千秋小梅日記

コミティア参加サークル「千秋小梅うめしゃち支店」を運営する小津端うめからの連絡、雑感、感想などです。

マクロスFに関連して思ったことその3

2011年05月10日 15時35分08秒 | アニメ
映画「ゲド戦記」に対する文句でまた多かったのが、「なんで父親を刺すの?」というものです。
他に、「原作をないがしろにしている」という至極最もな意見もありました。でも、原作無視の点では正直なところ、ハウルのほうがもっと酷いと思ったので、自分はあまり気になりませんでした。
話を戻すと、「なんで父親を刺すの?」という疑問、その客の疑問に最後まで答えず、さっぱりした表情で帰っていくアレン、最後まで見て、納得いかない人がいるのは、今こう書いていて分かるなぁと思いました。

しかし、このはなしって、「何の理由もなく」「自分にもさっぱりわからず」「衝動的に」「父親を刺したくなる」という感情を「あることを認めつつ」「この先どうしたらいいのか」考える若者の話だったのではないのかしら。
理由はわからないけど、そういう感情があることを「認める」。
過去にあると思われる原因を正すよりも、「今、どうすべきか」迫られる。というお話。

まず、父親を刺したくなるという気持ちを認められない人は、この映画は見たくないと思う。多分、感情的に「父親を全く100%嫌っていません」と言い切れる人は大っ嫌いな映画だと思う。
社会の中で「人を憎んではいけません」というタテマエが以前より強くなり、今回の東京都条例もその流れの影響を受けていると思います。つまり、公共の作品で、「人を憎む」というのは、それなりの演出や芸を用いて「そう思ってもしょうがないよね」「それは必要悪だよね」「相手がこんなに悪人なんだから」と思わせるくらいでないと描けない感情に、なりつつないかしら?
そこで、なんの芸もなくその感情をもろに表現してしまったら、そりゃ、叩かれるよなぁと嘆息を禁じえない。
でも、私はその闇に置かれる感情を無様に表に出したところがこの作品の一番のキモだったと思います。

そして、起きてしまったことは取り返しが付かないことなのです。
取り返しが付かないことをどう償うのかというと、日本人で一番最初に思いつくのは自ら死を選ぶこと。
でも、それこそTVやらCMやらでは「何があっても死んではいけない」の大合唱。
じゃあ、死なないけど、生きたいという意思もなく、とりあえず生きている。すると「のうのうと生きている」と言われる。
映画のアレンを責める人はきっとこんな気持ちなんだろうなぁ、と創造していました。
じゃあアレンはどうすればよかったのか?「何か人の役に立つことをして償え」と言われるんじゃないかと思う。でも、それが自分の好みや意思と合わないもので、やっていて苦痛だともし言ったりしたら。
「反省が足りない」と言われるのが目に見えている。だから言わない、本人は生き生きとした気持ちもないまま、言われるままに動くしかなくなる。
あの映画はそれを拒否している。父を刺したといっても責められず、家族会議みたいな話し合いなんてさせられず、逃げたままで放っておかれ、笑顔が戻るのを待つ映画だった。そんな映画は嫌われるに違いない。
そして、付け加えるなら、そんな反省の足りないように見え、立派なことをやろうとしないアレンでも関係なく愛してくれる人達が現れる映画であった。国に帰ることが出来たのは、たとえ死ぬことになっても、自分を愛してくれる人がいると自信を持てたからだと思います。その位実は人に愛されることは大事だし、愛の力はすごいものなのだと思うので、あの結末には個人的にはあまり不満はなかった。

マクロスFに関連して思ったことその2・ゲド戦記のことも含めて

2011年05月06日 00時52分52秒 | アニメ
 前回の内容で、「光の内容が大切なのではないか」と言ったことをもう少し話しておきたい。ちょっとお付き合いください。
 ジブリ作品について以下書きます。「アリエッティ」好きな人は飛ばしてください。
 さて、そういう話題になると思い出すのが映画「ゲド戦記」です。もう忘れてる人が多いでしょう。とにかく酷評だった。ネットの中では酷評を超えてまるで魔女狩りの民衆もかくやと思えるほどの大きな熱狂になってました。
 そんな映画を僕は生まれて始めて2回映画館に行って見ました。酷評するためでなく、面白かったから。お金を払った量によって発言権があるなら僕にはその資格があると思う(笑)。だから、話題にします。
 何がそんなに面白かったのかというと、作り手の熱い思いがむんむんと伝わってくるところです。父親を刺したいほどの訳の分からない衝動はどうしたらいいのか。それから逃げたい気持ちと、何とかそれを光の差す場所に引っ張り出すんだという気持ちのせめぎ合い。テーマを全うさせるためには国に帰って父親にその衝動を告白するところまでやるべきだったと思いますが、そこまでお子様に過酷な現実を見せられなかったんじゃないかな。
 テーマは、飾り気のないストーリー展開、とことんシンプルで見慣れた絵、削りまくった登場人物、これ、という特徴がはっきりとしないキャラクターによってさらにくっきりとされます。

 私見では、酷評の内容にはこれを反転していたものが多くありました。いわく、「ストーリーが単調」「世界が狭い」「絵が下手、変、古い」「人間関係が狭すぎ」「キャラが可愛くない」「キャラが怖い」等等。
 そこに「ジブリなのに」という枕詞が付くことも多かった。
 2回も見ると確かにそれは欠点だった(笑)。さすがにもう少し話にふくよかな面も欲しかったし、もう少し絵が上手ければと思う点も多々あった。
 
