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随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

湿気と日本家屋

2006-07-07 11:04:04 | 紙の話し
和紙の歴史 


(五) 和紙と建具


湿気と日本家屋

日本の気候は、夏の高温多湿が特徴の一つであ。古代以来蒸し暑い夏をいかに過ごすかに悩み、住まいにさまざまの工夫をこらしてきた。
吉田兼好の『徒然草』に

「 家の作りようは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる
暑きころ わろき住居は堪えがたきことなり 」

とある。日本の住まいは、木と草と紙で構成される和風建築を育み、独特の湿気の日本文化を育てた。
木造住宅が発達したのは、木材に恵まれているという条件と、何よりも湿気の調節がきくことの意味が大きい。
高床式の構造に、茅葺きの屋根を高くし、庇を長くし、泥壁に畳、そして木製の建具に和紙を貼っている。これらはすべてが自然の素材で、湿度が高いときには湿気を吸収し、湿度が低いときには湿気を放出する調湿機能を持っている。
建物が大きくなり、屋根が瓦屋根になると、室内には明かり障子、ふすまや衝立、屏風などをを配置する。これらには和紙が貼られ、湿度、温度の調節を行っている。
これらの和紙にはいずれも植物繊維(主成分はセルロース)が原料で、紙自体が多孔質構造で表面積が非常に大きく、水分の吸収脱着を自然に行っている。
しかも障子やふすまは、開け放すことで解放空間ができ、家中を風が吹き抜ける。 また障子やふすまで仕切り、屏風や衝立で囲めば冬でも暖かく過ごせる。和紙の保温性は想像以上で、紙衣(紙子とも書く)や紙衾(紙でできた寝具)として衣料の代用としても用いられたことでもわかる。



紙の贈り物と礼式

2006-07-05 13:57:45 | 紙の話し
和紙の歴史 


(四)王朝文化と詠草料紙


紙の贈り物と礼式

紙は、生産量の少ない頃は貨幣と同じように扱われ、貴重なものとして心を通わせる贈り物、敬意や謝意を表す贈り物として、日本人の生活の中に早くから根を下ろしている。『枕草子』に

「白き色紙、みちのく紙など得つれば こよなうなぐさみて」

とあり、紙を得る喜びを表現している。
 このような紙の贈答で、王朝時代の公家社会では、心を通わせる習わしとなっていた。このような風習は、公家の日記に数多く書かれている。
『御堂関白日記』には、寛弘三年(1006)四月の灌仏会の布施料として、大臣は五帖、納言四帖、宰相三帖、などと紙を納めたことが記されている。
 いまなら布施料は貨幣であるが、貨幣と同じような感覚で納められている。
このような紙を贈る公家社会の習慣は、中世武家社会では一束一本、一束一巻という形で引き継がれた。
『看聞日記』には、永享五年(1433)正月地蔵院で点心のとき、扇と杉原紙十帖を引き出物としたことを記している。
武家社会では、扇一本と杉原紙一束(十帖)をそろえるのが原則とされているが、壇紙・美濃紙・越前紙・甲斐田紙・修善寺紙などをそれぞれ一束贈ることもあった。 一束一巻の場合、一巻は緞子が原則であるが、小袖・絹布・縮緬・葛布なども用いられた。安永六年(1777)刊の木村青竹編『新選紙鑑』には、一束一巻について、

「壱帖づつ二つ折りにやりちがえ、十帖重ねて、中を水引にて結び、上に緞子一巻、末広一本を添えて献上する也」

とある。


詠草料紙  

2006-07-04 12:37:48 | 紙の話し
和紙の歴史 


(四)王朝文化と詠草料紙


詠草料紙          

詠草料紙(個人の和歌、歌集用の紙)には、染め紙のほかにさまざまの技巧が施されて、抄紙段階でのものに打雲、飛雲、墨流しなどがある。あらかじめ漉いた雁皮紙の上に、青や紫に染めた繊維を細長く横に流して、漉槽の中で下辺にゆっくり打ちあてるようにすると、染めた繊維が雲の形に漉かれていく。
雲に対して、地上を流れる水を写したのが墨流しである。墨滴を水面に落として、その上に松脂を落として墨をはじき散らせ、これを繰り返して息を吹きかけて、水の流れを表現した墨汁の紋様を、雁皮紙で吸い取って写す技法である。
高度な加工としては、切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの技法を駆使したものがある。切り継ぎは、紙を斜めに切断し、切り口を少しずらして重ねて糊付けしたものである。

