今日は久しぶりにバッティングセンターに行ってきた。日暮れ時で明かりがまだ点灯していなかったので、最初の20球は探り探りで打った。ただ、久しぶりのわりに、そこそこバットには当たった。照明がついてからの50球はなかなかのもので、芯に当たっていい打球が飛んだのもそこそこあった。しかし、もう少し打っていたら手にまめができていたと思う。薄暗い誰もいないバッティングセンターで、金属バットの音だけが響いていた。
帰ってきてニュースを見ていると、ハロウィーンの渋谷の状況を報道していた。見ていて、日本的?で嫌な報道の仕方だなと思う。番組は、ハロウィーンで渋谷に来るのは自粛してくださいという区長の「自粛」要請から始まり、行儀のいいハロウィーン参加者のコメントが流され、ハロウィーンは人に迷惑にならないように楽しみましょう、までの御定まりの結論となって構成されていた。あの番組自体が、管理コントロールの推奨であり、参加者たちも結局、警察を始めとした管理コントロールを喜々として受け入れていくための露払いにしかなっていなかった。仮装しながらわざわざ渋谷まで行って、そこで区長や住人の人の気持ちはよくわかります、ただ騒いだり乱痴気騒ぎするだけの人ではないんです、私たちもそれはいけないと思っていて、ほら、あそこにごみを拾っている人もいます、などなど……のよくあるやり取り、この一連の流れこそが、祭りとか、渋谷のありよう(公園の管理、路上生活者の排除)とか、人々の主体的な行動などを自らで踏みにじっている。インタビューされてコメントする人々は、そしてそれを番組として構成する報道関係者は、人々は管理されていないかのように、渋谷に集まった人々の群れの中には、政治的分裂や貧富の差や暴力性などないかのように、警察といっしょに自分たちの行動自体を管理コントロールする。自分たちのこの一連の行動とコメントこそが、もっとも管理されている状態でありながら、管理を隠蔽(否認)している状態なのだ。むしろ、ごみをしても誰も拾わず、良い大人が酔っ払って管を巻き、警察に注意されても無関心で、もっと殺伐と荒廃しているべきなのである。自分が管理されていることを否認せず、粛々と管理される様子を、ありのままに見せる必要がある。
ディルタイが「無意識」に触れるところをメモとして引いておこう(『全集第二巻』、「『精神科学序説」第二巻のための完成稿―—第四部から第六部まで」p.129)
《また、意識の事実がこのように確実だということのなかには、意識の事実がもしかすると意識に属さない他の事実に制約されているのかどうか、それゆえ、もしかするとこうした事実の領域の背後には、われわれの意識に達しないためにわれわれには知られないような諸事実の別の秩序をもった背景が見いだされるのかどうか、という点についての決定は含まれない。心理的事実のそのような第二の秩序は、最近のほとんどの心理学研究者たちが想定している諸感覚によっても成り立つだろう。この秩序は、意識の法則に従って記憶に入り込めるような表象が無意識というかたちで存在する、という仮定によって際限なく拡大されるだろう。けれども目下の叙述は、意識の事実のこうした領域に関する諸現象の概念を用いた戯れを事実上終わらせる。こうした事実は私がそれを体験するからこそ存在するわけである。》
ディルタイは、さしあたり意識が介在できない存在があることを、「無意識」の領域の問題として想定できるとしている。しかし、現実や事実というのは感覚を通して意識を介したものだけが現象するわけだから、「無意識」とは無際限に拡張される「戯れ」でしかないというわけである。つまり、意識に還元できない「記憶」としての「無意識」は想定できるが、ここでは「戯れ」として非本質的なものと見做される。この「無意識」の問題は、フロイトやハイデガー、ラカン、デリダなどに引き継がれ、意識すらをも差異化して構成する、「記憶」としてのエクリチュールの問題につながっていくだろう。あるいは意識には「無」としてしか現れない「存在」として。
帰ってきてニュースを見ていると、ハロウィーンの渋谷の状況を報道していた。見ていて、日本的?で嫌な報道の仕方だなと思う。番組は、ハロウィーンで渋谷に来るのは自粛してくださいという区長の「自粛」要請から始まり、行儀のいいハロウィーン参加者のコメントが流され、ハロウィーンは人に迷惑にならないように楽しみましょう、までの御定まりの結論となって構成されていた。あの番組自体が、管理コントロールの推奨であり、参加者たちも結局、警察を始めとした管理コントロールを喜々として受け入れていくための露払いにしかなっていなかった。仮装しながらわざわざ渋谷まで行って、そこで区長や住人の人の気持ちはよくわかります、ただ騒いだり乱痴気騒ぎするだけの人ではないんです、私たちもそれはいけないと思っていて、ほら、あそこにごみを拾っている人もいます、などなど……のよくあるやり取り、この一連の流れこそが、祭りとか、渋谷のありよう(公園の管理、路上生活者の排除)とか、人々の主体的な行動などを自らで踏みにじっている。インタビューされてコメントする人々は、そしてそれを番組として構成する報道関係者は、人々は管理されていないかのように、渋谷に集まった人々の群れの中には、政治的分裂や貧富の差や暴力性などないかのように、警察といっしょに自分たちの行動自体を管理コントロールする。自分たちのこの一連の行動とコメントこそが、もっとも管理されている状態でありながら、管理を隠蔽(否認)している状態なのだ。むしろ、ごみをしても誰も拾わず、良い大人が酔っ払って管を巻き、警察に注意されても無関心で、もっと殺伐と荒廃しているべきなのである。自分が管理されていることを否認せず、粛々と管理される様子を、ありのままに見せる必要がある。
ディルタイが「無意識」に触れるところをメモとして引いておこう(『全集第二巻』、「『精神科学序説」第二巻のための完成稿―—第四部から第六部まで」p.129)
《また、意識の事実がこのように確実だということのなかには、意識の事実がもしかすると意識に属さない他の事実に制約されているのかどうか、それゆえ、もしかするとこうした事実の領域の背後には、われわれの意識に達しないためにわれわれには知られないような諸事実の別の秩序をもった背景が見いだされるのかどうか、という点についての決定は含まれない。心理的事実のそのような第二の秩序は、最近のほとんどの心理学研究者たちが想定している諸感覚によっても成り立つだろう。この秩序は、意識の法則に従って記憶に入り込めるような表象が無意識というかたちで存在する、という仮定によって際限なく拡大されるだろう。けれども目下の叙述は、意識の事実のこうした領域に関する諸現象の概念を用いた戯れを事実上終わらせる。こうした事実は私がそれを体験するからこそ存在するわけである。》
ディルタイは、さしあたり意識が介在できない存在があることを、「無意識」の領域の問題として想定できるとしている。しかし、現実や事実というのは感覚を通して意識を介したものだけが現象するわけだから、「無意識」とは無際限に拡張される「戯れ」でしかないというわけである。つまり、意識に還元できない「記憶」としての「無意識」は想定できるが、ここでは「戯れ」として非本質的なものと見做される。この「無意識」の問題は、フロイトやハイデガー、ラカン、デリダなどに引き継がれ、意識すらをも差異化して構成する、「記憶」としてのエクリチュールの問題につながっていくだろう。あるいは意識には「無」としてしか現れない「存在」として。
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