ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

(完全翻訳紹介) 「教育の自由」 1850年1月15日立法院議会におけるヴィクトル・ユゴーの演説

2018年03月24日 | 研究余話

翻訳紹介にあたっての若干の解題
 原題を LA LIBERTÉ DE L’ENSEIGNEMENT とするヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の演説は、1850年1月15日の立法議会(Assemblée législative)においてなされたものである。この演説は、フランス共和国史における教育改革の重要なエッポックとなる、時の公教育大臣・ファロゥ(de Falloux)による教育改革法(ファロゥ法と呼ばれる)提案に対してなされたものであった。
 ヨーロッパのいずれの国においてもそうであるように、キリスト教の、つまりは宗教の強い影響を無視してその国、その社会、その文化、その教育を語ることは不可能である。18世紀末の大革命は、いわゆる「近代」の到来を象徴するものとして語られるが、それをもって中近世的支配の象徴である宗教支配が無くなったと見ることができるはずもない。大革命以降の「近代」は、まさしく、この宗教的影響からいかに離脱していくか、という大きな課題を持っていた。ユゴーの演説の随所に見られるように、宗教的影響は、具体的であり、日常的に及んでいた。組織的にはカトリック党という政党あるいは実戦部隊である修道士会などの活動に現れていた。「近代」の特徴である国民皆学(義務教育)に対しても、宗教者集団は、施設、設備、教材、教具、教師に至るすべての学校システムを支配下に置き、宗教教育(宗教的教化啓蒙)の役割を果たしていた。もちろん、こうした宗教教育から一刻も早く離脱した、いわゆる非宗教教育(世俗教育)の確立を願う大きな動きはあった。しかし、その動きがあるたびに、宗教者集団は巻き返しをはかり、民衆に対する影響力を拡大、拡充することを試みる。
 公教育大臣・ファロゥは「教育の自由」を法として整備することを試みた。民衆の近代的な教化・啓蒙をさらに拡充・発展を図ったわけである。この法の特徴は、「教育の自由」の名の下に、宗教者がさらに学校教育に関与することが可能となる。否むしろ、宗教者による学校教育支配の合理的理由を与えることになったと言えよう。宗教者が教員免許を交付するなどという事態が生じていく。宗教者に従順な者は<誰でも>教員となることができ、逆に宗教者に逆らう者は、たとえ教育職を務めているとしても、<誰でも>学校から追放される事実を生み出す。
近代科学・近代文明が発達し、近代的な理性が、人々に生活や労働を通して行き渡るようになっていくと、宗教的理性と相反する状況が生まれる。この二律背反こそが「近代」の初期の大きな問題なのであるが、まさにこの時期のフランスの宗教者は、近代的理性に対置して宗教的理性を人々に求めたわけである。しかしこれは何も、宗教者だけの願いではない。近代的理性を人々が豊かに持つと、資本主義の初期形成期において、それを最も嫌い、排斥したいと思う社会層が存在した。それは、寄生地主であり、資本家たちである。近代的理性を持たない従順な農民・労働者の存在こそ、彼らの願うところであった。したがって、宗教者と寄生地主・資本家たちとは、「どのような人間こそが望ましいか」という点で利害関係は一致していたわけである。もちろん、そのような人間像を形成する機関として、学校に期待するところは大きいものがある。後にフランス国民議会の政権をになうことになるティエールという議員は、このころ、「私は数学者よりも教会の鐘突男の方を、教師として好ましいと思う。」と発言しているが、まさに本心であったわけである。
 さて、ユゴーの「教育の自由」の演説の根底には、上述の宗教者集団による様々な支配に対する強い批判意識が見られる。ユゴーは「教育の自由」とは宗教者集団からの自由無くして成立し得ないと捉えた。寄生地主や台頭しつつあった資本家たちの利益代表者が多く占める議会は、彼の演説が佳境に達していくにつれて、騒然とした雰囲気に包まれる。一方でまた、資本主義が確立していく過程でその職能を奪われつつあった高級職人や、また身体一つを労賃で「契約」を結ぶ新しい雇用形態にある労働者などが、数次のフランス社会の革命を通じて、先鋭化し、台頭しつつあったし、その利益代表者たちも議会に選出されている。その他にも、ユゴーのように、近代文化の精神的な実践者、いわゆる文学者・芸術家・ジャーナリストたちもいた。彼らはまた、ユゴーの演説に深く共感し、歓呼の声をあげる。しかし、ユゴー自身はフランス社会からキリスト教を追放するという意識は毛頭無く、宗教を良心の自由の発現だとして位置づけ、キリスト教会の真の権威的復活を望んでいる。このあたりは、同じ進歩派に属するといっても、台頭しつつあった社会主義とは一線を画していたと見なければならない。
ユゴーの「教育の自由」という主張に含まれている教育論の特徴を以下のように整理することができる。
