「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

精神とは骨のことである

2024年01月29日 | 日記と読書
 東アジア反日武装戦線の桐島聡を名乗る男性が、神奈川県の病院に偽名?で入院しており、重篤な病状の中で、自らが桐島だと名乗った、というニュースがあった。ちょうどこの報道の前日、虫の知らせかどうかは知らないが、夜からネットで桐島聡の情報を漁っており、仕事帰りの神社下の交番の手配写真でも桐島の顔を確認し、70代前半なら存命である可能性も高いが、この世にいるのだろうか、ということを何とはなしに考えながら家路を急いだ。ネットでは、前々から桐島の画像を加工したり、似た人物が同じように写真を撮ったりするなど、手配写真はなぜか人々の関心を惹いてきたように思う。その理由の一つには、嫌に「ハッキリ」とした顔立ちで、手配写真のために加工したのだろうかというほど、目鼻立ちがはっきりしているということがある。それはまるでモンタージュ写真を思い起こさせ、この人物は本当に存在するのだろうか、というような不気味な雰囲気を醸し出していた。所謂「未解決事件」に出会ったときの不気味さといってよいだろうか。手配写真の「笑顔」と妙にはっきりとした目鼻立ちの輪郭と、それが何かシミュラークルのような、モンタージュのような、そしてこの人物というか「顔」のフィクション性のようなものが、恐らく人々の欲望の的になったのではないかと思う。そういう意味では、まだこの「顔」はもしかしたら「対象a」のごとく、かつての出来事の幻想を繋ぎ留めるような原因になっていたのかもしれない。ただ、この「顔」のモンタージュ性というか空虚性は、その「本人」が目の前に現れたからといって、なくなるものではないし、安直に脱神話化されると思ってはいけないと思う。最早「本人」など関係がないこの空虚性こそが「実体」であり、眼差しを向けざるを得ないわけである。SNSでの発信を中心に、既に〈現前性〉に屈して久しいこの世の中で、そのような空虚なものに依拠する我慢強さを維持したいとは思う。ここまで書いてみると、桐島の手配写真がなにがしかの精神性を惹起したのは、ヘーゲルがいうように、精神は〈(頭骸)骨〉だからかもしれない。あの手配写真は「顔」を写したのではなく、精神という〈骨〉なのだろうか。

 この桐島聡を自称する人物と東アジア反日武装戦線については、ネットで漁っていたという割に、そのネットで漁った以上の情報は全く知らず、またそれらについての書物も読んでおらず、不勉強なので、松下竜一『狼煙を見よ:東アジア反日武装戦線“狼"部隊』(河出書房新社)と「復刊ライブラリー」の東アジア反日武装戦線KF部隊(準)『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』(風塵社)を購入したので、ちょっと今は仕事が忙しくて読めないが、いずれ読んでみたいと思う。この東アジア反日武装戦線は絓秀実が特に詳しく論じている「華青闘告発」と深いつながりがあるということだけは事前情報を得ているので、その部分も見てみたい。それはそうと「反日」というのは今や左翼やリベラルさえも否認する言葉になってしまったが、「反日」の肯定は考えるべき問題なのではないかと思う。「自虐史観」や「反日」といわれることを恐れ、自らのナショナリズムを批判できない左翼やリベラルは、結局資本主義の植民地主義や帝国主義のイデオロギーを受け入れざるを得なくなるだろう。そのような左翼やリベラルというのは、存在意義があるのであろうか。

 それはそうと、少し前だが日本共産党の党首の「独裁」についても、共産党の〈リベラル〉ではない党運営の在り方が批判されていた。共産党なのだから、唯物弁証法に則った必然性を体現した党の規則で運営されるべきであり、そこに物分かりのいい観念的な民主主義(リベラリズム)をもたらすのは、おかしな話だろう。党員のジャーナリストが除名された問題も、分派活動を禁止するというのはそのような唯物弁証法を守るためには当然のことというほかはない。むしろ、その唯物弁証法に則らずに、嫌悪感や気分で党員を除名しようとしたのならば、それこそが問題である。これはかつての民主党政権の時から言っていたことだが、共産党が〈リベラル〉になってしまったら、それこそ民主党や自民党と同じになってしまう。それならば共産党が存在する必要はないのだ。さっきの空虚な「顔」ではないが、その空虚性の唯物弁証法の必然的法則を守る気がないのならば、イデオロギー闘争などできないだろう。僕は別に共産党支持者ではないが、君主制の打倒と唯物弁証法による資本主義の打倒を空虚であったとしても示さなかったら、共産党の存在意義などない、と思う。少なくともそこは否認しないで明確化すべきだろう。

 君主制の打倒や資本主義の打倒など唱えると、「反日」と同じく大衆の支持を失うと思っているのかもしれないが、恐らくそんなことはない。スターリン主義批判以後の共産主義は、新左翼の課題であったと思う。しかしその新しい共産主義が結局は物分かりのいい多数決主義の民主主義であったとしたら、それはとんでもない世の中にしかならない。本当は共産党が吸収するべきだった、不条理で不平等な世の中を恨む声が、結局別のカルトや極右陰謀論政党に吸収されてしまう、という結果を見てもわかるだろう。共産党はそのような世論の現前性を信じるのではなく、むしろ空虚で実体のない唯物弁証法の〈(頭)骸骨〉をこそ、党の「実体」として、唯物性として守るべきではないか。そうしないと、民主党や自民党と同じようなくくりにされ、「少数派」や「マイノリティ」は行き場をなくすと思う。勿論それは「少数者」や「マイノリティ」が共産党支持者になるということではない。日本共産党を打倒する共産主義者=少数者たちもいなくなるという意味である。

 読書メモもしておこう。涼宮ハルヒシリーズを全巻読破した。なかなか面白かった。そして『In Stahlgewittern』もあきらめずに読んでいる。今は、一段落ずつノートに書き写し、文法的に正しく読めたら先に進めるというやり方で読んでいるので速度は落ちたが、少しは正確に読めているかもしれない。それでも精度は40パーセント以下くらいかもしれないのだが……とにかく、すでに折り返してはいるので気長に。

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