ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

今日は1871年のパリ・コミューン(事変)勃発の日

2018年03月18日 | 研究余話
 ヴィクトル・ユゴーの1871年3月18日日記、再提示。
***
 駅にて、正午に我々が到着することを知らせる新聞を私に届けてくれる人とサロンで会う。我々が待つ。群集、友好的。
 正午に、我々はペール・ラシェーズに向けて出発する。私は屋根飾りのない霊柩車である。ヴィクトルは私の側にいる。我が友人たちすべてが後につく、そして民衆も。誰かが「脱帽!」と叫ぶ。
 バスティーユ広場で、銃を下げて移動する国民衛兵隊の儀仗兵一人がすっと寄ってきて霊柩車の回りを一周する。墓地までの全行程、戦闘態勢の国民衛兵隊の軍列が武器を提示し、軍旗に敬礼をする。太鼓が連打される。ラッパが鳴り響く。民衆は私が通りすぎるのを待ち、口を利かない、それから叫ぶ、「共和政万歳!」
 墓地に群集。柩が降ろされた。柩が穴に入れられる前に、私はひざまずき、柩にキスをした。地下納骨所が大きく開いた。敷石が持ち上げられた。私は追放以来見ることのなかった我が父の墓石をじっと見つめた。標石が汚れている。入り口が非常に狭かったので、石を削らなければならなかった。それが30分続いた。その時の間、私は我が父の墓石と我が息子の柩をじっと見つめていた。やっと、柩を下ろすことができた。シャルルは我が父、我が母、そして我が兄弟と一緒に、そこに居続ける。
 それから、私は立ち去った。墓に花が投げられた。群集が私を取り囲んだ。誰かが私の手を掴む。この人たちが私をどれほど愛していることか。そして、私も民衆をどれほど愛していることか!
 我々はムーリスとヴァッケリーと一緒に、自動車で戻った。
 私は打ちのめされる、我がシャルルよ、祝福あれ。
 -墓地で、群集の中に、私はミリエルの姿を認めた。とても青ざめそしてとても感極まった様子だった。私に会釈をした。そしてその実直なロスタンも。二つの墓の間から、一本の大きな手が私の方に差し出され、そして私にこう声が掛けられた、「私はクルベです」。同時に、私は力強く人を奮い立たせるような顔を見た。両目に涙を浮かべて私にほほえみかけていた。私はその手を強く握りしめた。私がクルベを見た最初である。
***
 図らずもヴィクトル・ユゴーのこの日の日記は、「死」と「再生」という対極にある事実で構成されている。「死」とはもちろんユゴーの愛息シャルルの葬送・埋葬であり、「再生」とは、民衆の自由意志で組織される義勇軍・国民衛兵隊と老若男女のパリ民衆とが、プロイセンの侵攻に対して武装解除をもって和平講和を結んだ国民議会政府の軍隊(正規軍)を打ち破り、政府直轄地を脱して自治都市として建設への第一歩に踏み出したパリ市の歓喜の叫びである。
 ユゴーは1848年の2月革命によって立憲王政から第2共和政へと移行した時に、パリ市から選出された立憲議会議員であった。しかし大統領となったナポレオン・ボナパルトの施策に強く反対したために祖国を追われた。イギリス、次いでベルギーに居を構え文筆活動に精を出すが、民衆派の文豪として名声が高かった。とりわけパリをヨーロッパの文化の中心だと捉えていたユゴーにとって、悲しみもさることながら、パリの「再生」に心を躍らせるものであったに違いない。また、パリの人々も、ユゴーと同じ思いであり、ユゴーとの「再会」は非常に心強いものを感じたはずである。二つの墓の間から手を出しユゴーに握手を求めたクルベは、そのパリの人々を名実共に象徴する人物である。つまり、彼は、後に、パリ自治市市議会議員となる人なのである。
 日記に綴られた事実がこれほどに歴史を形象するとは。
 だが、「死」はこれで終わるのではない。「再生」は極めて短期にしかすぎず、2か月半ほどで、凄惨な流血と破壊を伴って「死」を迎えることになる。歴史上「パリ・コミューン」と呼ばれる歴史的大事件に、文豪ヴィクトル・ユゴーがどのように関わっていたのだろうか。

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