当時は金本位制と兌換紙幣制が国際的な流れであり、明治政府が発行する不換紙幣の「明治通宝」では国際的には近代国家として認知されない。
こうした背景で、国際的な立場からも日本でも「兌換紙幣」を発行する必要性があった。
明治政府はアメリカの制度に範をとり、明治5(1872)年に国立銀行条例を公布して、政府発行の不換紙幣の回収整理、兌換制度確立、殖産興業資金の供給を目的とした国立銀行制度の導入を図った。
そこで財政基盤が無い明治政府は、金本位制度の確立を民間に任せることとし、兌換紙幣制度の確立を民間に任せた。
政府は、民間に高まった銀行設立の機運を捉え、民間銀行に兌換銀行券を発行させる
ことになった。国立銀行条例に基づいて設置された、あくまでも民間銀行である。
このため、国立銀行は、兌換銀行券発行相当額の「日本政府国債証書」を大蔵省に預けた。
この国立銀行は当初4行が設立され、金貨と兌換できる紙幣の発行が認められた。
こうして明治6年8月から発行された紙幣が「国立銀行紙幣」である。
こうして明治6年(1873年)国立銀行紙幣(旧券)を製造をアメリカに依頼して発行した。しかし金貨の不足から経営不振に陥り、やむなく国立銀行条例を改正し「不換紙幣」の発行が認められるようになった。そからは銀行の数が急増し、新たな国立銀行紙幣(不換紙幣)が発行された。