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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 祇園の夜

2007年04月14日 | 

 

 

 

祇園の夜

 

 

去年の夏のアノことをご報告しなければならない方がいた

あの哀しい知らせを 何処から漏れたか 弔電を戴いた御礼もあった

その祇園・甲部にあるさるお茶屋さんに出向いた 

独りだと何かと心細い オフィスの女性陣を三人ほど同行願って 

予約を入れると 慌ただしい最中 漸くひと部屋を用意して戴いた

 

三人の女性達は皆生粋の京都人ばかりだが 

お茶屋遊びの経験がまったくないと言う

男性陣は今後何時でも行けるからと言い訳し 

今夜は女性陣だけを連れて行くと宣言し オフィスを出た

 

日本一美しい常照皇寺の九重櫻が満開で 

御室のお多福櫻も漸く花時であったから 

私は今日一日は上気しっ放しで 頗る上機嫌であったかも知れない

京都の春を満喫させて戴いた心地よさ 堪らなかった

 

嘗て主人と共に何度もお邪魔しているお茶屋さんだが

私とのお付き合いは 私から新たに始まるわけで 畏まっていた

芸妓さんが来られる前に ひと通り女将にご挨拶申し上げた

「私一代で 大切な親子のお客様を 二人共に亡くした喪失感」と

女将がポツリと洩らす 

 

櫻行脚も一応の区切りをつけたいので 今夜は騒ぎましょうと

敢えて申し上げ 芸妓さん三人 舞妓さん一人 地方さん二人が来て

連れて行った女性達は 何の遠慮もなくキャ~キャ~と騒いでいる

失敗したかなと思われた瞬間 芸妓さん達も次第に盛り上がって来て

私はほっとして静かに 女将の進められるまま酒をあおり見ていた

 

こんな風にして女の子達を大勢連れて来て済みませんと言ったら

言え言え 逆に芸妓の子達もいい息抜き出来てますねんと仰る

私は内心 主人には追いつけないなぁと実感しながら

それでも実に楽しいひと時を過ごせた

 

帰りがけ ふと床の間を見ると 

亡き主人が大好きだった鬱金(うこん)の櫻花が

さりげなく備前の花器に ひと枝挿してあった

 

 

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櫻灯路より 『京都のお茶屋さんで』

 


 パリ郊外ヴァンサンヌの櫻

2007年04月12日 | 

 

 

 

パリ郊外ヴァンサンヌの櫻

 

 

パリ郊外ヴァンサンヌ在住のMiyokoさんから 

美しい櫻の写真のメールが届いた

パリの中でも 特にレアールは中心街でパリ1区には櫻が多い

昔は築地市場のような やっちゃ場の場所であったが解体され 

今や一大商業スペースとして 驚異的な発展をしている

そのほぼド真ん中にポンピドー公園があって 

幾多の櫻が咲いている 八重もあれば種類が多く 花期も長い

色々と品種改良されたであろう櫻も数多くある 

更に今回 ソー公園の櫻の花の写真も送られて来ていたが

こちらのヴァンサンヌの櫻の方を選び ここに掲載することにした

更に驚くことに 色んな通りに並木として櫻が植えられていて

そんなパリの香りを戴きながら 櫻の写真を観るのも嬉しいものだ

日本より北国のパリ中心街にも漸く春が訪れたのであろう

いつか再びパリまで櫻行脚をしようと思う

 

 


 ワシントンD.C.の櫻とエリザの物語

2007年04月12日 | 

 

 

 

ワシントンD.C.の櫻とエリザの物語

 

 

花は盛りの伊勢の神宮を巡って 漸く京都に帰って来た

外から京都を思う時 愛憎蠢く爛熟の様を否応なく想像するが

こうして再び京都に足を踏み入れると ほっとしている我がいる

京都の櫻は今が盛りで 場所によっては散り始めているようである

 

駅頭に立って直ぐ 国道一号線をタクシーで一気に南下 

久世群久御山の川沿いに櫻のアーケードがあるからと

そんな噂を聞いて 社員を誘って一緒に観に行って来た

両岸に零れるような花片が満ち溢れ 春爛漫そのものであった

 

