随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

お札の話 ③国立銀行紙幣 兌換紙幣

2012-07-12 12:37:17 | Weblog




当時は金本位制と兌換紙幣制が国際的な流れであり、明治政府が発行する不換紙幣の「明治通宝」では国際的には近代国家として認知されない。
こうした背景で、国際的な立場からも日本でも「兌換紙幣」を発行する必要性があった。
 明治政府はアメリカの制度に範をとり、明治5(1872)年に国立銀行条例を公布して、政府発行の不換紙幣の回収整理、兌換制度確立、殖産興業資金の供給を目的とした国立銀行制度の導入を図った。

 そこで財政基盤が無い明治政府は、金本位制度の確立を民間に任せることとし、兌換紙幣制度の確立を民間に任せた。
 政府は、民間に高まった銀行設立の機運を捉え、民間銀行に兌換銀行券を発行させる
ことになった。国立銀行条例に基づいて設置された、あくまでも民間銀行である。
 このため、国立銀行は、兌換銀行券発行相当額の「日本政府国債証書」を大蔵省に預けた。
 この国立銀行は当初4行が設立され、金貨と兌換できる紙幣の発行が認められた。
 こうして明治6年8月から発行された紙幣が「国立銀行紙幣」である。
 こうして明治6年(1873年)国立銀行紙幣(旧券)を製造をアメリカに依頼して発行した。しかし金貨の不足から経営不振に陥り、やむなく国立銀行条例を改正し「不換紙幣」の発行が認められるようになった。そからは銀行の数が急増し、新たな国立銀行紙幣(不換紙幣)が発行された。

お札の話  ②明治通宝(めいじつうほう)

2012-07-12 12:16:32 | 歴史
 


太政官札の発行のあと、近代国家の整備のため共通通貨として「円」を採用し、近代的紙幣を導入した。
このお札が「明治通宝(めいじつうほう)」で、1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
 新貨幣の呼称を円とするとともに、金貨を本位貨幣と定め、金1.5g=1円と定めたのである。新貨条例では、本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で1円銀貨(貿易銀)の鋳造と、開港場での無制限通用を定めていた。

 日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として有名である。
 ただ、まだ近代的紙幣の印刷技術がなく、偽造防止のためドイツ・フランクフルトの民間工場で製造された。このことから「ゲルマン札」の別名がある。
 これは「エルヘート凸版」による印刷が、偽造防止に効果があるとの判断からである。
太政官札1両を、明治通宝1円として交換された。
 やがて「明治通宝」に不便な事があることが判明した。
 まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったため、損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。
その後、当初の契約通り技術移転が行われ、印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった。