ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話 第3回

2014年09月17日 | 日記
続「先生様」 と筏師 
 クーランジュのセガン家の末っ子ジャック=オネジムさん、つまり後の「先生様」はベルトランさんによって、ラテン語、ギリシャ語をはじめとして、ハイソな家庭の出身にふさわしい教養の基礎をみっちりと仕込まれます。それだけでなく、医学の手ほどきも受けました。
そしてパリの医学校に進みます。まだナポレオン帝政による学制改革が為される前ですので、大学の医学部ではありません。そこで、近代精神医学の父と呼ばれるフィリップ・ピネル先生の指導の下、1805年に無事、医学博士となった次第です。学位論文は、彼が生まれ育った地域にはびこる風土病に関する問題が、主題に選ばれています。2年下には、「アヴェロンの野生児」の教育で世界をあっと言わせ、教育学や心理学、社会学などの学問の大きな進展(近代化といいます)に貢献することになった、ジャン=マルク=ガスパル・イタールさんがおりました。ピネル博士もイタールさんも、セガンが生涯の課題とした知的障害や知的障害者の教育に関して、理論的に実践的に、非常に意味ある存在となります。
 セガン親子共々深く関わり、親子それぞれが自らの道を切り開く糧としたのですから、すばらしいじゃないですか、ねえ。                  
 先生様がパリの医学校に進んだ動機が、彼の医学博士論文の緒言冒頭の一文に次のように示されております。
「マラリア熱はこれまでしばしば研究上扱われてきた。この病気は私が医学を研究するようになった地方で、そして私が医業を開く心づもりを持った地方の近くでの風土病であるが故にこそ、私は自分の問題として検討した・・・」
 ここに書かれている「地方」というのが、里子に出され、ベルトラン医師を里親として育ったドリュエス・ベル・フォンティーヌであることは言うまでもありませんね。この地方を含み、クーランジュもそして入植することを決めているクラムシーも、豊かな水源に恵まれた地域であり、特に各所から水の流れが注ぎ込むヨンヌ川は、ずーっと昔から、生活や産業用の水上交通の要路とされてきました。
「高い山もなければ海もない。しかし樫の木が豊かに生い茂るモルヴァンの森がこの地方の主産業である薪材の生産と、そのパリへの搬出のための豊かな河川を用意した」と、16世紀から18世紀のこの地方を案内する地誌学の書物があるほどです。都合がよいことに、ただ水が流れるだけでなく、一時貯蔵ができる溜め池が、何カ所も、自然にできていることです。
 とくに、樫の木を原材料とする生活・産業用の薪材の生産と搬出は、この地方の長く語りつがれた風物詩でもありました。セガンは1841年に「筏(いかだ)師たち」という小品を発表しています。その一節をご紹介しましょう。
「冬の間に山で裁断された木材が川の流れによって運ばれ、夏の間に水門あるいは筏流しが可能な小川に貯め込まれる。それからあらかじめ決められた日に、貯水された水あるいは小さな川の水源に準備された貯水池をせき止めた水門が開けられる。それから筏が始まる。非常にたくさんの男たち、女たちそして子どもたちが川辺を満たす。・・・」
 クラムシーの筏流しの準備過程の光景を綴った場面です。筏と一口に言いますが、どのくらいの大きさだと思われます?長さ30メートル、横5メートル、高さ5メートルなんですよ、概数ですけれどね。30メートルはいくつかの塊を連結した結果の長さで、だから、この筏はtrain(トラン)という名前がつけられています。くねくねと曲がりくねる河川を運行するのですから、連結車両風にするという合理的な考えなのですね。
 筏製造過程を含む筏流し産業に従事するのは、クラムシー近在の地域の老若男女、職人たち。クーランジュもそうですし、ドリュエスもそうです。そして、この筏を運航するのが筏師です。ヨンヌ川沿いに筏師が住む集落がいくつかあったようですが、19世紀の初め頃、クラムシーには400人もの筏師がいたといいます。筏一本に一人の筏師という計算ですから、この産業がどれほど賑わっていたか分かりますやんか。こうした人々をつねに襲ったのがマラリア熱であったのです。先生様は、お父さまの薪材商の仕事を通じて、マラリア熱の恐ろしさを知ったのでしょうね。もちろん、里親のベルトランさんからも教えられたことでしょう。
 先生様は博士論文の献辞に次のように書いています。
「我が縁戚、我が師、我が一番の友、ドリュエスの外科医E. D. ベルトラン氏へ。我が感謝の証として。あなたの生徒の学業の最初の果実に好意的な眼差しを向けられんことを。それはあなたの生徒に対して幸運と勇気の源となるであろう。」
この学位論文は、革命暦13年(1805年)フロレアル7日にパリ医学校に提出され報告されたのでした。主査はもちろんピネル先生、そして4人の陪査の一人が、セガンの知的障害教育の果実と思われる情景を名作『パリの秘密』で描いたウージェーヌ・シューさんのお父上でありました。縁は奇なもの、ですね。
 先生様がクラムシーで医業を開始したのは1808年10月29日でした。医師ジャック=オネジム・セガンとしての活躍の足跡は、クラムシーの監獄医、死体の検死医を務めたことを証す書類が保存されている程度であります。風土病との戦いはどうなさったのか、残念ならが、記録されたものは見いだされておらないのです。

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