がこの公園の近くだったので、一年生の時の校外学習の第一弾がここでした。

この時担任の先生から

「イイカモンノカミナオスケ」という名前を聞かされました。

ちなみにこの時のイメージは

「良いカモンの神なおすけ」

横浜を開港した偉い人で、この公園に銅像が立っていて

今も横浜港を見つめている

というお話も聞かされました。

 

今思うと随分ざっくりとした概要ですが、事実として概ね間違いではありません。

桜田門でミトハンシに襲われて殺されされたというのはショックで、

良い人なのになぜだろうと思ったりしました。

高校日本史で

これが「彦根藩の幕府大老、井伊掃部守直弼」なのだ知り、

反対派をどんどん粛清していった過激な政治家としての記述もあったりで

実は悪いやつなんじゃないかと思ったりして、

イイカモンのカミという人物像は二転三転揺れ動き

長じてようやくどれも史実でそれぞれの真実なんだと納得。

突き詰めると小学校の担任の解説は見事だったと改めて感心しています。

なぜこの「掃部山公園」にかの「井伊直弼」の銅像が立っているのか

明治時代に遡ります。

元々ここは鉄道山と呼ばれていました。

近代化を急ぐ明治政府が鉄道敷設のために招聘した

外国人技師たちの官舎があったからだそうです。

その後

明治17(1884)年、旧彦根藩が山を買取り井伊家の所有に。

明治42(1909)の年開港50周年を記念して、

横浜開港に功績のあった井伊直弼の銅像を建立しようと元藩士の有志が集まって寄付を募りました。

いろいろと苦労もあったようですが、井伊直弼の銅像は完成し港を一望するこの山に。

大正3(1915)年、鉄道山は横浜市に寄贈。横浜市が公園として整備。

呼称も「鉄道山」から、

井伊直弼の官職(役職肩書き)が、掃部頭(かもんのかみ)だったので

「掃部山公園」と改められて今日に至っています。

当時とは周辺の風景も様変わりして、

そびえるランドマークタワーに高層ビルで港を一望というわけにはいきませんが、

昔思えば苫屋(苫屋)の烟(けむり)がちらりほらりの寒村横浜が、

今は百舟(ももふね)百千舟(ももちふね)の300万都市になるとは想像していた?いなかった?

それより掃部山(かもんやま)と読めない人が多いってことの方がびっくりなんでしょうか

ね、井伊直弼さん。(タメ口万歳)

 

余談ですが、彦根藩と横浜市はそんなご縁があってヒコニャンとも仲良しです。

 

 

 



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