随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

後期高齢者医療制度

2008-05-17 12:04:12 | 社会批評
後期高齢者医療制度

 これは政治問題というより、大きな社会問題としても取り上げるべき問題と思う。
 そもそも、後期高齢者とは一体どういう人達であろうか 。
 誰しも一気に年齢を重ねるわけではない。当然、働き盛りの長い現役の時代には、日本の戦後復興期や、その後の不況期を乗り越えて高度成長期を支え、粒々辛苦して仕事に励
んできた。
 高い所得税や年金を積み立て、さらに高い社会保険料を払いつつも、まずは病院に掛かることもなく、元気に乗り切って人たちである。

 戦後の日本経済を支え続けて、ようやく豊かになった日本で、老後の悠々自適の生活を楽しむ世代である。
 孫やひ孫たちに囲まれ、少しでも経済的に豊かになった日本で 、衰えつつある身体を労りつつ、少しでも長生きを楽しみたいと思っている世代である。
 当然、身体の衰えには逆らえず、さまざまな疾患を抱えている。だからこそ、長い現役の時代に、高い医療費を負担し続けてきたその見返りを、高齢になったいまこそ、享受できるはずである。
 彼らの現役世代に負担し続けた社会保険料は、当然、当時の高齢者の医療費に大半が宛がわれたことは想像に難くない。
 そもそも健康保険制度とは、現役世代の健康な人々が保険料を負担し、高齢の弱者が享受するという仕組みである。

 ところが、いざ自分たちが高齢になって、医療保険の恩恵に浴すべき年代になった時、社会保険料を負担すべき若い世代が減少していて、高齢者の医療負担をするには現役世代の負担が大きすぎるとの理由から、一般の社会保険制度から切り離された。
 要は、膨らんだ医療費負担の削減が必要だから、病院通いの多い高齢者は、別途、「後期高齢者医療保険」として切り離し、応分の負担をせよという仕組みである。
 切り離されれば、当然、後期高齢者の保険料負担が必要となる。
 言わずもながら、後期高齢者とは社会的には弱者に属する。
 多くの人々が、年金生活に入っている。子供達がいれば、当然その扶養家族となっている場合が多い。
 ところが、突然、その仕組みを壊し、改めて後期高齢者医療保険制度に組み入れられ、保険料を年金から天引きをはじめた。
 後期高齢者にとっては、まさに青天の霹靂の事態てに遭遇したといえる。
 そもそも憲法に保障されている「健康で文化的な生活」をおくる権利は何処へ行った。
 
このまま社会保険で医療費負担が増加し続ければ、やがて社会保険制度そのものが崩壊すると言う。
 つまりは、少子化が進み、いわゆる団塊の世代が退職し始めると、社会保険料が現役世代の負担能力を超えてしまい、社会保険制度そのものが崩壊するともいう。
 
 しかし、このような事態は、当然予測されたことである。
 突然に湧いてきた話ではない。なのに、政治的には何の手だてもされず、縦割り行政の役人の考える保険制度という枠の中だけで話が進行している。
 政治家のリーダーシップが全く見えず、まさに全体像を見る能力のない、自己保身に汲々とする小役人のいうままに新しい保険制度が発足した。
 そもそ、役人とは無責任で、自己保身しか考えない下等人間である。
 社会保険庁の無責任な年金制度の管理に言を待つもでもなく、国土交通省の道路特定財源の無駄遣や、無責任な高い道路建設と無駄なダム建設、農林水産省の無責任な農林行政、外務省の無駄遣いなど、上げればきりがない程の行政の無駄が多い。

 こういう事態こそ、政治家の出番ではない。
 そもそも、何のために政治があるのか。
 強者だけが生き残り、弱者が滅ぼされるような社会を矯正するために政治は存在するはずである。社会的な弱者を救うことこそ、政治ではないのか。
 弱者もそれなりに生を全うし、努力した者が報われる社会でなくてはならない。
 それに逆行する後期高齢者医療保険制度は、まさに政治の無責任である。
 その能なしの政治家を、人気投票のようにして選んできたり、我田引水のような政治家に投票してきた人々も同罪といえるかもしれない。
 ともかく、弱者の我々が気を取り直して、政治家を真剣に選び、大きな社会問題を自らの手で直していかねばならない。
 社会的な弱者こそ、いま手を携えて立ち上がる時である。