 第1に、政教分離を大原則とする。政治への宗教的影響・支配を排除する。そして、学校教育もまた同じとしてとらえている。教会による宗教教育は個人の意志で、個人の選択に任せられるべきだ、という立場を貫いている。社会的には「世俗教育」を首尾一貫すべきだという立場である。第2に、教育は国家的事業としてとらえていることが特徴である。すなわち、初等教育にはじまり高等教育に至るまで、施設・設備をはじめとして内容整備に至るまで、国家の権利に位置づけるべきだとする。このあたりについては、先に触れた、宗教者による支配的影響からどう離脱するべきかという意識が強く働いていると見ることができるだろう。つまり、国家の教育権主張は、宗教者集団の教育権に対置した概念としてみるべきであり、いわゆる国民の教育権に対置した概念ではないことを押さえておかなければなるまい。その証拠として、彼は、国家によるあらゆる教育的営みを、国民にとってみれば完全無償にすべきだ、と強く主張しているのである。そして、第3に、初等教育の完全義務化、すなわち国民皆学の主張が見られることを指摘しておかなければなるまい。そして、ただただ驚かされるのは、義務教育を「子どもの権利」として位置づけているのである。「子どもの権利」は、上述の意味での「国家の権利」と並び立つものという。義務教育を学習者の権利としてとらえたのは、おそらく、ヴィクトル・ユゴーが、歴史的にははじめてのことではないか。
 これら、「世俗教育(宗教的中立性の教育)」「無償教育」「権利としての義務教育」は以降の歴史の中で、実現に向けて、フランス社会はひた走ることになる。「ファロウ法」は1850年3月に成立する。訳出した「世俗学校のための闘い」に明らかであるが、まさしくユゴーが予言しているように、教育における宗教支配は強められていく結果を生む。が、その一方で、宗教者によって「学校」を追われた専門的教育者たちは、「教育の自由」の名の下に新たな「学校」設立の試みをする。彼らはやがて「“新しい教育”協会 la société <<Education nouvelle>> 」(あるいは「“新しい学校”協会」という記録も見られる)という組織を作り、大衆教育を試みる。それは宗教者たちが設立する「私立学校」とはまったく質の異なった「私立学校」であった。「“新しい教育”協会」は、「すべての子どものための教育は、政治・経済問題を含み、また政治・経済問題以上に、重要な問題である。」「すべての子どものための教育は、どのような思想・心情を持っていようと、すべての子どもに開放されなければならない。」「すべての子どものための教育は両性の子どもにたいして無償かつ完全でなければならない。」「すべての子どものための教育は、どのような社会的地位にあろうとも、すべての子どもの手に入る権利であり、子どもの両親・保護者の社会的義務であるという意味での義務教育である。」との根本理念をうち立て、その実現を求めて大社会運動を展開した。その最初のゴールは、ユゴーの演説の21年後の、いわゆるパリ・コミューン(「ラ・コミュヌ la Commune = la commune de Paris」)においてであった。「ラ・コミュヌ」下の教育改革については別稿している(『一九世紀フランスにおける府教育のための戦い セガン パリ・コミューン』幻戯書房、2014年)。併せて参照していただければ幸いである。
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「教育の自由」

 諸君、祖国の命運にとってこのような重大な議論が始められる場合には、即刻かつ躊躇することなく、質疑の本質に入らなければならない。
 私はとりあえず望むところを述べるが、与えられた時間内ではとうてい語り尽くせるとは思えない。
 諸君、私の考えるところでは、望むところとは、火急を要するものであり、かつささやかなことである。とはいえ、教育に関する重大な問題について、以下提案するものである。(次! 次!)
 諸君、質疑のすべては教育についての観念である。私の提案する教育の質疑についての観念、それは次のようなことである。すなわち、無償かつ義務の教育。初等教育の義務、学校教育すべての無償。(右翼席で不平の声。――左翼席で拍手喝采)義務制の初等教育、それは子どもの権利であり(ささやき)、疑いもなく、保護者の権利よりも尊く、国家の権利と同等である。
 繰り返して言う。私の考えるところ、質疑の観念は次のことである。すなわち、先ほど強調した限りでの義務と無償の教育。崇高な公共のための教育というものは、国家によって提供され経費が賄われるのであり、村の学校はもとより、コレージュ・ド・フランスさらにはアンスティテュ・ド・フランスに及ぶ各学校・教育機関すべてを含むものである。すべての知識人に開かれたすべての重要な科学の門。場があるところはどこでも、才能のあるところはどこでも、書物があるところはどこでも。小学校無きコミュヌ無く、コレージュ無き市部は無く、大学無き県庁所在地は無い。包括的な施設、換言すれば、リセ、ギムナジウム、コレージュ、講座、図書館という知的活動の場の全体網は、地方から人材を生み出し、至るところで才能を呼び覚まし、かつ、至るところで資質を育む。一言で言えば、国家の手によってしっかりと組み立てられ、多くの陽の当たらないものを引き立てるために取り付けられ、そして知性に達する人間らしい知識の梯子。まったく断絶がなく、大衆の心がフランスの頭脳と結びあうために。(長い拍手喝采。)
