「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「風評被害」と「資本主義」

2023年08月26日 | 日記
 2023年8月24日の13時から「汚染水」(「処理水」)が海洋放出された。これは東京電力福島第一原子力発電所のメルトダウンした原子炉を冷却した放射性物質を含む水であり、それが地上に貯蔵できなくなったため、福島県沖へ放出することになったのである。ネットを含むマスメディアの報道によれば、この「汚染水」は放射性物質が人体や海洋資源に影響が出ない濃度にまで希釈されたものであり、「問題がない」とされている。しかしながら、中国が日本からの海産物の輸入を禁止したというのが伝わると、中国に対する反発などがネットでは議論され、マスメディアの報道内容にも中国に批判的な論調を読み取ることができるようになった。

 今から12年前の原子炉のメルトダウンと、それに伴う原子力発電所の施設の爆発による放射性物質の拡散で、広い範囲で農地と農作物に被害があり、大勢の農家が被害を受け土地を奪われ、それは今も奪われたままといってよい。その時も今回と同じように、土地の除染がなされ(これも除染作業員への搾取によって成り立っていたわけだが)、ある程度の時間が経過し、人体に影響がないと発表されるにつれて、「食べて応援」や「風評被害」といった言葉が現れ始めた。僕自身はこれらの言葉に当初から大変疑念があった。「食べて応援」というのは、「人体に影響がない」とされる農作物を消費者に消費させることで、農家を経済的に支えるという、資本主義的な「自発性」(自己責任)に基づいた「民間」による援助である。だが、これは欺瞞といえよう。農作物は安全に越したことはない。しかも「食べて応援」の時は、まだ放射性物質の懸念が物理的な次元でも現在より大きかったはずだ。ならば東京電力と国家は責任をもって公的に被害を受けた農家に経済的な支援をするべきなのである。放射性物質による土壌と農作物の汚染という問題を慎重に考慮すれば、例え農家が農作物を作らなくとも、前年の収入ベースの支援を農家にすればよい。

 しかしこの農家支援の「民営化」としての「食べて応援」は、マーケットの公平性や経済活動の自発性を利用した、東電と国家による被害救済のコストカットに過ぎないのである。そしてこの「食べて応援」に対して批判的な意見があると、主に福島県の農民に対する誹謗や中傷に当たるとして、「風評被害」という言葉でその批判を封じ込めようとする雰囲気が作られ始めたのだ。つまり、せっかく立ち直ろうとしている、主に福島の農家に対して、最早「人体に影響がない」とされる農作物に対して、その危険性を言い立て、「食べて応援」を批判するということは、農家の自由な経済活動を阻害する「悪」とされる。こういった具合で、放射性物質の危険性は、経済活動によって克服されるかのように印象付けられる。その意味で「風評被害」という言葉は、自由主義経済を防衛するためのものだといえる。だが、繰り返すが本来は東電と国家が、農家を直接金銭的に救済すべきであって、被害からの救済を「消費」によって民営化し、自助努力の自己責任の中に放棄するのは、間違っていると言わねばならない。主に福島の農民は、東電と国家のエネルギー経済政策によって被害を受けたわけだから、その責任は直接東電と国家が取らなければならないはずである。それを「食べて応援」と「風評被害」という自由主義市場による問題の克服は、救済の民営化と自己責任を強化するだけなのだ。本来の責任の所在が曖昧となる。

 この「食べて応援」と「風評被害」という言葉は、自由主義経済とそのマーケットを擁護する言葉なので、強力に作用する。即ち東電と国家の責任を追及し、「食べて応援」と「風評被害」という言葉の使用を批判すると、それ自体が自由主義経済の否定とマーケットの軽視ということに繋がってしまう。ようは資本主義を否定しているかのように見えてしまうのだ。そのため、東電と国家にとって「食べて応援」と「風評被害」は資本主義における「錦の御旗」として、利用しやすいものとなってしまう。そして更なる問題は、経済的に困窮した農家もまた、この「錦の御旗」によって事態の打開を図ってしまうということだろう。これは二重の意味で、東電と国家の罪だといえる。まずは被害からの回復という責任を「民営化」と、経済的自発性という自己責任のコストカットによって免れ、さらに「食べて応援」や「風評被害」という言葉で市場経済の中に「当事者」である農家を叩き込み、さらなる搾取をおこなうということになる。この東電と国家による責任の放棄は、資本主義における自由主義経済とそのマーケットの神聖化を利用した悪質なものだといえるだろう。人質を取っていることと同じである。もし救済されたいならば、危険に対する責任ではなく、マーケットを信じなさい、と。