 破り継ぎは、いろいろの形に破ったを糊付けしたもので、長い繊維の足が不規則な形を作る面白味を演出したもの。重ね継ぎは、数枚の紙を少しずつずらして糊付けしたもので、濃淡に着色した四枚の薄葉紙と一枚の白紙とを用いて、色の濃淡の差を順次重ねると、ぼかし模様になる。
この他にも、さらにきらびやかな金銀箔や金銀泥による加工紙など、平安王朝のみやびたさまざまな詠草料紙が作られている
 天台宗の宗祖最澄は、延暦二三年(804)遣唐留学僧として渡航した折り、筑紫斐紙(雁皮紙)二〇〇張りを、日本の独特のすばらしい紙として、みやげものにして献じている。

 遣唐使が廃止されるようになってから、唐紙も国産化されるようになった。
当初、国産化の試みは唐紙の紋様や図案を中国では「花文」とよんでいたものを、とくに詠草料紙の雁皮紙に描き出すことから始まった。
 唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料)に膠をまぜたものを塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。      『 大鏡』には、

「・・・・ 黄なる唐紙の、下絵ほのかにおかしきほどなるに・・・・」

とあり、『西本願寺本三十六人家集 』『 元永本古今集』その他にも、雲母摺りのからかみが用いられている。
三十六歌仙の各家集を集成したもので、最も古く完全に近い姿を保っているのが、『西本願寺本三十六人家集 』で、昭和の補修を除いた三十七帖が国宝に指定されている。
『三十六人家集 』は、我が国の国文学史上はむろんのこと、美術史、工芸史の上からも、総合的に最高の評価を受けている。
こうして詠草料紙は、ハイカラな異国趣味の紙も用いるようになった。
このように、各種の技巧を凝らした華やかな料紙は、奈良時代からの技術が平安時代に王朝文化に育まれて、「華麗な和紙」は完成の域に達した。   
 その後は、美術的、工芸的な料紙は、あまり漉かれなくなり、もっぱら実用化と多様な用途開発の技術に傾斜していった。

華麗でみやびた王朝文化に代わって、質実剛健の武家社会が成立し、侘びや寂びの精神を尊ぶ武家文化が根付いていった。
官立の紙漉き場である「紙屋院」は、全国に紙漉きの技術の指導的役割を果たし、官庁用の紙の調達の役割を担ってきた。しかし、この頃には各地で高度な技術と独自の原料で紙が漉かれ、産地名を冠した紙が、いわばブランドとして宮廷でも脚光を浴びるようになり、相対的に伝統を重んじる「紙屋院」の紙屋紙の比重が低下していった。それに伴い、製紙原料の調達も細り、やむなく図書寮の古経書の漉き返しの宿紙を抄造せざるを得なくなったと推測できる。平安末期には、官営の紙漉きが時代の役割を終えて衰退し、各地の紙の産地が独自の紙を開発し、普及していく事になっていく。


うすようの紙

2006-07-03 10:08:21 | 紙の話し
和紙の歴史


(四)王朝文化と詠草料紙


うすようの紙

雁皮を原料とした斐紙がこの頃重宝され、薄様、中様、厚様の三種類があり、時の太政大臣平清盛に薄様を納めたとの記録がある。
雁皮は日本独特の製紙原料で、和紙特有の流し漉きによる高度な技術により、特に薄様に特徴がある。男性がおもに懐紙として厚肥えた楮の檀紙を愛用したのに対し、女性は薄様の斐紙を愛用した。斐紙はのちに鳥の子と称されるようになって行く。  
 女性が中心となって築いた王朝文化を象徴する典雅な紙としてもてはやされた。 『宇津保物語』の初秋の巻に、

「こともなく走り書きたる手の、うすように書きたる・・・」

『 枕草子』には、

「お返しは、紅梅の うすように書かせたまふ」

などとある。
薄様の斐紙(雁皮紙)は、華麗でいてこまやかな平安王朝の女性たちの、優美なかな文字の流麗な曲線で、墨筆を美しく走らせるのには最高の紙であつた。
薄様の紙はしばしば違う色の色紙を重ねて用い、「梅かさね」「萩かさね」「紅葉かさね」などと称して、色合いはなやかに薄様に歌などつややかに書きしるし、季節にふさわしい花などを添えた。
平安貴族たちは常に懐に紙をたたんで入れていた。懐紙は今日のハンカチのような用途の他に、菓子を取ったり盃の縁をぬぐったり、即席の和歌を記したり、貴族の必需品であった。                                
 懐紙は、「ふところがみ」また畳んで懐に入れるから「たとうがみ」等と称した。のちには和歌などを正式に詠進する詠草料紙(和歌を書き記す料紙)を意味するようになり、男性が檀紙を女性が薄様を用いるのがならわしとなり、正式の詠草料紙には色の違う薄様を二枚重ねて用いた。春には、上が紅梅、下が蘇芳(紫蘇の色)の「紅梅がさね」夏には、上が白、下が青の「卯の花がさね」に和歌を書き記したという。                 