 以上のように私は国民公教育を理解している。諸君、このような素晴らしい無償教育に加えて、国家によって示されるところの完全な秩序のある知性を請い願い、すべて、無料で、最もよい教師と最もよい方法とを提供する。知性と教師・方法とが科学と、基準の、フランスの、キリスト教の、自由な規律とを形づくるのだ。科学と規律とは、疑うまでもなく、国民の特性を非常なまでの強靱さに高めてきている。私は、ためらうことなく、教育の自由、私教育教師の教育の自由、修道士会の教育の自由、完全な、無欠の、絶対の、一般法ならびに他のすべての自由に従った教育の自由を提案する。さらに私は、どう出るかもわからない国家権力によってそれらの自由をあれこれ識別することは、決して望まない。私は、それらの自由に対して、なべて等しく国家による無償教育を提案するものである。(左翼席でブラボー!――右翼席で不平の声。)
 これこそが、諸君、私は繰り返して言う、これこそが質疑の観念である。静粛に願う、話はまだ続く。問題の解決には重要な財政上の考え方を含まれているのだ。そればかりではない、現代のすべての社会問題が含まれている。
 諸君、この理念を明らかにする必要がある。というのは、人が、それにはじつに多様な観点がある、しかしそれを深めるには時間がない、などと言う時は、いつも反対を意味しているのだ。私は会議の一時一時を大切にする。だから私は、即刻、今日において明確で現実にある問題に言及する。私は、今日、問題が所在するところを理解している、さらに進んで言えば、一方では情勢が、他方では公共的理由が引き起こしているところを理解している。
 現在の状況から限られた、しかし現実的な観点に立って、私は教育の自由をこそ望み、宣言する。だが私は国の監督を望むとともに実効性のある監督を望む、私は宗教支配から脱した、完璧な世俗の、もっぱら非宗教の国家を望む。尊敬するギゾー議員は、かつて、私に言ったことがある、教育の事項については、国家は非宗教以外の何ものでもなく、非宗教以外の何ものであってもならないものだ、と。
 私は望み、言う、国の監督の下の教育の自由を。そして、非常に繊細かつ非常に困難なこの監督を国に具現化することを認めるし、それには、各地の活性的な諸能力のすべての選抜試験を強く要求するものである。選抜試験によって人々はより安定した職を我がものにすることは疑うまでもないことだ。かといってその人々は、良心にせよ、政治にせよ、国家的一体から離れてどんな関心も持たないということではない。
 監督特別委員会においてであろうと、小委員会においてであろうと、私は、司教を参加させないし、代表にもしないと、強調するものである。私には聞こえてくる、この古くさいが有効な、教会と国家との分離を強く願っている声が、かつて無いほどに主張するのが。それは我が祖先の憧れであった。そして教会の利益でもあり国家の利益でもある。(左翼席で歓声――右翼席で異議。)
 私は望むところを今申しあげた。ところでまだ申しあげてないことがある。
 提案されている法律を望まない。
 なぜか?
 諸君、この法律は一つの手段なのだ。
 手段というものは決してそれ自身としてあるのではない、それは、それを掌握する手を介してのみ、存在する。
 ところで、何がこの法を掌握せしめる手であろうか?
 それが質疑のすべてである。
 諸君、それは聖職者集団の手である。(そのとおり!――長い喧噪。)
 諸君、私はこの手をたいそう恐れるものである。私はこの手段をうち砕きたいと思い、この案を拒絶する。
 いうまでもなく、議論に入る。
 私は、私の観点に反対の立場への反論に、しかも明らかに重大だと思われる反論に限定して、直ちに取りかかることにする。
 このようなことが言われている、おまえは国の監督委員会から聖職者を排除するというのか?つまりお前は宗教教育を追放したいのか?と。
 諸君、私は釈明する。思い違いをしないでもらいたい、私はそのようなことを言ったこともないし、そのような考えを持ったこともないのである。
 私が宗教教育を追放することを望んでいるどころか、あなた方が強く願っているのではないのか?今も昔も、私に言わせれば、それは必要なのである。人が成長するにしたがって信じなければならない。人は、神に近づけば近づくほど、より深く神を信じなければならない。(ささやき。)
 現代には不幸がある、ほとんど不幸しかないと私は言った。不幸は全生活に及んでいることは確かである。(興奮。)世俗と実際の生活が人に目的と目標とを与えるとしても、とどのつまりは、否定によってさらに惨めな生活になる。人は、不幸な状態に落胆するばかりか、非情という、耐えられない重さを背負うことになる。それは決して苦しみすなわち神の定めなどではない、絶望すなわち地獄の掟を手に入れるに過ぎないことなのだ。(長いささやき。)そこから、社会の深部に及ぶ混乱へ。(そうだ!そうだ!)