 ここまで「農家」と書いてきたが、今回の「汚染水」の放出による漁業への影響も同じ道筋をたどっている。またもや「汚染水」の海洋への放出という無責任極まる東電と国家の対応を、漁業関係者への「風評被害」という市場経済の「錦の御旗」で抑え込もうとしているのである。「人体に影響がない」というのは、確かにデータ上はそうなのかもしれない。だが、マスメディアの報道でも、放出をした翌日に海や海洋生物から基準値以上の放射性物質は検出されていない、という報道を繰り返し始めるのだ。まだ数日で何がわかるというのだろうか。またこの放出は今後30年は継続されるといわれる。本来はそれ以上のタイムスパンで考えねばならないことであり、影響も長期にわたって継続的に東電と国家が責任を負っていかなければならない問題だ。それを放出した数日で、もう「安全」であるかのような発言をしたり、「風評被害」という言葉で、経済原理による責任のコストカットをおこなおうとする。本来ならば、漁をしなくとも漁師たちに経済的補償を、東電と国家が十分におこなうべきだろう。その責任の所在をあいまいにし、経済的補償のコストカットをおこなう。無責任以外の何物でもない。不信感を潜在的なレベルでも蓄積させているということがわからないのである。あるいは、時間がたてば皆忘れるというように、東電と国家になめられているともいえる。

 「汚染水」の海洋への放出は「しかたがない」という意見もある。このまま地上に放置できないがゆえに、影響がないまでに希釈した「汚染水」を放出する以外方法がないのだ、と。しかし、それは東京中心の視点からそう見えているだけだろう。つまり、相対的に経済的な影響が小さく、特に首都圏が混乱しないために東北の海に「泣いて」もらおう、というだけなのではないだろうか。原発のメルトダウンの時によく言われた、東京の電力ならば、何故「お台場」に原発を作らないのか、という欺瞞と同じ理屈である。「仕方がない」「代替案」がない、というが、それは東京近郊では責任が負えない、というだけの理由だといえる。「汚染水」の影響がないのならば、全国の下水道に流せばいいのではないか。しかし、それはできないだろう。

 さらにこの「仕方がない」、「どうしようもない」という理由付けは、土地を奪われたり生業を奪われた人に、なんの説得力も持たないということである。なぜ自分たちがこのような被害に巻き込まれないといけないのか。なぜ土地を奪われなければならないのか。これに対して理論的な理由付けはできない。もちろん近代化の過程における東北地方への国家からの搾取は大きな原因ではあるが、その原因を明らかにしたからといって、この「なぜ自分たちがこのような目に合うのか」ということを納得させることはできないはずである。すぐに放射性物質に汚染される前の状況に戻してほしい、以外にあり得ないのではないか。だが、他人事で見ている人々は、そのような「無理」をいう「当事者」達に対して「クレーマー」や「原発利権」という負の面を見出すのは、ここ12年であったことだ。勿論、その要求は「無理」なのであるが、しかしそれが要求なのである。

 この「無理」を、「食べて応援」や「風評被害」あるいは、「中国以外に海産物の販路を見つける」という経済原理が覆い隠してしまうのだ。「無理」な要求をする場所に生起している責任を、経済原理は「民営化」と「コストカット」と「自己責任」の論理で解体しようとする。東電と国家はそれをおこない、自由主義経済を至上の善とする人々は、それは被害を受けた「当事者」であっても肯定してしまう。無責任による搾取が、経済原理の名の下に免罪されていく。どんな救済をされても決して奪われた人々は納得することはない。この納得のできない「無理」な状況について考え抜くのが、本来の政治なのではないか。「無理」とその納得のいかなさを、経済原理で抑圧するなと言いたい。

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