 それからしばらくして、「ポニョ」の製作風景を記録したTVの中で、宮崎駿が「ゲド」を見て言った言葉「気持ちで映画を作っちゃいけない」を聞いて、最初はよく意味が分かりませんでしたけど、時間が経つにつれて、「上手く言い表してるなぁ」と納得しました。
 丸谷才一氏が小説を批評する時に、「ストーリー、キャラクター、文体」に分けてする、と言っているんです。それを援用すれば、映画は「ストーリー、キャラクター、演出」で評価すればいいのかなと考えた時に納得しました。
 気持ちをストーリーに込めた、でもそれだけじゃ映画としての評価に値しない…と言ったのだと納得したのです。うん。そういう目で見ると「ゲド」は駄目駄目だな(笑)。
 しかしね、他が駄目駄目な分、ストーリーが光ったわけです。そりゃハヤオさんなら全て出来るでしょうが、自分の才能がどんなものだか未だ分からない新米監督は一点集中でやって、そこだけ強烈な光を放つように創ってもいいんじゃないかなぁとも思ったのでした。

 それを思ったのは「アリエッティ」を見たとき。正直に言って、熱が伝わってこなかった。個人的には、上記の3つがどれも無難な創りだったのがそういう感想を抱いた原因だった。焦点が合わないのだ。どれも「これでなくては!私はこれでいくんだ!」という熱を感じなかった。全てが淡い光で照らされているようだった。
 「ゲド」でぼろぼろだった演出はよくなっていた。けれどその演出はジブリの枠をきちんと辿って不快さは排除され、見た人が「あぁジブリだね安心だ」と思えるような配慮がされてんじゃないかと思うくらいだった。僕がそういう感想を持ったのは明らかに「ゲド」の時の「ジブリのくせに」が頭にあった。そう、外見はジブリらしい、実にジブリらしい作品だった。勿論、そこから「千と千尋」の豚や「ハウル」の敵の泥兵士や「ポニョ」の奇怪な両親のような影の要素は上手に除外されている。
 そして「アリエッティ」は吃驚するくらい好意的な批評をされ、無事公開を終えた。その過程において、僕はひねくれた答えを得ました。「つまり、皆がジブリに一番望むのは、自然保護とか心理世界とか戦争と平和とかというストーリーじゃなくて、実は「ジブリらしいトトロのような」演出なんだ」とね。
 
 でもねぇ、世間の評価はそうであっても、僕はやっぱり影がなくってのっぺりした光より、影があるからぎらっと輝くお話がいいよ。
 
 光の内容について書く前に、光の内容を入れる枠の話になってしまった。でも、この2つを混合して話をすると、まとまらなくなるので、まずこちらから。それに、大体光の内容に腹を立てる人は、それ自体をなじるんじゃなくて、枠のことをなじるもの。だって、枠の方がまだ言葉にしやすいからね。
 次回、続き。「ゲド」の酷評には「父親を刺す訳が分からない」とかあった話から影を見ることについて。

マクロスFに関連して思ったことその1

2011年05月05日 22時53分18秒 | アニメ
 劇場版マクロスF~サヨナラノツバサの1シーンで、シェリルというヒロインが刑務所に入っている人達に向けて、「野郎共、逃げ出すよっ!」と言ってるシーンがありました。
 そのシーン自体はそんなに大した意味はないんだけれども、それを見ていたとき、思い出したのは例の東京都の条例のことです。
 実際これがひっかかるのかどうかわからないですが…というか、その「分からなさ」込みで話をすべきなのだとここまで書いて気付いた。話題を進めましょう。
 このシーンは本当に大したことない。作品全体の中では些細なものだ。
 …もしかしたら、このせいで何か言われるかもしれない。
 …だったら無くてもいいんじゃない?
 ・・・という風に考えてもいい位些細なシーンだったと思う。
 ここで、「いや、お前の見方が浅はかなのだ。このシーンが無くっちゃ意味が無いじゃないか」という意見があるかもしれませんが、それに対しても「だって判断する人が何者なのかも曖昧なままじゃないですか。もしかしたら浅はかな判断する人かもしれないじゃないですか」と答えるとして。更に話を先に進めます。
 
 まぁそういう風にしていって、子供に悪影響を与える言葉を除外していって、同じ面白さを味わえたのか?と考えましょう。つまり、物語の本質には関係ない言葉で、悪い(と思われる)言葉をとことん除外していくんですよ。まずイントロの歌詞「あなたの遺伝子を 私の中で混ぜて」はNGだな、とか(笑)。言葉じゃなくてもいいね、グレイスがあんなに露出激しい必要は無い、とか、水着はセパレート禁止!とか、ホント碌でもなくて笑うしかないことをやってみましょう。
 ラピュタにおけるムスカの名台詞「見ろ、人がゴミのようだ!」。あれだって、結構酷い台詞じゃないですか、よく考えたら。そして皆口真似したことあるでしょ?あんなに影響力のある言葉はそんなにない(笑)。だから、あれを「わはははは」と笑うだけに変えてみましょうよ。それとか「落ちていく、落ちていく!」と言わせたって良い。それなら状況説明だけの言葉だからOKとして。
 「全然変わりない」と答える人もいるのは込みで言わせてもらいます。全然違う。
 
 良いもの、問題ないものだけ集めたらもっと良い物になるかと言えばならない。それは、害のあると思われているもの、悪いと思われているものもその影に存在するものだからだと思う。影をなくせば光は鮮やかにならない。酷いことを言えば、光が弱ければ影も弱いし、光が強ければ影は強いのだ。読み手にとっての本当の問題は光の内容であって、影の内容ではないのではないか。