冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

嫦娥奔月 (後編)

2006年10月06日 | 阿含×瀬那
(生意気、カスのくせに……)
戦いは一進一退の攻防を繰り返していた。阿含がその「気」を全開にすれば、
戦いの場が人界である以上、この周囲一体を全壊せしめるのはいと容易い
ことであり、蛭魔との決着もすぐつく筈だった。しかし阿含は、敢えてそうしよ
うとはしなかった。何故なら――

(ちびまでふっ飛ばしたら意味ねえしな……あーメンドくせ)

この場合、阿含は別に、瀬那を「守ろう」と思っているのではなく、お気に入り
の玩具を壊したくない幼児と同レヴェルであった。だがそれにしても、彼がこの
ようなまだるっこしい戦い方をしているということ自体、今までなら決して目に
することの無い光景だった。

(畜生……仙薬さえ飲めりゃ……)
蛭魔は蛭魔でまた、苛立っていた。現在こそ、阿含の子どもじみた気紛れに
より、互角に戦えているが、このまま持久戦に持ち込まれれば、未だ昇仙を
果たせていない以上、どんなに強大な妖力をもってしても、地上の一生物に
過ぎない自分の方が、※気力体力ともに限界が早く来る分、神である阿含よ
りも圧倒的に不利だ。瀬那を抱いていることで、片手しか使えないというハン
デも、原形を半ば現しかけた半妖態に戻ることで、何とか補ってはいるが、そ
れも果たしていつまでもつことやら。

もともと尖り気味であった両耳は既に、完全に獣の耳と化し、顔を始めとする
透けるように白い肌には青く不気味な紋様が浮かび上がっていた。禍々しい
ほどに赤く、濡れたような唇。そこから伸びた鋭い犬歯は、蛭魔の妖しい美し
さをいやが上にも増していた。男にしてはやや細くしなやかな、両の手の長い
五指の先には、紫紺の色をした鋭い爪が、妖しく艶めいた光沢を放っている。
そして彼の背後にはふさふさとした金色の尾が九本、孔雀の羽根のように華
麗に波打っていた。

焦りは蛭魔に、同時並行で続けていなければならなかった瀬那に対する、
誘惑の術のための意識の集中を、途切れがちにさせていった。それと同
時に、瀬那の意識にも光が差し始める。
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(あれ……?僕、どうして蛭魔さんに抱っこされてんだろ?)
(蛭魔さん……誰かと戦ってる?)
(あれは……)
蛭魔が戦っている相手の輪郭が徐々に明確さを増してゆき、それが瀬那の
脳裏で完全な像を結んだ瞬間、彼の意識は一気に覚醒した。

「阿含さん!」
瀬那の叫びに阿含も蛭魔も一瞬、動きを止める。

「阿含さんも、蛭魔さんも、な、なんで……戦ってるんですか?」
恐る恐る問う瀬那に、馬鹿にしたような表情で最初に返事を返したのは、その
夫だった。

「あ゛ー?何寝惚けたこと言ってやがる。てめぇがうかうかこのカス狐にさらわ
れたりすっからだろーが、バーカ」
「え、さらわれ……???」
ゆっくりと目線を上げる瀬那の目に映ったのは、この世のありとあらゆる負の
感情――憎悪、嫉妬、悲哀、侮蔑、欲望などを一堂に結集させた、これまで
に見たことも無いほど恐ろしく歪んだ蛭魔の表情だった。
「蛭魔、さん……?あの……?」

未だ自分の想いと意図するところに気付かぬ瀬那の鈍感さに、更に苛立ち
を増幅させられながら、それでも彼を想い切れぬ己の諦めの悪さに、蛭魔
は今日何度目かの舌打ちを再び繰り返した。

「チッ……覚醒しちまったか……まあしゃあねえ。おい瀬那、この瓢箪開けろ」
「え……これってまもり姉ちゃんのくれた仙薬の……?」
つぶらな瞳をぱちくりさせて、瓢箪を手に取る瀬那。瓢箪と蛭魔と阿含を順番
に見ると彼は、素っ頓狂な叫び声を上げた。

「ひ、蛭魔さん、いくら昇仙したいからってそんな、阿含さんを、こ、殺……!」
最後は狼狽のため、瀬那の舌はもつれて言葉が意味を成さなかった。瀬那
の中途半端な解釈に、肝心の自分の想いは届いていないことを知り、蛭魔は
とうとう激昂して、瀬那を怒鳴りつけた。