 確かに、私は、そう、疑いもなくこの現実社会の人間として望む者である。つまり、率直に言うに過ぎず、言葉があまりに弱く、言葉にならないほどの感情を持って願うのだが、手段の限りをつくして、不幸な人々の物質的な境遇をその生活のなかで改善することを望む者である。だがしかし、まず改善のはじめにあるもの、それは人々に希望を与えることである。(右翼席でブラボー!)続いて、果てしない希望が加わった時、私たちの悲惨さは終わるのだ。(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 私たちは、私たちが立法院議員であろうと司教であろうと、司祭であろうと作家であろうと、すべての者に、あらゆる形式で、悲惨さと戦い根絶するためのすべての社会的活力を広め、積極的に与えなければならない(左翼席でブラボー!)、と同時に、すべての生命を天に昇らせること(ブラボー!右翼席で)、あらゆる魂を導くこと、公平が行き渡るところのその後の生活の方へすべての期待を向けること。単刀直入に言おう、人は不公平も無益もなく呼吸するであろう。死は再生である。(右翼席でトレ・ビアン!――ささやき。)物質的世界の法、それは公正である。道徳的世界の法、それは公平である。神はすべての終わりに再びまみえる。忘れてはならない、すべてに導くことを。もし私たちがすべてと訣別しなければならないとしたら、生きることにどんな尊厳もない、苦悩に値しない。辛苦を軽くすること、労働を神聖化すること、さらに、逞しい、誠実な、賢明な、我慢強い、優しい、実直な、謙虚で高潔さを併せ持つ、知性のある、自由な意志を持つ人間を回復させること、そのことによって、生活の闇の中にあっても、素晴らしく輝く世界をいつまでも見続けることができるようになる。(全員強く賞賛。)
 私に関して言えば、たまたま、たった今話をしており、ささやかな権威の唇に非常に厳粛な言葉を宿らせており、ここで陳述し宣言することを許されているのだが、私は最上の世界が実在することを心から信ずるものであると、この高い演壇から主張する。私が背負っている、私が人生に必要としているところの、この卑小な空想が、私には頻繁にわき起こる、絶え間なく私の眼前にある。私は、そう、素晴らしい闘争や、素晴らしい研究、素晴らしい試練のあとの強い信念を信じる、それが我が道理に対する至上の確信であり、それが我が魂に対する至上の慰めの言葉である。(深い興奮。)
 それゆえ私は宗教教育を望む次第である、心から、頑強に、熱心に。だがしかし、教会による宗教教育は望みはするが、宗教者集団による宗教教育は望まない。私は心からそれを望む、うわべだけで望むものではない。(ブラボー!ブラボー!)私はそれを、神の御許にあることを目的とすることを望みはするが、この世に生きることを目的とすることは望まない。(ささやき。)私は説教台が他のところに広がることを望まない、司祭を教育者の中に含ませることを望まない。あるいは、我が立法院議員よ、たとえ私が司祭を教育者に含むことに同意するとしても、私は司祭を監視する、私は、神学校や教育に携わっている修道士会に対して、国家の視線、つまりくどいほどに言うが、非宗教国家の視線をもってしつこいほどに、その偉大さを損なわないように、その統一性を損なわないようにと、監視するであろう。
 教育の完全な自由が宣言されるであろう日、私のすべての望みが招来する日が来るまで、そう、先にそうした条件について諸君に語ったように、その日が来るまで、教会内部での教会による教育を望むのであり、教会の外でのそれを望むのではない。とくに私は、国家の名で、聖職者によって聖職者の教育を監督することはお話しにならないことだと思っている。簡潔に言おう、私は願う、私は繰り返して言う、我が祖先が望んだことは教会はみんなのものであり、また国家はみんなのものである、と。(そうだ!そうだ!)
 本議会はすでに、私が法案を拒絶している理由がはっきりと分かっている。が、私は説明を最後までする。
 諸君、後ほど明らかにするように、この法案は、諸君らの目には、最大の、最悪の政治法だと映ることだろう。(ざわめき。)
 私は、確かに、尊敬すべきラングルの司教に訴えかけることはない。この議場内の何人に対してもそうだ。だが、法案の起草者を除いてはこの法を思いつきもしなかった集団には、輝きを失っているものの意気盛んなこの集団には、つまり聖職者の集団には、訴えかける。私は彼らが政府にいるかどうかは知らない、議会の中にいるかどうかは知らない。(長いささやき。)だが、多少とも、私は訴えかける意味があると思う。(新しいささやき。)彼らは耳ざとい、彼らは私を理解するだろう。(笑う。)つまり、私は聖職者集団に訴えかける、彼らに次のように言う。この法はあなた方の法だ。はっきりと言おう、私はあなた方を信用していない。教化すること、それは構築することだ。(興奮。)私はあなた方が構築することを信用していない。(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 私は若い世代の教育を、子どもたちの魂を、生活の中で開かれる新しい知性の発達を、新しい世代の精神を、すなわちフランスの将来を、あなた方に託したくはない。私はフランスの将来をあなた方に託したくない。なぜなら、あなた方に託すること、それはあなた方に降伏することだからだ。(ささやき。)
 新しい世代が我々の跡を継ぐのでは満足しない。若い世代が我々を継承するのだと私は理解している。ここに、私が、若い世代にかけられるあなた方の手も、あなた方の呼吸も望まないわけがあるのだ。私は、我が祖先がなしてきたことがあなた方によって壊されることを望まない。その光輝に従って、私はこの恥辱を望まない。(長く続くささやき。)
 あなた方の法は仮面を被った法である。(ブラボー!)
