子どもが学校からもって帰ったプリントに こんな文章がのっていました。
金子みすずさんの詩と それについて書かれた誰かの文章です。
『こだまでしょうか』
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも
そして、それについて書かれてあった文章に、ひどく衝撃を受けました。
文章は覚えていませんが、たしかこんな内容でした。
かつて、子どもだった頃、「痛い」というと、「痛かったね」という大人(母親、父親、祖父、祖母、近所の大人)にかこまれていました。
それが今ではどうでしょう。
「痛い」というと「痛くない」という大人。
「痛い」と否定していませんか。
「痛くない」 言ってるわ。。。
こだまって大切なんですね。
仕事では「痛かったね。頑張ったね。」が言えるのに、我が子には言えてない自分に反省です。
金子みすずさんの詩と それについて書かれた誰かの文章です。
『こだまでしょうか』
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも
そして、それについて書かれてあった文章に、ひどく衝撃を受けました。
文章は覚えていませんが、たしかこんな内容でした。
かつて、子どもだった頃、「痛い」というと、「痛かったね」という大人(母親、父親、祖父、祖母、近所の大人)にかこまれていました。
それが今ではどうでしょう。
「痛い」というと「痛くない」という大人。
「痛い」と否定していませんか。
「痛くない」 言ってるわ。。。
こだまって大切なんですね。
仕事では「痛かったね。頑張ったね。」が言えるのに、我が子には言えてない自分に反省です。