「こんの※三界一の大馬鹿野郎が!仙人になりてぇんじゃなくて、おめーが
俺のもんになる前にあの糞ドレッドの嫁になんぞなるから、今こんなしち面倒
くせぇことになってんだよ!!!」
「……?僕が、蛭魔さんのものになる?……それって……」
正確に三秒数えた後、ようやく真の理解を得た瀬那の顔は、ボンと音を立て
て赤くなった。

(ふーん……ちびすけはカス狐のこと意識したこと無かったのか)
眼前で繰り広げられる、俗に言う“痴情のもつれ”に、蛭魔への攻撃及び瀬那
奪還の手を暫し休め、高みの見物を決め込むつもりの阿含だったが──

「す、すみません、ごめんなさい、蛭魔さん……でも、この仙薬は婚資として
持ってきたものなんで、結婚した当事者同士、つまり僕と阿含さん以外は手
を付けてはいけないん……です……」
消え入るように小さい、だがはっきりとした拒絶だった。執着など欠片ほども
見せるものかと固くしていた意思とは裏腹に、阿含の唇の両端は吊り上がり、
三日月のような弧を描く。優越感に満ちた皮肉が何故か、口から自然とこぼ
れ出た。
「っつー訳だ。夫婦揃って嫌だっつってる以上、部外者にはお引き取り願いま
しょうかねぇ?」

瞬間的に、蛭魔の金色の瞳から、感情の熱と理性の光輝はすべて消え失せ、
暗澹たる虚無がそれらに取って代わった。しばらく瀬那を凝視した後、蛭魔は
その艶麗な紅唇から、恐らくはそれが本来の彼のものであろう、無機質且つ
絶対零度の冷たさを宿した声で、冷酷極まりない言の葉を紡ぎ出した。

「なら仕方ねえな……。瀬那、一瞬だけだから我慢してろ。あとでちゃんと反
魂術かけてやっから」
片手にありったけの「気」を込める蛭魔。彼は瓢箪を瀬那もろとも粉砕し、仙
薬の一滴を口にした後で阿含を殺して、その上で瀬那を蘇生させるつもりな
のだ。

(嫌!)
何が嫌なのか?何故そうなのか?具体的なことは瀬那自身にも分からなか
った。ただ本能的に、今、蛭魔から身をかわさなければならないと思ったのだ。
片足だけをそっと地面につけ、それと同時に渾身の力でそこを蹴り上げた。人
の形をした光の矢が、蛭魔からも阿含からも一定の距離を取る。
「「?」」
蛭魔も阿含も、ただ訝しげに瀬那を見るだけだった。

「……蛭魔さん、あなたにこの仙薬は渡せません。けれどそう言って簡単
に諦めてくれるあなたでないことは、僕もよく知っているつもりです。けれど
逆にこれさえ無くなってしまえば……」
強張った顔つきで蛭魔に言った後、続けて彼は、後ろの阿含に視線を移し
た。表情を緩め、苦笑とも泣き顔ともつかぬ微妙に崩れた顔つきで、小首
を傾げる。

「んーっと、あんまりお酒飲みすぎないで下さいね。死にはしなくとも、体に
良くないのは間違い無い訳ですから。喧嘩も程々にしといた方がいいです
よ?それと、ずっと前から※まもり姉ちゃんの所に禽獣たちからの陳情が
しょっちゅう寄せられてましたから
、一日で一つの森を狩り尽くすような狩猟
はいい加減に慎まないと、その内いくら阿含さんでも相応に罰せられますか
らね。あとは……」
こまごまとした諸注意を慌しく言い終えると、瀬那は最後にふぅと静かな溜
め息をついた。そして囁くような小声で封印解除の呪を唱えると……一息
に瓢箪の中身を飲み干したのだった。かくして冒頭の呟きに戻る。

「さよならです、阿含さん……どうかいつまでもお元気で……」
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仙薬を飲んだらどうなるのか、実のところ瀬那も詳しく知っている訳では
なかった。ただ、どのような事態になろうと、現状を打破するすることさえ
出来ればと思ったのだ。仙薬を飲み終えた瀬那の体は突然、ふわりと
浮き上がった。