今夜は泊まれる宿がない 社員の一人が どうか泊まって下さいと

ここ吉田中大路町に連れて来られ 温情に甘えるところである

確か近くには吉田神社があるのだろう 閑静な町で直ぐ好きになった

 

櫻のことを ああでもないこうでもないと考えていると

皆様にどうしても伝えておかなければならないことがある

ましてや前記事では 国家の品格の話題を出したから余計にそうで

毎年櫻祭で 世界のポトマック・リヴァーになっているワシントンの

櫻物語には エリザと言うアメリカ人女性の存在なくしては

一つも語れない 日本を愛し櫻を愛し アメリカに持ち込んだ

最大の功労者エリザのことは実に感動的だが 殆ど知られていない

是非 櫻灯路『ワシントンD.C.櫻物語』をお読み戴きたいのである

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エリザから 今改めて国家の品格を学ぶ時ではなかろうか

 

鎮花祭は 今まさにあちこちの神社で行われている

上記写真の狭井神社縁起に書かれてあるのは 

狭井神社の鎮花祭のことだが 割引しても凄いことが書かれてある

何と国家の行事であると断じているのである ここでの鎮花祭は四月十八日

 

明日十三日は 嵯峨野の法輪寺で 十三参りがある 

生まれて初めてやって来る干支に これから大人へと成長するのを

智恵の御仏さまである虚空蔵さまに 

数えになった歳にお願いするお祭りである

再び櫻灯路の『十三参り』の記事です

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!7136.entry

 

明日もう一度オフィスに出て それから道草さまとお逢いしたいのだが

大先輩の方だから 不用意に御酒の席にお誘いしたら 失礼に当るだろうか

文学について 殆ど門外漢の私にとって 色々と優しくお教え下さり

何時も感謝申し上げている次第で どんなに感謝の言葉を申し述べたいか

 

明日は 今年の京都の櫻 最後の櫻になるだろうか

仁和寺も常照皇寺の九重櫻も気になって仕方がないのだが・・・・

 


 本居宣長・奥墓(オクツキ)の山櫻

2007年04月12日 | 

 

 

 

本居宣長・奥墓(オクツキ)の山櫻

 

 

最近『国家の品格』と題する本が出て評判になった

日本人のアイデンティテーを何処に求めるかであろう

凡そ武士道に求めたように思われたが 

もう一つ大倭心があるのではないかと思われ 

急に思い立つように 松坂に向かう

 

吉野から山を降りて 室生・長谷寺の櫻も巡った

だが 伊勢・松坂へ 心ははやにどうしても行かなければと

本居宣長 山室山に眠る宣長の奥墓に立つ山櫻へ

山の下にある妙楽寺から 更に山室山へ登り 立派な奥墓があった

見ると背後に確かに山櫻が咲いていたが 何と周辺には殆ど山櫻の植栽

多分後から植えられた山櫻であろうか 美しく咲いていた

晴れた日なぞは ここから富士の高嶺も見えると言う

 

以前この奥墓の横には 宣長を御祭神とする山室山神社があった

神に祀られた宣長はその後有為翩々としながら 手厚く庇護され

明治政府・取分け明治天皇から 金一封を受けられたこともあって

現在は松坂町殿町に移転し 従四位から従三位へ格上げになり

『本居宣長ノ宮』と改称されたのは平成七年であり 記憶に新しい

 

古事記を丹念に調べ 『古事記伝』を著し 『玉勝間』など多数

更に驚くべきことは 詠んだ歌が一万首を超えている

大和心とは何であるかを只管追求した稀有の人生であった

 

我が死の葬送の方法を 

そしてそこに山櫻を植えよと言った遺言を事細かに指示し

「秋津彦瑞櫻根大人(アキヅヒコミヅサクラネノウシ)」として

霊牌を作り 祭祀を行うようにとの詳細があった

何故斯くの如くして逝かれた根拠は何だったのか

憶測に過ぎないが 魂の在処への拘りだったような気がしてならない

我が魂は 皆と共にあると

 