紙をすく                         

2006-07-02 11:09:06 | 紙の話し
和紙の歴史 


(三)物語文学と和紙


紙をすく                         

紙を抄造することを、古来「造紙」といっていたが、平安時代には「紙をすく(漉く)」と表現するようになった。
 『正倉院文書』には「漉く」の文字は見あたらないが、『延喜式』では簀を「紙を漉く料」と注記している。                      
『延喜式』は五〇巻にわたる律令の施行細則で、平安初期の禁中の年中儀式や制度などを記したもので、官庁用紙や造紙に関する規定も盛り込まれている。
『源氏物語』には、

 「唐の紙はもろくて、朝夕のお手ならしにも、いかがかとて、紙屋の人を召して ことあげ言たまひて、心ことに清らかにすかせたまへるに」

と、ある。
造紙を「紙を漉く」と言い換え、「唐の紙はもろくて・・・ 」と表現するまでに、先進の唐よりも上質の「和紙」が漉けるようになった。


かな文字と女流文学

2006-07-01 10:24:46 | 紙の話し
和紙の歴史


(三)物語文学と和紙


かな文字と女流文学

平安初期には、一般に手紙は漢文で書かれていたようである。しかし、漢文では十分に意思を伝達することが困難であり、漢字を借用して大和言葉を写し、漢文を大和言葉風に読み下した、いわゆる万葉書きが文章にも使われるようになった。さらにこれが仮名書きに発展して、主として宮廷の女性たちに愛用された。恋文では漢文では思いのたけを十分表現できず、読み手が女性の場合が多く、仮名書きの文が多用された。京都の青連院には、藤原為房の仮名書きの手紙が残されている。
平安時代の女性は、手紙は薄い斐紙、すなわち薄葉の色紙を二枚重ねて仮名文字で書いた。
仮名書きの手紙では、男も女も末尾には「あなかしこ あなかしこ」と書いた。

正式の手紙は一枚の紙(全紙)をそのまま用いて、縦に書いたので竪文といい、また全紙を横に二つに折って、折り目を下にして書いた折紙もあった。折紙を二枚に切り離した切紙、これを横に継いだ継紙、さらにこれを巻いた巻紙もあった。 
平安時代は、藤原一族の栄華のもと太平の世が永く続き、絢爛たる貴族文化が花開き、国字としての仮名文字が生まれ、江戸時代以前で最も著作物の多い時代である。

 物語文学では、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保物語』、『落窪物語』そして『源氏物語』など世界最古で世界に誇る多くの名作が著された。また日記文学も隆盛で、『土佐日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記、』、『更級日記』など多くの名品が残され、随筆として特筆される『枕草子』、『古今和歌集』に代表される多くの和歌集などもこの時代の作品で、国文学史的にも瞠目すべき時代であった。また多くの物語文学に付随して「源氏物語絵巻」に代表される多くの絵巻物が描かれた。



みちのく紙

2006-06-30 11:54:15 | 紙の話し
和紙の歴史 


(三)物語文学と和紙


みちのく紙

平安時代には、漢字を使用する男性は楮の穀紙、かな文字を使う女性は陸奥紙(檀紙)を使用したという。
『源氏物語』には、

「みちのく紙の 厚肥たるに 匂ひばかりは 深からしめたまへり」

『枕草子』には、

「白き清げなるみちのく紙に いとほそうかくべくはあらね 筆して文かきたる」

と、記されている。
 平安後期以後の檀紙は、ダンシと読まれ、原料も楮を原料とした紙で、天平時代の檀紙と別ものであるという説があるが、別の説では、もともと楮を原料とした木綿を原料とした、真木綿紙が転訛して「まゆみ紙」となったという。
江戸時代中期の高名な学者でる新井白石が、宝永二年(1705)に著した『紳書抄』に、