(体が……すごく軽い?)
浮遊の高度が徐々に増してゆく。

ふわり、ふわり、ふわふわふわ……。

蛭魔からも阿含からも、どんどん遠ざかってゆく。

「てっめ、待てっつんだろがゴルァァァ!後でどうなるか分かってんだろう
な!?」
普段の阿含なら絶対に口にしないであろう、没個性的な怒号と焦慮の
表情。だがすべては無駄だった。蛭魔は蛭魔で、まさか瀬那がこれほ
ど思い切った行動を取るとは思わず、今やその双眸から暗い霧は吹き
払われ、再び感情が──ただし今度は、彼の最も忌み嫌うそれの一つ
である“狼狽”が、ゆらゆらとその中を漂い、また彼の四肢はまるで石
像のように立ち尽くすばかりだった。

ふと瀬那の視線が蛭魔にも向けられた。

――今の内に、早く逃げて下さい――

蛭魔は唇を血の出るほど噛み締めた。己の行動を後悔する気も反省す
る気もまったく無かった。だが結果として自分は“負けた”のだ。ギュッと、
今度は両方の拳を強く握り締め、長く鋭い爪を両の手のひらに食い込ま
せる。

(俺は、諦めねえからな……覚悟しとけよ、この糞チビ!)

この逞しさと不羈の才こそは、瀬那が蛭魔に対して最も憧憬と尊敬の念
を抱いた部分だった。そうして、決意を新たに蛭魔もまた天高く飛翔して
姿を消し、後には阿含だけが残された。
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緩慢な飛翔を何日も続けた先に瀬那が辿り着いたのは、月宮だった。
昔、まもりから聞かされた話ではここは、罪を犯した神や仙の流刑地
であるとのことだったが、それにしては誰もいない……?

瀬那はまったく知らぬことであったが、この不毛の地に流された流刑者た
ちは皆、その孤独に耐え切れず、神仙としての悠久に近い命を捨て、輪
廻の輪に再び加わることを望んでこの地を去っていったのであった。何に
生まれ変わるのか誰にも分からないというその選択は、死刑以上の極刑
と考えられていた。

そうして、今は無人と化している筈の宮から、小さな銀白色の“何か”が、
ピョコピョコと駆けてきた。瀬那の足元に辿り着いた物体は、ピョコンと
小さなお辞儀をする。それは、賢そうな眼をしたウサギだった。

「えっっっ……君は……?」
瀬那様デイラッシャイマスネ?
「どうして僕の名前を?君は誰?」
ワタクシメハコノ月宮ヲ預カリマス、イワバ看守ノヨウナ者デゴザイマス。
罪ヲ得テコノ地ヘイラシタ訳デハナイアナタ様ノコト、西王母様ヨリ、ヨク
オ世話ヲスルヨウニト申シツカッテオリマス。

「まもり姉ちゃんが?」

瀬那は玉兎(ぎょくと)という名のそのウサギから、自分が地上を離れた
すぐ後、蛭魔は無事、阿含から逃げ切れたと知って安堵したが、同時に
また、あの誇り高い蛭魔が、瑶池のまもりのもとへ、自分の保護を頼み
に行ってくれたという後日談を聞くと、複雑な思いを禁じ得なかった。

自分がもっと早く蛭魔の気持ちに気付いていれば、今回のような事態は
起こらなかったのかもしれない。慙愧の念が湧き起こるも、では自分が
蛭魔を、阿含のように「夫」として見られるかどうかと考えると、答えはや
はり「否」であった。

(不思議だな……)
己の気持ちを自覚した今でさえ、死ぬほど阿含が恋しいという訳ではない。
だが瀬那は何故だか、心にポッカリと穴が開き、そこを風が虚しく吹き抜け
てゆくような気がした。そしてそれは奇しくも、地上に残された彼の夫にも、
共通した気持ちだったのである。
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「あー、つまんねえの……」
瀬那が月宮へ去ってからの阿含の生活は、酒に喧嘩に女と、客観的に
見れば、瀬那が来る以前と比べてそれほど変わった訳ではなかったが、
その生活を送る当事者にとっては、前と違って酷く単調でつまらないもの
に感じられていた。

蛭魔や、まもりを始めとする天・仙界の重鎮たちのように、転生以外で、
瀬那を月宮から出す方法を求め、日々右往左往というのは、阿含の面
子が許さなかった。だがやはり正直なところ、瀬那のいない、この空虚
で退屈な生活を、阿含は明らかに持て余していた。

