「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

東京都知事選挙の候補者ポスターの掲示板

2024年07月01日 | 日記
 東京都知事選挙の、特に選挙ポスター掲示板の使用法で盛り上がっている。ある候補者たちは、様々な「ハック」?やその「合法的」な利用法を競っており、みんな民主主義の懐の深さで戯れるのが好きなんだな、と思う。公職選挙法の範囲内でなら、できることはやっても良いというのは確かで、今のようなハック?的な利用方法に嫌気がさした人が、掲示板の使用を法で規制するよう求める動きを見せているが、それは絶対にやめた方がいい。民主主義はこのようなバカ騒ぎや低俗化自体を「根拠」として打ち立てられているシステムなので、このバカ騒ぎが気に入らないからといって、掲示板の使用規制などを求めていくと、政治への参加や民主主義自体が壊れてしまう。民主主義下の選挙はこの低俗化を受け入れなければならないし、民主主義自体を否定する候補者も選挙では平等に公平に扱われなければならない。そういう意味では、「泡沫候補」というのは本来存在しないわけである。民主主義はこの低俗化という地盤沈下自体が、ひとつの「根拠」なのだ。それは、ヘーゲルが『大論理学』の中で、「没落こそが根拠である」と、近代市民社会を弁証法で定義づけたことからもわかる。

 そういう意味で、最近話題になっている、17年前の東京都知事選における外山恒一の「政見放送」や選挙活動への注目も、この民主主義における「没落こそが根拠である」という問題から見なければならないものだ。外山自身のSNSでの活動と、その「啓蒙」によって徐々に誤解している人も減っているのかもしれないが、外山の選挙活動や「政見放送」は何か特異なものや常軌を逸しているものではなく、あるいはおふざけでもない。外山はメディアの取材に対して、自分のせいで選挙制度自体がぐずぐずになってしまって、と皮肉に語っていたと思う。それは近代という時代、それも民主主義が「没落」それ自体を「根拠」にしているということを、外山自身が選挙を通じて行為遂行的に上演したという意味に捉えるべきだろう。そういう意味では、外山の選挙というのは、ヘーゲル的な意味で、「没落」こそが「根拠」であるということを示すための場なのであって、近代と歴史の弁証法的運動の問題と捉える必要がある。「スクラップ・アンド・スクラップ」の同語反復とは、弁証法の運動それ自体ともいえよう。

 このようにヘーゲルと、それを踏まえた外山の行為遂行的な「没落」を根拠化する弁証法を踏まえても、今の選挙の「低俗化」と「裸」にでもなって民主主義の懐の深さ(「根拠」)を探ろうとしている候補者たちは、その「没落」(裸)こそが「根拠」となる地点を探している、といえるのかもしれない。実際のところは、この「没落」の「根拠」を有権者こそが認識しなければならないにもかかわらず、である。そういう意味では、裸になったりパントマイムをしながら民主主義の「没落」を「根拠」として探ろうとしている候補者たちは、現状、有権者よりもまっとうな行為をしているといってもいいのだろう。

 それよりも、大きな問題は、この選挙における民主主義のある意味での懐の深さ(「没落」という「根拠」)は、当選した知事や議員たちにこそむしろ適応されるのであって、当選した知事や議員たちはこの「没落」の「根拠」の中で、ある意味好き放題をし、権力を掌握して、現状の東京都及び日本を作ってきたわけである。もし、東京都知事選挙の「低俗化」やバカ騒ぎに対し危惧を覚えるなら、この「低俗化」とバカ騒ぎという「没落」の「根拠」の中で好き放題をしている現職の知事や議員たちに、その危惧を向けるべきではないだろうか。候補者たちを非難するのはお門違いだろう。民主主義が「没落」という「根拠」のもとに成り立っていることを都合よく解釈し、マジョリティのためのマジョリティによる選挙を無自覚におこなってきた有権者は、自らの「低俗化」をまずは自覚すべきだ。

 民主主義を構築する「没落」という「根拠」は、民主主義が民主主義であるための必須の要件である。それを規制したり、「泡沫候補」という名前で差別的待遇をしたり、注目されている候補者だけを報道したりするのは、そういう意味で反民主主義的といえる。それは政治を特権階級に独占させるきっかけを作ってしまうような危険にも繋がっていく。民主主義はそういう「没落」したクズのためのシステムであるはずなのだ。

 ただ、最初にいったように、候補者たちは公職選挙法の範囲内で、民主主義の懐の深さを確かめるように選挙戦を戦っており、そのような意味では、例外なく候補者たちは民主主義を好きになってしまっているようにも見える。はたしてそれでよいのだろうか。また、僕の家は繁華街に近い場所にあるが、すぐ近くのポスター掲示板は、様々なポスターや「枠を買った」という同一のポスターが無造作に張られ、「低俗化」した民主主義の「根拠」がむき出しになっている。しかし、職場は皇居に近い位置にあるのだが、職場附近の掲示板はきれいなもので、全く乱れていない。管見の範囲ではあるがやはり、皇室の御威光と大御心のおかげであろうか。