弟子・平田篤胤は言う

「師の翁も、ふと誤りてこそ、魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、

彼処(カシコ=黄泉の国)ぞといはれつれど、老翁(オヂ)の御魂(ミタマ)も、

黄泉国(ヨオツノクニ)には往坐(イデマ)さず、

その坐(マ)す処(トコロ)は、篤胤(アツタネ)たしかにとめ置きつ、

しづけく泰然(ユタカ)に坐まして、先だてる学兄達(マナビノイロセタチ)を

御前に侍(サモ)らはせ、歌を詠(ヨ)み文(フミ)など作(カ)き、

前(サキ)に考(カンガ)へもらし、解誤(トキアヤマ)れることもあるを、

新(アラタ)に考へ出(イデ)つ。こは何某(ナニガシ)が、

道にこゝろの篤(アツ)かれば、渠(カレ)に幸(チハ )ひて悟らせてむなど、

神議々(カムハカリハカリ)まして、

現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬ をや」

 

又このようにも言う

「然在(シカラ)ば、老翁(ヲヂ)の御魂(ミタマ)の座(オハ)する処

(トコロ)は、何処(イヅコ)ぞと云ふに、

山室山(ヤマムロヤマ)に鎮座(シヅマリマ)すなり。さるは、

人の霊魂(タマ)の、黄泉(ヨミ)に帰(ユク)てふ混説(マギレコト)をば、

いやしみ坐(マ)せる事の多(サハ)なりし故(カラ)に、

ふと正(タダ)しあへ給はざりしかど、然(シカ)すがに、

上古(イニシヘ)より墓処(ハカドコロ)は、

魂を鎮留(シヅメトド)むる料(タメ)に、かまふる物なることを、

思はれしかば、その墓所を、かねて造(ツク)りおかして、

 

詠(ヨ)ませる歌(ウタ)に、

 
  山室に ちとせの春の 宿(ヤド)しめて


          風にしられぬ 花をこそ見め


また、


  今よりは 墓無(ハカナ)き身とは 嘆かじよ


          千世の住処(スミカ)を 求め得つれば



と詠(ヨマ)れたる、此は凡て神霊(タマ)はこゝぞ住処(スミカ)と、

まだき定めたる処に鎮居(シヅマリヲ)るものなる事を、悟(サト)らしゝ

趣なるを、まして彼山は、老翁(ヲヂ)の世に坐(マシ)し程(ホド)、

此処(ココ)ぞ吾が常磐(トコトハ)に、鎮坐(シヅマリヲ)るべきうまし山と、

定置(サダメオ)き給へれば、彼処(カシコ)に坐(マ)すこと何か

疑(ウタガ)はむ。その御心(ミココロ)の清々(スガスガ)しきことは、



  師木島(シキシマ)の 大倭心(ヤマトゴコロ)を 人とはゞ


          朝日(アサヒ)に匂(ニホ)ふ 山さくら花



その花なす、御心の翁(オキナ)なるを、いかでかも、

かの穢(キタ)き黄泉国(ヨミノクニ)には往(イデ)ますべき」



 

更に

 
「さて、此身死(マガ)りたらむ後に、わが魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、

疾(ト)く定(サダ)めおけり、そは何処(イヅコ)にといふに、



   なきがらは 何処の土に なりぬとも


          魂(タマ)は翁の もとに往(ユ)かなむ



今年先(コトシサキ)だてる妻(イモ)をも供(イザナ)ひ

【かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、

予が道の学びを、助成せる功の、こゝらありて、

その労より病発りて死ぬれば、如此は云ふなり、

それは別に記せるものあり】


直(タダチ)に翔(カケ)りものして、翁の御前(ミマヘ)に

侍居(サモラヒヲ)り、世(ヨ)に居(ヲ)る程(ホド)は

おこたらむ歌のをしへを承賜(ウケタマ)はり、

春は翁の植置(ウヱヲ)かしゝ、花をともども見たのしみ、

夏は青山(アヲヤマ)、秋は黄葉(モミヂ)も月も見む、

冬は雪(ユキ)見て徐然(ノドヤカ)に、

いや常磐(トコトハ)にはべらなむ」

 

平田篤胤説に依れば 宣長が死して後 黄泉の国に行くと言っていたのは

誤りで 私がはっきりと聞いている

亡骸は 千代の棲家とした山室山にあるけれど

霊魂は それぞれの弟子や心ある者たちと一緒になり

今までの学説の誤りや新しい学説の後人との議論を待っていると

 