(クソッ、あんなちびのこといつまでも考えてんなんて俺らしくもねえ……)
認め難い未練を無理に呑み込んでしまおうとするかのように、彼は勢い
よく酒を煽った。首を仰け反らせた拍子に、柔らかな光を放つ今宵の満月
が、ふと彼の目に止まる。陽光と違い、強靭さの欠片も無い、すべてを包
み込むような優しい光の心地良さにふと惹かれ、阿含は無造作に墨鏡を
取り外した。もっとも、遮るものが無くなったところで、阿含の驚異的視力
をもってしても、真珠色に輝く月の表面にも、やや薄暗い、変形真珠にあ
るような窪みにも、あの小柄で気弱な“妻”の姿は見出せなかったが。

(何にもねえ退屈な所だっつー話だけど、あいつ何して過ごしてんだろ?)
杯を手の中で所在無さげにクルクルと回す阿含の双眸に宿っていたのは、
いつもの不敵な光ではなく、この男にしては何とも珍しい、深遠なものだっ
た。しばらくして、やおらむっくりと立ち上がった彼は、何を思ったか、月明
かりを頼りに外へ出て行った。女の所や酒場で寄り道をすることもなく、半
刻ほどして邸に帰ってきた阿含の両腕には、彼自身が食すとは到底思え
ない、果物や菓子といった甘味類が山ほど抱えられ、彼のかつての妻に
こそ、たまらなく蠱惑的に香るであろう芳香を放っていた。それらを阿含は、
適当な台を引っ張り出してきた上に無造作に積み上げ、露台に置いた。
そして自らもその前に座を占める。

「……せいぜい有難く思え、この俺がわざわざ……」
言葉にすると却ってもっと決まり悪くなったのか、彼はフンと鼻を鳴らすと、
僅かに口を開いて、低い声で何事かを囁き、手を一振りした。するとどうし
たことか、並べられた甘味類が淡く不思議な光を放ち始める。続いて阿含
はパンと両手を打ち鳴らし、忠実なる従者たちを呼んだ。

オ呼ビデ御座イマスカ?
かつて、強烈な光と熱を盾としていた彼らの計り知れない傲慢さは、彼ら
のそれを上回るものを持つ、目の前の男の存在故に、今や完全に影を潜
め、そしてまたその男に対し、彼らに絶対の忠誠を誓わせていた。

「月の──月宮の上を何周か旋回してこい」
………………………
主の謎めいた命令に金烏たちは、露台に並べられ、供物とされる術をか
けられた甘味類と、命じられた行き先から、程無くして主の真意を悟った。
彼らの今回の任務は、今は惜しくも姿無き、かつて彼らを手ずから世話し
てくれていたこともある、この邸の心優しき奥方に、これらの品々の出所
が安全なものであり、遠慮なく受け取るようにとの、送り主の意図を伝え
ることなのだ。

このように不器用な心遣いをするようになった主の姿こそ、奥方には一番
の心の慰めとなるであろうにと、金烏たちは主人夫妻双方のために残念
に思った。だが彼らは出過ぎた口出しは控え、首肯して命令を承ると同時
に、羽根の色を黒く変え──太陽の化身たる彼らが夜に月の周りを飛び
回るのは、自然の理に背くことである──、夜の闇の中へ溶けていった。
                      ・
                      ・
                      ・
「え……?」
瑶池を離れてからというもの、何度こう呟いたことか。まったく世界は新鮮
な驚きに満ちている。

その時、瀬那は休憩のため、月宮の外に出て、夜空を眺めていた。月に
来てからというもの、玉兎が細やかに世話をしてくれるので、誰かさんの
ための家事や雑用に追われる必要の無くなった瀬那は、いささか手持ち
無沙汰な状態にあった。そんな時に見つけたのが、宮の奥にあった、物
資が無限に湧き出る倉庫と、膨大な種類と冊数を誇る書庫であった。

月に住むことを余儀無くされた者たちは、基本的には外界との直接の接
触を禁じられているが、不毛の地である月世界の静寂と無聊をやり過ご
すため、物や手紙のやりとりは事実上、黙認されていた(もっとも、それ
でも転生を望む者は後を断たなかったのだが)。まもりを始め、瀬那に心
を寄せる者は今も数限りなく存在する。彼らからの心のこもった手紙や
贈り物に報いるにはどうしたらよいかと考えた挙句、思い付いたのが、倉
庫の薬種と書庫の薬学書を利用した薬作りだった。

