幕末から明治にかけての激動の時代を生きた堂上楽家、綾小路有長(1792-1881)は、和歌披講にとってもきわめて重要な人物で、明治14年、90歳で没する直前まで多年にわたり歌御会始の発声を務め、明治12年には披講の功により明治帝から「金三十円、真綿一包」を賜っていることで知られます。その有長が明治10年9月、折紙の形で甲調・乙調の節を記した和歌披講譜があり、現在架蔵に帰しております。
この譜は、拙稿「披講甲調冒頭部の変化についてー明治期歌会始の唱法ー」(『古筆と和歌』笠間書院、平20)で論じたように、「甲調」の冒頭が現在のように平板でなく、冷泉流披講のように、下から上へグリッサンドする形で書かれており、この、江戸時代以前からの伝統的な披講の歌い方が、すくなくとも明治10年までは保存されていたことを示すメルクマールとして、非常に重要な意味をもちます。
さて、この譜は、青森県弘前市下白銀町にあった「矢川写真館」の矢川家に伝わっていたものと考えられます。
明治維新後、津軽藩の家臣のうち、江戸から弘前に帰往した者の中に中小姓矢川(やがわ)文一郎という者があり、本家の矢川文内とともに弘前に分住しました。「富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野貞固、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった」(森鴎外『澁江抽斎』その八十三)。
文一郎はその後東京に出ますが、「文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達商人工藤忠五郎蕃寛の次男蕃徳を養子にして弘前に遺した。蕃寛には二子二女があった。長男可次は森甚平の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連さんは蕃寛の後を継いで、現に弘前の下白銀町に矢川写真館を開いている」(同その九十三)。
この矢川の家に、明治10年9月、当時86歳の綾小路有長の記した和歌披講譜が伝わっていたわけですが、なにゆえ、歌御会始に用いる披講譜が、弘前にあったのでしょうか。
このことにつき、『澁江抽斎』にも登場する津輕藩江戸留守居役、平井東堂を先祖にもつ林純一先生にお伺いをいたしました。
「矢川家になぜ綾小路有長卿が記した披講譜が所持されていたかは、今となっては謎ですね。これは私の推測でしかありませんが、津輕十二代藩主承昭(つぐあきら)公の夫人が、関白近衛忠煕卿の六女で、書道を綾小路有長卿に学び、和歌を父・近衛忠煕卿に学んだという記録がございます。津輕家一門は和歌に秀でた方が多く、城内で歌合せもされていたと考えられますので、和歌披講も行われていた可能性もあります。有長卿が記した披講譜はもともと十二代藩主夫人の所有だったものが何らかの理由で矢川家に伝えられたのかと想像します。平井家の総領娘だった祖母によりますと、廃藩置県により、藩主は功績ある士族に退職金替わりのように藩主家に伝わる品々を下げ渡したとそうです。因みに平井家は、津輕家所有の広大な土地を頂戴しました。」
持つべきものは先達でございます。たまたま手に入った披講譜でございますが、その由来にも、不思議なご縁を感じるところございます。