 あなた方の法はある事実を述べ、他の事実に及ぶ。服従の観念こそを上っ面の自由が捉える。それは贈与に見せかけた押収である。私はそれを望まない。(左翼席で拍手喝采。)
 あなた方の体質はこんなものだ、すなわち、あなた方が鎖を鋳造する時、あなた方は言う、ここに自由がある、と。あなた方が追放をする時、あなた方は叫ぶ、ここに赦免がある、と。(新しい拍手喝采。)
 ああ!私は、オウシュウヤドリギとコナラとを混同していない以上に、あなた方を教会と混同していない。あなた方は教会の寄食者である、あなた方は教会の病である。(笑う。)イグナスはイエスの反対者である。(左翼席で強い賛意。)あなた方は、信者などではなく、あなた方が理解しない宗教の狂信者にしか過ぎない。あなた方は宗教演出家である。教会を、あなた方のすることと、あなた方の手段と、あなた方の戦略と、あなた方の主義と、あなた方の野望と、取り違えないでもらいたい。あなた方の母親を、あなた方の召使いとして使うために、必要としないでもらいたい。(深い興奮。)教会に政治を教えることを口実にして、教会を困らせないでもらいたい、とりわけ教会をあなた方と一体視しないでもらいたい。あなた方が教会になしていることすべてを見よ。ラングルの司教様はあなた方にそういっていた。(笑う。)
 あなた方を得てからというもの、どれほど教会の力が弱まったかを見よ!あなた方は教会をほとんど愛しようとせず、憎むことで終始するかのように振る舞っている。実際、私はあなた方にこういう(笑う)、教会はあなた方なしでも充分であろう。あなた方なしのままにしておいてもらいたい。あなた方が教会にいなくなったならば、人々は再び集い来るであろう。この聖なる教会を、この聖なる母を、その孤独のままに、その放縦のままに、謙虚さのままにしておいてもらいたい。これらすべてがその威光を顕現させるのだ!その孤独が民衆を引き寄せる、その放縦こそが支配力であり、その謙虚さこそが威厳である。(強い同意。)
 あなた方は宗教教育を謳う!あなた方は本当の宗教教育がどんなものか知っているのか?それはぬかずかせようとしなければならないのであって、不安に落とし込ませてはならないのだ。それは瀕死の人の枕元にある思いやりと同じようなものなのだ。それは奴隷を救済する恩恵と同じようなものなのだ。それは捨て子を救済する使徒パウロである。それは大勢のペスト患者に献身したマルセイユの司教である。それは、相当離れた地のサン・アトアンヌに赴き、内乱のさなかに十字架を掲げた、すなわち、死に見舞われることをほとんど恐れず、平和をもたらした、パリ大司教である。(ブラボー!)ここに本当の宗教教育、実際の、奥の深い、実効のある、そして大衆の宗教教育がある。なのに、あなた方は自らを解体しないで、宗教と人間性について巧妙にも、まだキリスト教徒のような振りをしている!(左翼席で長い拍手喝采。)
 ああ!私たちはあなたたちのことを分かっている!私たちは聖職者集団のことを分かっている。奉仕という職業を持つ老かいな集団なのだ。(笑う。)正教会の入り口で歩哨に立つ集団なのだ。(笑う。)驚いたことに、無知と誤謬というふたつを真理のために見いだした集団なのだ。科学と天分に対して祈祷より先に進むことを禁止し、教義の中に思想を閉じこめることを願う集団なのだ。すべての足跡をつくったのはヨーロッパの知性であるが、それは聖職者集団の意に逆らったものであった。その歴史は人間の進歩の歴史に書かれている。しかしそれは書物の裏面に書かれているのだ。(興奮。)すべてにおいて反対なのである。(笑い。)
 聖職者集団は、星は落ちないと言ったために、プリネリを鞭で打った。彼らは、宇宙の数は果てしないと断言し、創造の謎を見た、というのかとの質問を27回、カンパネラに繰り返した。彼らは、血は循環すると証明したために、アルベイを迫害した。ヨシュアの名において、ガリレィは監禁された。サン・ポウルの名において、クリストフ・コロムは投獄された。(興奮。)天体の法則を発見すること、それは不敬虔だった、宇宙を知ること、それは異端であった。彼らは宗教の名においてパスカルを、道徳の名においてモンターニュを、道徳と宗教の名においてモリエールを破門制裁にした。おー!そう、もちろん、あなた方が何であるのかということを、あなた方がカトリック党を名乗り、宗教者集団であるということを、我々はあなた方について知っている。人の良心があなた方とあなた方の要求に反逆してから、すでに長い時が経っている、あなた方は私たちに何を望んでいるのか?あなた方が人の心に猿ぐつわをはめようとしてから、すでに長い時が経っている。(左翼席で歓声。)
 あなた方は学校教師になることを願っているのか!あなた方が受容する詩人も、文筆家も、哲学者も、思索家も、一人もいないのに!天分、つまり、文明の宝、世紀単位で受け継がれた財産、知識の共有資産によって、書き表され、発見され、想像され、推論され、啓示され、考案され、考察されたすべてを、あなた方は締め出すのか!人性の頭脳が、あなた方の目の前で、あなた方の裁量次第で、書物のページを開けたとしたら、あなた方はその字句を削除するのか!(そうだ!そうだ!)それが都合がよいのか!(長いささやき。)
