ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

ビセートル救済院

2018年06月04日 | 研究余話
 清水寛氏の調査依頼から始まったセガン研究の中で、セガンが巨大救済院ビセートルにかなり重要な役割を果たしたと考えてしまうような氏の示唆に影響を受けて、ビセートル救済院史情報を求め歩いた。ど素人の情報収集能力などあるはずもなく、当たり前のことだが、これはと思うどんぴしゃり情報とはなかなか巡り合えないものだ。
 2004年の秋の渡仏時に、パリ1と言われるクリニャンクールの古書店に出かけた際、店主に、ビセートル史が分かる書籍があれば購入したい、と相談を持ち掛けたら、「フランスの古い施療院シリーズ」の「ビセートル」の巻を探し出してくれた。今、その現物を所有していないので、当時のメモとぼくが撮影した写真・コピーとで、概要を再現してみよう。この冊子は清水氏が必要かと思い「お土産」としてプレゼントしたが、まったくと言っていいほど、興味を示されなかったことを思い出す。あれほど、セガンが働いていた現場保存がなされているかもしれない、それをぜひ見たい、とおっしゃっていた(2003年夏)のになあ、と思ったものだ。(清水氏の妄想にしかすぎなかったのだが)

フランスの古い施療院シリーズ ビセートル
 イタリー門からパリを出ると、ビエヴル渓谷を見下ろす丘の斜面に、2階建の長い建築物が見える。石盤石で覆われた屋根裏部屋の屋根が更に高くそびえる4つの館で遮られている。有名な、ある意味で非常に有名なビセートル救済院である。

 アンシャン・レジューム期に建築された建物の解体は1847年に決定された。巨大な建築物は、誰の目にも風変わりな外観であったが、非常に実用的で、至るところ非常に清潔であった。それは、贅沢好きの工芸庇護者-シャルルV世の兄弟であるジャン・ドュ・ベリィ公爵-によって建築された封建制の様相を持った古い塔(添付イラスト)の崩壊によって、1633年に大きな建物の遺跡に面して建築されたものであった。

 しかしながら、私たちが今見ることができる建物より古い時代のものが残っている。それは古い城門である。1757年に建築されたものであり、主要な建物群の前にある。城門に書かれている「サン・ジャン=バプティストのために/総合施療院/1668年」という碑文は今もなお読むことができる。
 城門の景観は、その単純な記念碑文にもかかわらず、丸天井を備えた福音書の教会とマンサール屋根の屋根裏部屋を持つという特異な着想をそれに見るに付け、調和のとれた姿で魅力的でさえある。

 「大井戸」は1733-1735年に、建築家ジェルマン・ボッファンによる非常に素晴らしい管理の下で掘られた。彼によって我が海軍工廠の得も言われぬほどにすばらしいサロンを持つことができている。ビセートルの井戸は別の機能を持っているが、それでもやはり驚嘆に値する:その外観については驚くべきである。深さ58メートル、直径5メートル、30メートルにわたって石で築かれている;残りの28メートルは岩を穿って掘られている。水は容積270リットルという途方もない大きさの桶で汲み上げられる。かつては石に嵌めこまれていたその鉄製の取っ手は、今もなお残っている。水を汲み上げるための桶を引き上げる機械は12頭の馬によって駆動した。馬は4頭を一組にして4組ずつ巨大な巻き揚げ機の分枝に繋がれた。1781年からは人間が馬にとって替えられ、3人ずつが8カ所に据えられた分枝につなぎ止められた。72人が、それぞれ24人を一組にして、1時間ごとの交替で1日中巻き揚げ機を動かした。苦役は、労働者たちに、幾ばくかの給料が支払われた。その給料で彼らは厳格な虜囚状態を軽減することができたのである。
 アンシャン・レジュームの終わり頃、巻き揚げ機を動かすことに従事させられた囚人たちは施療院で治療を受けていた狂人や癲癇にとって替えられた。そして、1858年に水汲み上げの管理はそのつらい仕事を3台の15馬力をもつ蒸気機関に任せるようになった。今日では大井戸は名所旧跡、大変印象深い名所旧跡の物体でしかない。井戸と繋がっている、手桶によって汲み上げられた水を注ぎ込む貯水池は、井戸と同じく名所旧跡物である。

 ビセートル救済院の面積は、ポール・ブリュによって作製された地図(1890年)によれば、135,487㎡である。低湿地帯-かつて菜園であり、「野菜畑」と呼ばれていた-と所轄庭園が80,269㎡、総計215,756㎡である。
 救済院に集められた病人と囚人の年間総数は、18世紀に記された統計概算で3,000人以上を数える。

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