「壇紙は陸奥より始まりける也。俗に引合と云ふは是也。男女の心を通ずる玉章に 此の紙を用ゆる故に引合とは申すとかや。」 

とある。玉章とは手紙のことである。 
また、文化二年(1805)刊の谷川士清著『和訓栞』に、

「ひきあはせ 壇紙をいふ。男女の志を通はす艶書に此の紙を用いしより名づくと いへり西土の書に松皮紙と見えたり。」

とある。松皮紙という名は、壇紙の表面に繭のような荒くて艶のある皺が波打っているところから呼ばれた別名で、鎌倉時代に中国(元)へ輸出され、中国では松皮紙と呼ばれた。
伊勢貞丈の『貞丈雑記』弘化二年(1845)t刊には、

「引合と云う紙は 昔は有て今はなき紙也。色うす黒き紙なる故 うす墨紙とも云ふ。また、陸奥国より出し故 みちのく紙とも云ひし也。」

とあり、また『源氏物語』にみちのく紙とあるのは引合のことであり、うす墨紙も、『源氏物語』須磨の巻などに出ていると書いている。そして、うす墨紙には、引合と宿紙の二種類あるとしている。
 さらに明治七年刊の『大言海』には、

「古へ、檀ニテ製セリトゾ。今ハ、楮ナリ」            

とあり折衷案をとっている。
 『和漢三才図絵』には檀紙について

「厚く白くして...松の皮 繭の肌ににる」
「大高・引合・繭紙・松皮紙などの数名あり。」               

とある。

楮紙ながら穀紙とはちがった紙肌であるため、わざわざ檀紙と命名した可能性が高い。雁皮紙のことを、わざわざその肌合いから鳥の子紙という感性からきたものと思われる。


絵巻物

2006-06-29 14:30:44 | 紙の話し
和紙の歴史 


(二)装飾経と絵巻物


絵巻物

文字ではなく主として絵を描いて巻物に仕立てたものが絵巻物である。
絵巻物形態はの源流はインドであり、中国経由で日本に伝えられた。それらは小判のものであったが、和紙の製紙技術の向上にともない、日本では大判の絵巻物が多く描かれた。
王朝文化とともに発展した大和絵は、屏風絵などとして残っているものはほとんどなく、絵巻物として今日まで残っている。
絵巻物は、紙を横に長くつないで、情景や物語を連続して動的に展開する絵画形態である。
日本での絵巻物の源流は、奈良時代に作成されたもので、仏教説話を主題としている。平安中期からの絵巻物は、王朝文学の物語、説話、歌などの絵による展開を主流とするようになった。内容を述べる詞書とそれに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。

物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『栄華物語』などの文学作品を、独特の表現力で活写している。
 特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩できらびやかな貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹き抜け屋台で描かれており、当時の住まいの状況や建具の使用状況などが一望できる貴重な資料となっている。
 優美な草書体の詞書と絵画を交互に配し、その料紙は紫・紅・黄・青などの淡い間色に打雲やぼかしを加え、金銀箔や野毛、砂子を撒き、さらに松や柳を描き添え、梅花や蝶などの図をあしらった、素晴らしい装飾が施されている。文学と絵画と書道そして料紙の工芸美とで作り上げた総合芸術作品といえる。 
中世には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社の縁起や僧伝の説話絵巻などが多く作られた。





 装飾経

2006-06-27 14:14:12 | 紙の話し
和紙の歴史 


(二)装飾経と絵巻物


装飾経

奈良時代は仏教を「鎮護国家」の基本に据えて、その普及に努め、写経事業も大規模に進められた。これらの写経料紙は、染めて使うのが主流で、主に黄染紙であった。紙を染めるのは、聖なる教典を書き写すため、より美しくするためと、虫害を防いで長く使用するためであった。
より荘厳さを持たせるために、紫紙に金銀泥で書いた装飾経も作られるようになった。この紫紙金字経などから、金銀箔や金銀泥で装飾することがはじまった。このように染めたり、金銀箔をちりばめる加工は、天平文化の中で花開いた。
奈良時代の紫紙金字経に対して、平安時代には紺紙金字経が多く作られた。

 詠草料紙にも紺紙に金銀箔を散らし、金銀泥で書いた者があるが、写経料紙にはもっと細かい技巧が施され、金泥で界線を引き、あるいは金箔を細く切った切金を界線としたものもある。
きらびやかな装飾経の最初といわれ、紫紙、紺紙などに金銀泥で書き、また金銀の切箔・野毛・砂子を散らし、下絵には蓮華をはじめいろいろな草木を配して壮麗な装飾を施したものが装飾経である。
平安時代には、権勢を誇った貴族の手で写経が進められ、浄土信仰と相まって盛んになり、競って装飾経が作られた。此の当時の日記には、写経荘厳、荘厳華美、珍重無極等の文字が示されている。
現存する装飾経で著名なものは、大治元年(1126)藤原清衡が発願してつくつた紺紙金銀泥一切経で、銀界線を引き、金字と銀字を一行おきに交書きしている。