 とにかく、一冊の書物がある。始めから終わりまで、すぐれた発露のように見える書物、コーランがイスラムのためにあるように、ベーダがインドのためにあるように、世界のためにある書物、神の英知によって照らし出された、人間の英知のすべてを語る書物、人々の崇拝がル・リーヴルという名で呼ぶ書物、バイブル!おや!あなた方の検閲はそんなところにまで及んでいた!驚くべきことだ!教皇たちがバイブルを追放した!賢明な精神にとってどんなに驚くことか、単純な心にとってどんなに不安になることか、神の書物の上にローマの禁書目録が位置づけられているのを思い描くことが!(左翼席で強い同意。)
 さて、あなた方は教育者の自由を主張している!どうぞ、しっかりと聞いてもらいたい、我々にはあなた方が要求する自由について聞こえてくるのだ、それは教育者の自由などではないのだ、と。(左翼席で長い拍手喝采。――右翼席で激しい抗議。)
 ああ!あなた方は民衆を教育したいと望んでいる!大変けっこうだ。――あなた方の生徒を見よ。あなた方の製品を見よ。(笑う。)あなた方はイタリアで何をしたか?あなた方はスペインで何をしたか?久しい以前から、あなた方は、あなた方の分別において、あなた方の学校において、あなた方の叱咤のもとで、このふたつの偉大な国を、名士中の名士を、手中に収めた。あなた方は何をなしたのか?(ささやき。)
 私はあなた方に言う。あなた方のおかげで、その、ものを考えるどんな人も、子としての何とも言い表せない苦痛を持って、もはやその名を口に出していうことができないイタリア、この、全世界に詩作や芸術の非常に驚嘆すべき傑作を普及させた、天分と国家の生みの親イタリア、人類に読書することを教えたイタリア、そのイタリアは今日読み方を知らない!(深い興奮。)
 そう、イタリアは全ヨーロッパ諸国のものである。そこでは読み方を知る人がほとんどいないのだ!(右翼席で抗議。――荒々しい叫び。)
 すばらしく恵まれたスペイン、最初の文明はローマと、次の文明はアラブと、神意によって、つまりはあなた方の意に反して、アメリカ世界と、交流し合ったスペイン、そのスペインは、あなた方のおかげで、あなた方の支配のおかげで、堕落と衰弱のくびきとなる白痴状態に墜ちてしまった。(左翼席で拍手喝采。)スペインは、ローマと交流した力強さそのものの秘訣を見失い、アラブと交流した工芸の天分を見失い、神と交流した世界そのものを見失い、あなた方が見失わせたすべての代わりに、スペインはあなた方の宗教裁判所を受けいれた。(ささやき。)
 今日、宗教裁判所を、ある人たちは内々で、復権させようと試みているが、私はそのことに敬意を払う。(左翼席で長い嘲笑。――右翼席で抗議。)宗教裁判所、それは、5万人を薪の山の上で燃やすか監獄に閉じこめたのだ!(右翼席で否定。)歴史を読め!宗教裁判所、それは、火あぶりによって死せる者たちと異端者たちとを蘇らせた(そのとおり!)、ウルジェルならびにアルノウ証人、フォルカルキエ伯爵だ。宗教裁判所、それは子どもたちに監獄を宣告した、第二世代にまで及んでだ。おぞましくかつどんな公的な名誉も受けられないものであった。ただひとつ例外は、決定のきちんとした言葉であった、おのが父を告発したであろう者たち!(長いささやき。)宗教裁判所、それは、私が今話している時にも、ヴァチカンの図書館の中にガリレイの手書きのものをしまい込んでいるし、禁書目録に封印したままである!(喧噪。)まさしく、あなた方がスペインから奪ったもので、またスペインに与えたもので、スペインを慰めることに対して、あなた方はラ・カトリックという異名が与えられる!(右翼席で不満の声。)
 ああ!あなた方は知っているか?あなた方はかの非常に偉大な人から奪い取ったのだ、あなた方を非難するこの悲痛な叫びを、<<それがラ・カトリックであるよりはラ・グランドであることの方を、私はより好ましいと思う!>>(右翼席で叫び声――長い中断――何人ものメンバーが荒々しく演説者に釈明を要求する。)
 それがあなた方の代表作である!イタリアがそう呼ばれた暖炉、あなた方はそれを消した。スペインがそう呼ばれた巨象、あなた方はそれをやつれさせた。前者は灰燼と化し、後者は瓦礫と化した。それが、あなた方がふたつの偉大な国の人々に為したことである。あなた方はフランスに何をしたいと望んでいるのか?(長いささやき。)
 あなた方はローマに由来する、それを維持せよ。私はあなた方にそう申しあげる。あなた方はそれですばらしい成功を収めた!(左翼席で笑いと喝采。)あなた方はローマの人々に猿ぐつわを噛ませたばかりである。今はフランス人に猿ぐつわを噛ませようと望んでいる。私は理解している、前者はさらにいちだんと首尾よくいった、そこで、見張りをしようと試みる、それは難しい、で、後者はまったく生き生きとしたライオンだ、と(喧噪。)。
 一体あなた方は何を求めているのか?私はそれをこれから言う。あなた方は人間の理性を求めている。何のために?なぜならそれは昼間に生ずるからだ。(そうだ!そうだ!――違う!違う!)