瀬那の、こまごまとした物事を扱いなれた小さな両手と、有り余る時間は、
その方面に於いてはなかなかの腕前を見せた。玉兎を助手とし、一人と
一匹でたわい無いお喋りに興じながら、瀬那はせっせと薬を作った。彼の
誠心誠意籠った薬は大層よく効くと評判で、今では神仙たちからの頼み
だけでなく、地上の者たちからの祈りも殺到している。瀬那はそれらの願
いを快く聞き入れ、一つ一つ丁寧に薬を作り上げては、月から吹く微風に
それらを乗せ、彼らのもとへ送り届けていた。

しかしその忙しさも、ついに瀬那の心から阿含の影を消し去ることは出来
なかった。各地からの手紙により、阿含の近況を知ることは難しくなく、阿
含の生活も彼自身も以前と殆ど変わっていないことを知った瀬那は、むし
ろ安堵の溜め息を洩らしたくらいであった。自分が去ったことで意気消沈
した阿含の姿を見たいなどといった、自惚れも甚だしい馬鹿げた望みを抱
くには、瀬那はあまりにも自分を卑下し過ぎていた。

しかし、そんな単調な、だが穏やかな月宮での日々の中に、再び阿含の
従者たちの独特の羽音を耳にしようとは……。じっと闇夜に目を凝らせば、
空の漆黒に紛れてはいるものの、向こうからも敬愛を込めた柔らかな黒い
視線が18個、返されてきた。それと同時に、甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
慌てて周囲を見渡せば、いつの間にやら、瀬那の周囲は彼の好物で足
の踏み場も無いほどであった。

「あー……」
胸の中を、温かな思いが潮のように満たす。驚きはやがて、クスクスと嬉
しげな笑い声に変じた。

(僕と阿含さんって一緒に暮らすよりも、案外、一定の距離を置いた方が、
誰にとってもいろんな意味でうまくいくのかな?)
瀬那は顔に柔らかな微笑をたたえたまま、みずみずしい桃を一つ、手に
取って齧り、笑みを更に深く、幸福そうなものにした。
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昨晩は彼にしては珍しく、酔いつぶれてしまった阿含は、朝日の眩しさに
不快げに目を細めた。

「ムカつく……」
心身ともにその一言に支配された彼は、迎え酒でも飲もうかと、しぶしぶ
重い体を起こした。すると、空になった台の上には、幾つもの包み。傍ら
には人間の姿を取った金烏の一人(?)が、冷水の入った水差しと茶碗
を盆に載せて恭しく捧げ持ち、片膝をつき頭を垂れて控えていた。

阿含は台の上の包みと金烏の青年とを交互に見遣ると、それぞれの効能
が丸っこい文字で書かれた複数の包みの中から、迷わず“酔い醒まし”と
書かれたものを手に取り、その中から薬包を一つ摘まむと、中身の粉薬を、
従者が絶妙の間合いで差し出した冷水と共に、一気に飲み干した。

匂いも味も“効能”も、そのすべてが誰かを思い出させる、優しい桃のそれ
だった。

「甘ぇ……」
邪気も悪意も取り除かれた、滅多に見られない主の顰めっ面に、従者の
青年は両肩を微かに震わせながら、一刻も早くこのことを兄弟たちに聞か
せてやりたいと、必死で笑いを堪えていた。

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※注釈
体力と気力に限界が存在する分
…仙人や妖孼、妖精(妖孼の一つ前の段階)の能力は、修行や、
   日月など大自然の精華を浴びる事によって得られたものであり、
   個人差こそあれ、生来ある程度の神通力が備わっている天界
   の神々に比べると、体力的・精神的限界値がやや低い……と
   いう事にしておいて下さい。また、この小説の設定では、地上
   の生き物から見れば永遠の命に見えますが、神仙もいつかは
   死ぬという事になっています(無に帰すと言うべきか。各世界の
   時間の流れ方や、各自の身体構造によって個体差有り)。
三界…天界、仙界、人界。転じてこの世、全世界を指す。
禽獣の陳情…西王母は大地の守護者でもある。

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