「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ドラマ『不適切にもほどがある!』を観た感想

2024年02月18日 | 日記
 阿部サダヲ主演、宮藤官九郎脚本のTBSドラマ『不適切にもほどがある!』がSNS上でも話題になったり、言及している人もいるので、気になって、見逃し配信で何となく見ていた。ドラマとしてはスピード感があり、また、あえてやっているのだろうが、少し古めのテンプレドラマにもなっており、安心して見られる。僕自身は昔から、時代劇以外のテレビドラマを視聴する習慣を持っておらず、今回も久々の連続視聴になっている。このドラマの物語としては、阿部サダヲが演じる主人公の属性は、1986年に存在した体育教師であり野球部の顧問でもある男性であり、この男性が2024年にタイムトリップをして、色々な事件に巻き込まれる、という筋道である。体育教師と野球部顧問、そして男性となれば、その「価値観」や「存在様態」は、ほとんど今の「コンプライアンス」には抵触する存在だろう。少し自分自身を振り返ってみれば、体育の教員、体育会の部活の顧問には、大げさではなく、体罰としてどつかれたおしていた。今現在そんな教師がいたら、事件になっているだろう。高校の時などは、某大学の剣道部でしごかれたおされたという剣道部の顧問の教員が僕のクラスを担当したことがあり、僕の高校は男子校であったのだが、最初の挨拶が一人一人日々の「おかず」(「自慰」をする時の欲望のきっかけ)を聴いていくというもので、それには僕は強い抵抗があった。全員がよくわからない緊張感の下に発言していたが、教師の手違いで僕の列までは回ってこず、答えないで済んだ。これ自体は当時でも問題の気がするが、もしこの「おかず」を答えさせられていたとしたら、今で言うならば僕は心に「傷」を負ったということになっただろう。僕のこの体験は、1986年以降の経験ではあるが(かといってすごく離れているともいえない)、こういういきさつを振り返ってみても、1986年の上記属性の男性が、その価値観をそのまま現代の「コンプライアンス」に照応したとしたら、確かに問題を引き起こすのかもしれない。そして実際、現在時においては「露悪的」と言っていいだろうこの価値観を、主人公は披瀝しつつ、反発を受けながら、しかしあるところそれが現代には少なくなった「魅力」としても描かれていくこととなる。

 ドラマ的にはこれから進展していく内容もあるので、全体を評価するわけにはいかないが、今までは内容的というわけではなく、ある種の「歴史」というか「昔話」として面白いということはある。ただ、「歴史」や「昔話」といっても誇張されたり、そうだろうか?と思うようなところもあり、今の時代から見た1986年のイメージということになるのだろう。ドラマでは小泉今日子が特権的にアイドルとして登場しているが、僕自身の経験の時系列から行くと、小泉今日子を好きになっているのは僕の一世代上の人たちで、1986年当時僕は自我を持っていたと思うが、それを相対化したり、アイドルのファンになるにはまだ社会経験がない年齢であった。そういう僕から見ても、あくまでも「歴史」や「昔話」の〈イメージ〉として観ている。今までのこのドラマの魅力というのは、2024年というメタ視点から、1986年の価値観を持った主人公の「逸脱」を眺められるということだろう。だから、ドラマの中でも主人公は気の毒な人のようにも映り、また、仕方がない荒ぶる人として、なだめられる対象になっている。しかし、そういうなだめられる存在としての「父」のように描かれるのは、良くないと思う。父権に宿る慈愛的な側面や、不能の父(駄目な父)を代補するその周囲の人々という、それこそが男性中心的で父権的な権力構造を維持している構造を、そのまま温存して描くことになるからだ。体育教員や野球部の顧問というのは、こういう去勢された駄目な父という側面を持ちながら、生徒に権力や暴力を行使したわけであり、その部分が見逃されてしまう。例えば今の政治家にも、多くが自民党の政治家にそういう表象はまとわりついていて、機能してしまっている。「増税メガネ」といってもその程度のものであろう。

 あと、主人公が意外と2024年に馴染んで生きているというのは、示唆的だと思った。やはり慣れるのである。これは1986年当時の価値観と、2024年の価値観に共通点がある証拠だと思う。ただ誤解してはいけないのは、なんやかんや言っても2024年も「コンプライアンス」が徹底されておらず、1986年的封建遺制が残存している、ということではなく、1986年にすでに、現在のような「コンプライアンス」やそれにまつわる管理・コントロール型の権力構造は浸透しつつあり、主人公にも浸透しつつあったことなんだろうと考えられる。1986年といえば、中曽根、レーガン、サッチャーの現代に通じる具体的な新自由主義の路線がすでに敷かれていたのであり、主人公が意外と今の価値観に馴染んでいくのは理解ができるのである。そういう意味では、表現の違いや許容範囲の差は大きいように見えるかもしれないが、1986年と2024年との間の生(性)の管理方法は根本的には既に変わりがないと見るべきではないか。価値観の表出の仕方や主人公の属性、そして2024年のメタ視点が、何やら主人公の封建遺制的性格を際立たせているようだが、実は1986年には現代の「コンプライアンス」に通じる管理体制は既に成立した、というのが主人公のありようなのではないかと見えてくる。要は言うほど主人公の根本は、今現在と変わらないのである。それは「1986年」は「1968年」との関連でも言えるだろう。

 おそらく、この1986年に新自由主義と生権力に対抗する運動をしている人は別の所にいて、それは今のところドラマでは描かれていない。主人公のような体育教師兼野球部顧問は、むしろこのような新自由主義的、生権力的な存在であり、しかも生徒の管理コントロールをおこなう側であり、決して「コンプライアンス」を乱すような存在ではなく、先に父権の時にも書いたように、こういう「コンプライアンス」を乱しているかに見える存在(駄目親父)こそが、「コンプライアンス」の権力を補強する存在なのである。だから、この主人公は様々な場面で「重宝」され、劇中の「ドラマ」の撮影の「コンプライアンス」へのアドバイスすらおこなうのである。むしろこの主人公こそ「コンプライアンス」そのものなのだ。そしてもし、現代において主人公が「魅力」ある人物として見られるとするならば、それは主人公が権力者だからであろう。視聴者はそのような権力者の「魅力」に、2024年というメタ視点から同化できると信じている。つまり「コンプライアンス」それ自体はコンプライアンス的ではない、とひとまずいえるのだ。それは問題ばかり起こす駄目自民党政治家(駄目親父)に支配コントロールされている自分たちの姿と、そこにおぼえる享楽のことでもある。主人公が「コンプライアンス」を侵犯したような存在に見えるのは、視聴者が2024年からメタ視点を以てこの男性を眺めているかのように思っているだけなのであって、実は本質的にはこの男性はタイムスリップなどしておらず、主人公は2024年の「コンプライアンス」を体現する存在なのであって、「2024年は1986年なのである」。〈本当〉の意味で「コンプライアンス」に抵抗している〈不適切にもほどがある人々〉は、恐らく別にいるのだ。

 ここまでのドラマの展開だけで言うならば、そういう意味ではこのドラマは「ガス抜き」になってしまっている可能性がある。主人公が「窮屈な現代」に対するアンチテーゼになっていると見てしまっている人は、おそらくもっとも反動的にこの主人公を理解しながら、恐らく自分は「コンプライアンス」に異議を持っていると思い込まされていることになる。実際は「コンプライアンス」の中にある、「コンプライアンス」の核となっているコンプライアンスならざるものへの依存にも拘らず、それ自体が管理コントロールの権力の実態にも拘らず、である。


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