 そう、あなた方の邪魔をすることについて言ってやろうか?それは、けたはずれの量の自由の光、すなわち3世紀におよぶ自由なフランスである。道理という既成の光、当時よりも今日の方が輝いている光、フランスの国民を開明的な国民にした光、フランスの輝きを世界のすべての人々の表情に見る、そういったもの。(興奮。)そうなのだ、フランスのこの輝き、この自由の光、このまっすぐな光、ローマからは来ない光、神から届く光、それがあなた方が消したいものだ、それが私たちが持ち続けたいものなのだ。(そうだ!そうだ!――左翼席で拍手喝采)  私はあなた方の法を拒否する。私は、法が私教育を独占するが故に、法が中等教育を悪化させるが故に、法が科学の水準を低めるが故に、法が我が祖国を弱めるが故に、法を拒絶する。(興奮。)
 フランスが、取るに足りない理由で、減少させられるたびに、例えば1815年協定による領土の減少、あるいはあなた方の法によってもたらされる崇高な知性の減少のように、そのたびに、私は胸の締め付けられる思いを持ち、恥ずかしい思いをする人間であるが故に、私はあなた方の法を拒否する!(左翼席で大きな拍手喝采。)
 諸君、終えるにあたって、高い演壇から、聖職者集団に、我々に侵入する集団に、訴えかけることをお許し願いたい(聞け!聞け)、真面目な忠告だ。(右翼席で不満の声。)
 法に能力が欠落しているのではない。状況が助けて、強くなる、非常に強くなる、過度に強くなりすぎる!(ささやき。)混じり合った、何ともひどい国家のもとの国民を保持するコツを法は知っている。そのコツは死でもなく、かといって生でもない。(そのとおり!)それは国民を統治することを要請している。(笑い。)
 それは傀儡による統治機構だ。(笑う。)だが、それを監視するなら、フランスでは次のことは決して起こらない。このフランスで、次のような考えを自由に思いつかせたままにする、ただただ思いつかせたままにすることは、恐るべきお遊びである。その考えとは、至上権を持つ坊主ども、曲げて取られる自由、征服され束縛を受けた知性、破れた書物、出版物代わりの説教、スータン(僧衣)の影によって心にもたらされる暗闇、そして用務員によって屈服させられる天分!(左翼席で喝采――右翼席で怒り狂った否定。)
 そのとおり、聖職者集団は悪賢い。だが昔からであることには変わりない。(嘲笑。)何だって!彼らは社会主義を恐れている!何だって!彼らは、おのが言うがままに、上げ潮に乗ることを期待している。そしてその上げ潮に乗って、社会主義に反対する。少なくとも私はどんな障害物も隙間があるとは知らない。彼らは上げ潮に乗ることを期待している。そして、彼らは、社会主義を禁じ、社会的偽善と物的抵抗とを組み合わせれば、また彼らは、憲兵がいないような至るところにイエズス会士を配置すれば、社会が救われるだろうと思いこんでいるのだ!(笑いと拍手喝采。)何とあわれなことよ!
 繰り返して言う。聖職者集団は19世紀が自身に相反することに気をつけるように。固執しないように。奥深くかつ新しい天分に満ちた、この大いなる時代を支配するのをやめるように。そうでないなら、怒らせることに成功しないだろう、現代の重大な局面を軽々と発達させるだろう、そしてすさまじい可能性を生ぜしめるだろう、と。そう、強調するが、教育が聖具納室で、政府機能が告解室で生み出されるシステムを持って!(長い中断。大声:動議!!右翼席の何人ものメンバーが立ちあがる。議長とヴィクトル・ユゴー議員が討議を交わす。が、我々にはまったく伝わらない。違法な騒ぎ。演説者が右翼席の方に身を向けて再び続ける。)
 諸君、あなた方が言うところによれば、あなた方は教育の自由をきわめて望んでいる。ならば、演壇の自由を多少は望むことに努めよ。(笑う。騒ぎが収まる。)
 かたくなで致命的な論理を、人々自身の意に反してもたらし、悪のために豊かにする教義を持って。歴史の中に教義を求めると恐ろしくなる教義を持って……(新たな大声:動議!!演説者、中断する:)
 諸君、聖職者集団は、私があなた方に申したことだが、我々を侵攻する。私は彼らと戦う。それで、この集団がその手で法を提案した時に、その法案を検討し、その集団を検討することは、立法院議員としての我が権利である。あなた方はそうすることを邪魔しないでもらいたい。(トレ・ビアン!)私は続ける:
 そう、このシステム、この教義、この歴史を持って、聖職者集団は、彼らがいるところはどこでも、革命が引き起こされるだろうということが分かっている。至るところで、トルケマダを回避するために、ロベスピエールに身を投げ込むだろう。(興奮。)ここに、カトリック党と呼ばれる集団によって引き起こされる、憂慮すべき公共の危険がある。私と同じく、国民のために、無政府状態の大混乱と祭司の無気力とを恐れる人たちは、警告の叫びを発している。今やその時、そのことはしっかりと考えられている!(右翼席で騒がしい叫び。)
 止めていただきたい。叫びとささやきとが私の声をかき消している。諸君、私はあなた方に、扇動者としてではなく誠実な人間として、話している。(聞け!聞け!)さあさあ、諸君、はからずも、私はあなた方にとって疑わしいとでもいうのか?