流し漉き

2006-06-26 12:18:32 | 紙の話し
和紙の歴史  (2)和紙の伝統文化


(一) 紙屋院と和紙の成立


流し漉きの確立

 平安時代に入ると、山城国の紙戸が廃され、大同年間(805~809年)に「紙屋院」という(「しおくいん」とも読む)官立の製紙工場が作られ、日本固有の製紙法である「流し漉き」の技術が確立されている。     
 紙を漉く時に、揺すりながら紙の層を形成する方法で、中国の静置して脱水する「留め漉き」と異なり、「ネリ」と呼ばれる植物の粘性物質を使用する事に特徴がある。紙料(叩解の済んだ原料)を水に分散して、とろみのような粘性の物質を加える。ネリを加えることにより、水の粘性があがり、簀の子からの脱水がゆるやかになり、繊維が簀の子の上に均一に並び、薄い紙を漉くことが出来る。さらに、簀の子へのくみ取りが数回に渡ってもうまく層が重なり合い、厚みも自在に調節できる。まさに製紙の画期的な技術革新であり、名実ともに和紙の誕生であった。「ネリ」はノリ,タモとも呼ばれ、ニレの皮やサネカズラの茎の外皮などから作られた。のちに、黄蜀葵の根や糊空木の皮などから作られた。
ネリを使用して漉きあげると、漉きあがった紙を順次積み重ねて、水を絞り乾燥させたあと、一枚一枚に剥がせるという特性がある。そして乾燥して完成した紙には、「ネリ」の影響が全く残らない。




紙屋院

 紙は文化のバロメーターと言われるが、まさに平安時代は紙の需要が急速に拡大した時代であった。
これらの需要に対応するため、「図書寮」と直属の「紙屋院」が造紙技術の中心となって、各地の紙漉きを奨励育成して四十四カ国に及び、紙を生産しない国は数カ国に過ぎなくなった。
藤原時平選『日本三代実録』に、清和天皇崩御の後(880年)、東宮のご息女藤原朝臣多美子が、帝から賜った御筆手書を集め、「漉き返し」をして法華経を写書して敬慕供養を行ったとある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』で、反故紙を使って漉く薄墨色紙はこの事例をもって初めとしている。当時はむろん脱墨技術はなく、「漉き返し」を行うと薄墨色紙となった。
美濃国には延喜以来、官設の紙漉き場「紙屋院」があり、図書寮から役人が派遣され、色紙を抄造して、毎年京都へ送らせて宮中で用いられるようになった。
一条天皇の時代には、宮中で色紙を好んで用いるようになり、その製法も染紙や加工紙などさまざまなものが作られ、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが用いられたと、『本朝世紀』正暦五年(995年)の条にある。

堺紙屋紙という名が史料に見られる。
 紙屋紙とは、本来奈良朝の「紙戸」、平安朝の「紙屋院」という官立の漉き場で抄造された紙の称で、紙の品質の高さの証明でもあった。ところが、平安末期の頃には、「紙屋院」では主として「宿紙」と称された、漉き返し紙を抄造するようになっていた。
 「宿」は、旧・久の意であり反故紙の漉き返しの意味に使われ、浅黒くてむらもあり薄墨紙・水雲紙ともいわれた。そして、いつの頃からか漉き返し紙の宿紙を紙屋紙と称するようになっていた。堺紙屋紙は、宿紙である。

 かって輝かしい名であった紙屋紙は、古紙再生の漉き返し紙の宿紙の代名詞となっていった。
この背景には、律令体制の衰退とともに、荘園で盛んになった紙漉きに原料が使用されて、図書寮では原料の確保が年々難しくなった事による。
宿紙の代名詞となった紙屋院は、中性の南北朝期に廃止された。
文治元年(1185)平氏が壇ノ浦で滅び、源氏の鎌倉幕府が成立して、きらびやかで消費的であった王朝文化から、粗野ながらも質実剛健な武家社会が台頭した。紙の消費層も、公家・僧侶から武家・土豪に広がり、実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃紙などが流通した。
紙作りの主流は、荘園や守護地頭の下に移っていった。