(今回は、あまりパチンコとは関係のない話…)
前回、局地ネタの「JR代々木駅パチンコ店マップ」(1996年)を紹介した。
あの界隈は個人的にも思い入れのあるエリアで、マップ作成は非常に楽しい作業となった。
中には、このマップをご自身のHPやブログ等の「補完情報」とされた方もいるだろう。失われた90年代パチ・スロ情報を多く発信して、90年代パチンカーの「記憶の隙間を埋める」事を目的とする当ブログにとって、大変嬉しい限りである。
さて、私の中で「代々木」というと、もちろんパチ・スロの記憶も多いが、それ以上に懐かしく感じるのが、まだパチンコと無縁だった「高校3年」の頃の話。
実は、高3の受験生だった平成元年(1989年)、通年の講座や夏期・冬期の講習を受ける為、予備校通いで代々木駅をよく利用したクチである。
当時通ったのは、代々木駅前の「Y」ゼミではなく、代々木と千駄ヶ谷の間の首都高沿いにあった「河合塾・千駄ヶ谷校」。
もう25年前の古臭い話で、グレーと紫のモザイク壁が印象的だった千駄ヶ谷校舎は、既に取り壊されて存在しない(新宿校、麹町校の開業に伴い、2005年閉鎖とのこと。跡地には「JPR千駄ヶ谷ビル」が建てられた)。
(C)Google
(河合塾・千駄ヶ谷校の跡地…現・JPR千駄ヶ谷ビル)
当時、私は河合塾で文系の4科目(英・現・古・日)を受講しており、高校の授業終りに、週3ペースで「立川校」(曙町)と「千駄ヶ谷校」に通っていた。
メインは高校からアクセスの良い立川だったが、日本史だけは週1回、学校からやや遠い千駄ヶ谷校まで足を伸ばした。夏期・冬期の講習は、立川、千駄ヶ谷、池袋の各校で受けた。模試(全統模試)は、東北沢の駒場校(2008年閉鎖)をよく利用した。
千駄ヶ谷校では、田中君於(たなか きみお)という個性派ベテラン講師が日本史を担当した(高2の時も、立川校で同氏の授業を受けた)。授業は大変厳しく、先生の問いかけに教室が沈黙すると、「おい、こんなのも知らないのか。駄目だなぁ、お前らは!」と、罵倒に近い言葉をよく浴びせられた。
しかし、高校日本史の「全出版社」の教科書を網羅した密度の濃い内容は、さながら「日本史エキスパート養成所」の雰囲気さえ漂った(「教科書は1種類だけじゃない!」と最初に釘を刺されたのも懐かしい)。単なる授業というよりは、千駄ヶ谷の「道場」に通った印象が強い。
田中先生の授業の日は、学校終りに電車を乗り継いで代々木駅まで出ると、西口ガード脇の古びた路地に入り、「パチンコ大王」の赤いネオンや、日本共産党の本部ビルなどを横目に、首都高脇の千駄ヶ谷校まで歩くのが、お決まりのルートだった。
(代々木駅西口「大王」の赤いネオン)
確か、通い始めの頃は千駄ヶ谷駅で降りて、代々木方面に戻るルートを取っていたのだが、やがて代々木駅ルートの方が色々と便利である事に気付いた。
で、先の「代々木パチンコマップ」作成の折、一寸気になったので、グーグルマップやストリートビューで、千駄ヶ谷校のあった位置を確かめてみた。
当然ながら、馴染み深い校舎の姿は跡形もなく、代わりに地上8階建ての近代的なビル(JPR千駄ヶ谷ビル)が建っていた。
思い出の校舎がすっかり消え去った事には、一抹の寂しさを覚える。それでも、千駄ヶ谷校閉鎖の情報は既に知っていて、それ程驚くことはなかった。
だが、ストリートビューをさらにチェックした所、あの界隈のある「変化」に気付いて驚いた。
代々木駅西口から千駄ヶ谷に抜ける路地(共産党通り)を出た所に、首都高と明治通りと都道414号(四谷角筈線)が交差する、「北参道」という大きな交差点がある。