 右翼席での叫び。―― そうだ!そうだ!
 ヴィクトル・ユゴー議員。―― 何だって!私があなた方にとって疑わしいだと!そう言うのか?
 右翼席での叫び。―― そうだ!そうだ!
 (言語に絶する喧噪。右翼席の一集団が立ちあがり、演壇の冷静な演説者に声を掛ける。)
 では!その点について、私は釈明する。(沈黙が戻る。)これはいくらか個人的な事柄だ。あなた方はあなた方自身を挑発したと、私は思うが、説明を聞いてほしい。ああ、私はあなた方を疑わしく思う!それを何だって!私があなた方を疑っているのだ!昨年、私は危険な状態の秩序を守ったし、今日、脅かされている自由を守っている!そして、危険な状態に戻るのならば、明日は秩序を守るだろう。(ささやき。)
 私はあなた方を疑っている!だが、私が、6月のバリケードにおける流血を警告して、パリの代表者の任期を終えた時、私はあなた方を疑ったろうか?(左翼席で喝采。右翼席で新たな叫び。喧噪が再びはじまる。)
 では!あなた方は断固自由を守る声を聞こうとさえしない!私があなた方を疑えば、あなた方は私を同じように疑う。私たちの間を祖国が審判を下すだろう!(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 諸君。最後の言葉だ。私は、難しい時間の中で、さきほど受けた、説明しがたい少しばかりのサービスの中で、おそらく幸いにも秩序を取り戻すことができた一人だろう。
 そのサービスが忘れられてしまったようだ。繰り返しては言わない。が、私が話をしている時に、私にはそれを受け取る権利がある。(違う!違う!――そう!そう!)
 では!この過ぎ去ったことを強調して、私は、確信を持って、宣言するものである。フランスには秩序あることが必要である、が、進歩する、生き生きとした秩序が必要であるのだ。つまり、民衆による当然の、穏やかな、自然な成長の結果であるような秩序である。国民の知性のたくさんの威光によって結果と理念とを同時に生ぜしめた秩序である。それはあなた方の方とはまったく反対のものである。(左翼席で強い同意。)
 私は、この気高い祖国のために、自由を望む者である。そして、抑圧は望まない、継続する成長を望み減少は望まない、支配は望むが隷属は望まない、栄華は望むが無は望まない!(左翼席でブラボー!)なんだって!ここにあなた方が私たちに提案した諸法がある?何だって!あなた方の政府、あなた方の立法院議員、あなた方は自身を固守したい!あなた方はフランスを固守したい!あなた方は人間の思想を硬直化することを望んでいる。神の火を消すことを、精神を物質化することを望んでいる!(そうだ!そうだ!――違う!違う!)だが、つまるところ、あなた方は、あなた方が生きる同時代の人たちのことが見えていないのだ。(深い興奮。)
 何だって!この世紀、新しい、到来の、発見の、征服のこの偉大な世紀において、立ち止まったままでありたいと夢見ているのだ!(トレ・ビアン!)希望ある世紀において、あなた方は絶望を宣言している!(ブラボー!)何だって!疲れた肉体労働者のように、栄光、思想、知性、進歩、将来をあなた方は大地に投げ捨てている。そして言う、充分だ!さらに進まなくても、と!(右翼席で否定。)つまり、とにかく、あなた方は見えていない。あなた方の周りで、あなた方の上で、あなた方の下で、あらゆるものが進む、あらゆるものが生じる、あらゆるものが動く、あらゆるものが成長する、あらゆるものが変化する、あらゆるものが新しくなる、ということが。(ささやき。)
 ああ、あなた方は立ち止まるのか!では、私は深い苦しみを持ってあなた方に繰り返す。私は破局と崩壊とを憎む。私はあなた方に根っからの死を警告する。(右翼席で笑う。)あなた方は進歩を望まないのか?あなた方は革命にさらされるだろう!(深い喧噪。)まったく非常識な人々に言う、揺れる大地に対して、人間は動かないだろう、そして、神は答えてくれる!(左翼席で長い拍手喝采。)
 (演説者が、演壇から降りたところで、褒め讃える人たちの渦に取り巻かれる。議会は熱烈な感情に包まれて解散する。)


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