ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

終日、セガンのコロックの報告書読み

2017年03月14日 | 日記
○7時30分起床、起床時室温12℃。昨夜も幾度も目覚め。熟睡感無し。
○燃えるゴミ出し。ゆるゆる登坂の上り下り。おぼつかない足取りで、追い越し車を戸惑わせている。ここは狭い生活路なんじゃ、抜け道として利用するなっ!
○セガン研究話題2つ。
*(書簡)S先生
 いかがお過ごしでしょうか。私の方は、相変わらず、目をはじめ身体機能が不全のため、思うように物事を進められない状況ではありますが、通所リハビリ、在宅リハビリに励み、無理の無い範囲で、セガン文献を読み進めております。
 さて、過日、クラムシー市より、2012年に開催されたセガン生誕200周年記念シンポジウムの報告書が送られて参りました。先生のお名前やクラムシーとの関わりの記述が見られますので、該当する文のコピーをお送りいたします。クラムシーが先生のご業績に大きく期待していることがよく理解できます。
同報告書は1冊だけしか送られてきておりませんので、先生に差し上げることが出来ないことを、お許しください。
 なお、このシンポジウムに関しては、拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)68-80頁に綴っております。
 私は セガン研究で、専門性を持たない故に白痴教育そのものには分け入らないと決意してきました。その立場からまとめたのが拙著2冊です。そして、それらに紛れ込んでしまっている史実誤認、誤評価を正すことを責務として、現在は、セガンの白痴教育プロセスを、当事史料に基づいて読み進めているところです。
 ピガール通り6の学校は、どのようなものであったのか。何人の生徒がいたのか。そこでどのような教育がなされていたのか。このような問いの簡略な「回答」は拙著『知的障害教育の開拓者セガンー孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)169頁ほかで綴っております。このことを再確認しようと思い、唯一の当事史料である救済院等の視学官フェリュスによる内務大臣への報告書を再読しました。初読では読み飛ばしてしまっていた重大な内容があります。
1. 学校の生徒は3人、と理解していた前提がぐらつき始めたこと。フェリュスは3人の子どもについての状況と教育の成果を報告しているのですがーこのことで生徒は3人だと認識してしまったのですー、うち1人とは彼は会っておらず、セガンの1839年パンフレット(アドレアン実践)をまとめたに過ぎません。
2. フェリュスが詳しく参観記録を書いているのは水頭症による白痴青年M。もう一人の女児Aについては、さほど詳しく綴っていないこと。
3. 私は、この学校での教育でセガンは集団教育のめどが付いた、と判断し、論理立てたのですが、論理は完全に破綻しました。フェリュスの報告には「子どもたち」というまとまりに対する教育の具体は何も綴られていないのです。つまり、個別教育の寄せ集め報告です。それ故、生徒が3人であった、という論理も破綻します。
4. そしてこれが、再読で得た重要な内容でありますが、フェリュスは内務大臣宛に、つぎのように綴っているのです。セガン個人に止める教育成果だとは捉えていないことが分かります。
「彼は、鉄の意志で、かつ驚くほどの忍耐力で、さらには溢れんばかりの人間性でもってこの困難な仕事の実施に立ち向かっております。
内務大臣閣下、白痴の教育、それがいかに報われることが少なく困難な仕事であるか、それを励ましてやることは、閣下の思いやりある支援そのものであると、私は思います。セガン氏によって試みられた事業は、閣下のお気遣いをいただくにふさわしいものです。彼の目的とするところを励ますにふさわしい方法の一つが、セーヌ県下の白痴のために開設されている公共の療養施設のいずれか一つでの授業に、セガン氏が取りかかれるよう閣下のご裁可をいただくことです。そのことによって、(医学治療等に)活用し、幅の広い、かつ、容易な応用が出来るようになるはずだと、私は考えます。
私としては、セーヴル通りあるいはファブール・サン=マルタンの不治者救済院に置かれている白痴の子どもの部署ないしは少なくとも痴愚の子どもの部署がいいのでは、とお伝えいたします。」
 長々と失礼しました。さまざまに葛藤する心はありますが、出来ることを進めていきたいと思っております。
2017年3月14日 川口 幸宏
*シンポジウム報告書読みから
 セガンの幼少期を含む生育史を描いているのが心理学者ダニエル・ジャロウ氏ーこの人とは前夜祭でご一緒した。シンポジウム当日、すこし会話を交わしあったーは非常に詳細な家系図を描いている。ぼくのような外国人ではとうてい及び得ない詳しさ。父方母方共に描いている。
 さて、セガンの少年期、つまり、生誕からいわゆる学童期終了までの描き方に、ぼくは強い不満を覚える。たとえば、「おそらく」という冠語を付けて、「1818年から1824年頃まで、クラムシーのコレージュの初等科に通った」とある。ぼくはこの記述を完全に否定する。教育史文化史的的常識が無い、かつセガンの著述の論理読みが為されていない、さらに、セガンが「母方の祖母の家に(子ども部屋としての)自室を持っていた」と綴っていることを完全に見落としている(無視している?)。シンポジウム当日、質問攻めにすれば良かったと後悔。
 セガンのパリでのコレージュ在籍をルイ=ル=グラン校としている。なんてこった!!根拠不明だぞ。
 セガンの息子の生誕年月ならびにその母親(セガンの最初の妻)の名前が明らかにされている!その出典が書かれていないのが残念。前者、1843年8月25日。後者、Cécilia Letroublon。他に付加情報は無い。
 セガンが主催したと推測される1848年の「労働者の権利クラブ」-ぼくが発掘したーについての記述が全くない。ちゃんとクラムシーにそのポスター(コピー)を寄贈してあるのに。これは残念なこと。
○今日のお昼はスープ。マグロの保存がそろそろ限界なのでスープに使った。贅沢。タマネギ一個、トマト1個、その他を醤油、昆布だしの汁で1時間煮込んだ。なまぐささはまるでなし。

○弘美くん、昨日階段から落ちた、とのことで診察を受け、出勤せずそのまま帰宅している。出来るだけ安静にせよ、とのことらしい。気持ちはゆらゆらだろう、でも体を治しましょうね。


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