この交差点を渡って、千駄ヶ谷駅方面に少々進んだ所が、「河合塾・千駄ヶ谷校」の跡地。つまり、塾の行き返りには、必ずこの交差点を通る事になっていた。
(この交差点の近くには、「現代の適塾」という凄い名前の予備校もあった…)
で、この北参道交差点の一角に、現在、立派な高層ビルが建っている事に気付いたのだ。
(C)Google
ご覧の立派なビル(地上16階建)は、「修養団SYDビル」という名称で、今や同交差点のシンボル的な存在だという。
しかし、自分が河合塾千駄ヶ谷校に通った25年前、明らかにこのビルは存在しなかった。
ストリートビューを見て気付いた「変化」とは、この事である。
実は1989年当時、この場所には「東京青年文化会館」という古臭い建築物が建っていた。
この名称を縦書きした大きな看板も表に出ており、塾の行き帰りに北参道の交差点を通ると、建物と看板が必ず目に入った。いかにも昭和然とした作りで(平成元年の話だから当然だが…)、現在ある高層ビルとは全く違う「趣」があった。
どういった類の施設かは知らないままだったが、例の「大看板」が大いに印象深く、河合塾・千駄ヶ谷校と「セット」で記憶が繋がる建物だった。
今も普通に残っていると思っていたが、全く別の高層ビルになっている事に今更ながら気づいて、少々驚いた次第だ。
もろもろの調査の結果、どうやら同会館は90年代に入ってから取り壊され、’96年7月に現在の「修養団SYDビル」が跡地に建てられたという事である。
つまり、新しいビルになってから、既に「18年」もの長い年月が流れているのだ。にも拘らず、この「変化」に今まで気づかなかったのは、なんとも恥ずかしい限り。
河合塾を去った1990年以降、私はたびたび代々木駅で降りて、「パチ屋巡り」をしていた。また、例の「共産党通り」の路地も、所用で幾度か足を運んだ。だが、パチ屋のない河合塾方面まで足を延ばす機会がほとんどなく、交差点の変貌にも全く気づかなかったのだ。
残念な事に、ネット文献を幾ら調べても、今はなき「東京青年文化会館」の画像や、詳細な情報はほとんど見あたらない。ただ、幾つかの資料によると、そこでは様々な団体のイベントや研究シンポジウムなどが、定期・不定期で開催されていたようだ(実際に同会館を利用した方がいれば、体験談などお寄せ下さい)。
まぁ、「河合塾・千駄ヶ谷校」にしても、北参道の「東京青年文化会館」にしても、昭和期の古い建物が取り壊されて、近代的な高層ビルに変わる事など、ごくごく当たり前の話である。
だが、思い出深い受験生時代、当たり前のようにそこにあった建物が、今や「何事もなかったかの如く」消え失せてしまったのを見るにつけ、何ともいえぬ「郷愁」を覚える。
(これはパチンコ店の跡地も同じだ)
需要は極めて低いだろうが…こういう過去情報を書き残しておくのも、決して無駄ではないだろう。
「記憶の隙間を埋める」だけでなく、ここに通っていた当時の心境まで思い浮かびますね・・東京は街ごとに違う雰囲気があり奥が深く、10代後半の若者にとってはとても魅力的でした。
埼玉県民としては、池袋や上野あたりまでは地元と同じ感覚なのですが、それより向こう側(?)は若干緊張したものです^^;新宿駅は大きすぎて目的の出口にたどり着けないとか・・歩いたら代々木まですぐというのに気づくのに何年かかったことやら?
建物や店など、社会人になってからしばらくの90年代後半までは当時の状況を維持しているようですが、2000年代に入ってからだいぶ変化がみられるのは、バブル崩壊からしばらく経ち、様々な整理が行われた結果でしょうか、それとも我々が歳を取って月日の流れる感覚が鈍ったのが原因でしょうか・・