ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

今日もだらだら生活

2016年01月13日 | 日記
○7時半起床。6時に目が覚めたが二度寝。夜中の目覚め2回。夢ばかり見ていた一晩だったような気がする。リアリズムの夢。
○しゃんとしないのは気持ち悪いものだ。ふらふらするかと思えばそうでもない。まったく運動的なことをしないのがいけないのかとも考え、天気もいいので、郵便局へ。以下の手紙を携えて。
「KS先生
 たびたび失礼します。
 セガンを学び始めた時から気になっていた1866年著書に示されたfree education概念について、セガンがどのような文脈でどのような意味として使用しているのかを、入念に検討致しました。今回刊行致します1843年論文の翻訳書の解説の末尾に、以下のように書き加えることにいたしました。
 これで、安堵致しました。ご笑覧下されば幸甚に存じます。
 寒さが厳しく迫ってまいります季節柄、御身大切にお過ごし下さいますよう。
                       2016年1月13日   川口幸宏
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 最後に、セガンが立脚する思想と白痴教育とのかかわりについて、述べておきたい。
 セガンがサン=シモン主義者(サン=シモン教徒)であったことはよく知られている。『新キリスト教』を遺著としたサン=シモン(1760‐1825)を祖とするサン=シモン教の宗教家族の一員に迎え入れられたのは1831年5月9日のことである。パリ法学部(現在のパリ第1大学)第2学期在籍中のことであった。その前年にはいわゆる「7月革命」が起こり、セガンも果敢にかかわった痕跡が見られるから、サン=シモン教への帰依はそれと関係しているのだろうか。
 セガン自身が自らがサン=シモン主義者の立場から白痴教育にかかわったと明言したのは、じつにアメリカ合衆国への移住後であった。1856年に発表された論文「白痴たちの治療と訓練の起源」にも少しく触れられているが、なんと言っても、1866年刊行の大著『白痴、ならびに生理学的方法によるその治療』である。当該箇所をあえて原文で紹介しよう。
 The Christian school (St. Simonism), striving for a social application of the principles of the gospel; for the most rapid elevation of the lowest and poorest by all means and institutions; mostly by free education.
 これは、わが国の大方のセガン研究者にとって、セガンが白痴教育と社会解放(階級解放)とを結び付けていた意識の表れであり、その実践もなされていたとの理解をもたらすものであった。つまり、「無償教育」(free education)を主要な手段として、最も低く貧しい階級の速やかな向上のために、サン=シモン主義者たちは闘った、セガンもその一人であった、との理解である。
 1830‐1840年代のフランスの教育状況を説明する中で、第1の王侯・貴族等特権階級のための教育、第2の当時進展しつつあった資本主義的な能力に応じた分配のための教育に続いて、第3として「サン=シモン学派(サン=シモン主義)」について記述されている。第1、第2の立場では、当然、白痴教育は埒外に置かれていたわけである。時代状況で言えばサン=シモン主義思想などの、未成熟とはいえ、社会主義思想などとそれらに基づく社会・労働運動なども起こってはいるが、フランス歴史学では「冬の時代」と称されるように、それらの運動は徹底した弾圧政策の下に置かれていた。表立った主義主張のプロパガンダは「秘密結社」のような組織でなされていた。だから、原文にあるby all means and institutions; mostly by free educationを「あらゆる手段と制度によって、とりわけ無償教育によって」だと我が国のセガン研究では定説化されているように理解してしまうと、セガンの白痴教育論は実際的なものではなく理念的なものであったにすぎない、と評価せざるを得なくなる。
セガンの白痴教育の事実に即して原文を読み直したい。セガンは、家庭教師からの立場での私教育としての、あるいはピガール通りに設立した教育施設での公教育としての、さらには救済院など棄民施設における、制度上は医療実験の一環である医療的教育としての白痴教育を行ったことは、「1843年論文」(本書)内容から十分にくみ取ることができる。これらの白痴教育の機会と場について論及しているのだと理解すべきだろう。ならば、これらの機会と場を貫いていたのがfree educatuionだというが、それは果たして「無償教育」だったのだろうか。セガンの母語ではl’éducation gratuiteである。セガンの著書・論文を紐解いてもそれに相当する語句は登場してこない。私教育や公教育での白痴教育を無料で行ったとも考えられ、事実そのような解釈もなされてはいるが(例えば、1880年、セガンの死去に伴う葬儀の場での弔辞など)、私はそれには無理があると捉えている。私教育はいわゆる家庭教師だし、公教育は妨害があった故に入学者確保に大きな困難が生じたと、相当額の損害賠償の訴訟を起こしてもいるのだから。また救済院での教育が有償か無償かを問うまでもなく、棄民された子どもたちを強制収容する機関が救済院であるので、子ども側からなにがしかの金銭を取る、ということはあり得ない。ましてやセガンは被雇用者なのである。
だとすれば、mostly by free educationとはどのような意味なのか。本書を丹念に読めば分かるが、それまでの教育方法にこだわらず、教育の対象者に応じた教育方法を案出し創造していたことだ。つまり、既成の教育方法からは自由なものであった、という意味となる。事実としてセガンは、当時行われていた一般の教育の在り方を痛烈に批判し、白痴教育には「自由な教育(une éducation libérale)」が望まれる、と強く主張をしているのである(本書第22章を参照されたい)。
以上のことなどを考えると、『1866年著書』の引用原文は、「キリスト教学派(サン=シモン主義)は福音書の諸原理を現実に適用する努力を重ねた。あらゆる手段・施設を通じて、最も劣りかつ最も哀れな人々(the lowest and poorest)を速やかに向上させようとするものであり、ほとんどすべてが独自に組み立てた教育(自由な教育)によるものであった。」と理解されるのがふさわしいだろう。」
○コーヒータイム