そして同じ歳に亡くなった妻は永年学問の犠牲になったので

それまで歌詠みなどを出来なかったが 今度は妻と二人で出来るようになる

予め造っておいた墓所で 櫻を植えて貰い

その春の花を愛で 夏の青山を見 秋には紅葉や月を楽しみ 

そして冬は雪を観て 泰然自若としていると

 

私は思ったのである 国家の品格とは武士道にだけあるものではなく

厳粛に己が人生をすべてヤマトゴコロに捧げた人があったではないかと

 

神道の極意は 教義もなく 何なのか

それは祓いであり 清めであるに違いなく 鎮魂と魂振である

清浄なる世界への祈りが神道であったと

但しあの軍部独走から 何たる恥辱を受け続けたのだろうか

 

明治のご維新の際 戊辰戦争などで亡くなった薩長同盟の戦死者だけを葬り

事後国家神社としてなせる靖国神社の在り方は 何処か偏屈であり

ましてや戦地で死ぬこともなく 自決も出来ず 戦犯として亡くなった方を

果たして本当に 他の戦死者と同列に置いていいものか 

私には甚だ疑問に思えてならない 一遺族として憮然たる思いが残る

 

戦犯で亡くなったご遺族は 自らの手で それぞれの御霊の霊牌を作り

それぞれの神社を作って祀ったらよかろうと思うが極論ではない筈である

善通寺市にある四国76番札所・金倉寺に「妻返しの松」があった

逢いに来た妻を帰した処にある松で 明治人の気骨溢れる逸話であったが

我が敬愛する乃木稀典のように ご自身の社を堂々と作ったらいい

 

私は周辺諸国に阿っているつもりは一切さらさらない

本居宣長のすべての学問に照らし合わせ そう断じたいだけである

 

今日は 伊勢の神宮を参詣してから 再び京都に入ろう

 


 

 

巻頭写真は 山室山山麓の御寺・妙楽寺にある宣長の絵馬

宣長の奥墓は妙楽寺から領地を分けて貰い 本人が建てたものであった

 


 御所櫻と斎王櫻

2007年04月10日 | 

 

 

 

御所櫻と斎王櫻

 

 

こうして旅をしていても 先日訪れた大好きな上賀茂神社の

あの二本の櫻木が気になって 後ろ髪を引かれて仕方がない

御所櫻は満開であったが 

斎王櫻はまだ咲き始めたばかりであった

御所櫻はやや白っぽく気品に満ちた櫻で

斎王櫻は 平安神宮の紅枝垂れ櫻と同様に

紅い小粒な花が爛漫と咲く

 

小生は もし仕事の合間や多少の無理を承知の時間があったならば 

『斎王』の起源と歴史を徹底して調べたいと日頃から思っている

取り分け気掛かりである訳だが 

当然今頃は花が満ちて来ている頃だろうか

 

先ず伊勢の神宮の斎王を調べている

実に面白いのである 女官とは言え 

斎王とは神々の愛する御方であった

神聖で 且つ清新な匂いが大いに隠されているようで面白い

先ず書誌学的に押さえたいと思っている

いずれ斎王の話をする機会もあろう

 

男女の仲を何か超越した領域があるのかも知れない

 

 

 

写真は上賀茂神社の御所櫻である

 


 気品高き山櫻に埋(うず)もれて

2007年04月10日 | 

 

 

 

気品高き山櫻に埋もれて

 

 

チームの中に ちょうどよく吉野の宿を取っていてくれたお陰で

昨日からずっと吉野で 山櫻の海の中で埋もれている

昨日は黄砂が酷かった所為か 櫻はぼんやりと霞み

上の千本も既に満開であり 水分神社付近から見晴らしよく

蔵王堂が風景の真ん中に入っていた

 

今日も日仮名歩き回った 何と言う気品高き山櫻かな

抱きしめても 誰も止めないし咎めない

樹の音を聞いたり 樹の下にて 静かに夢想したり

幸せの極地である

 

中の千本を歩いていると 近くの里人であろう

今時分とは思いつつも 感心しながら 山櫻の苗を手にするご老人が

山を登って行くのと遭遇した ご神木はこうして守られて来たのだろう

山は一夜にしてならず 蔵王信仰の許に 

里人によって営々と受け継がれて来た永い歳月の結果だと

 

下も中も上も 皆満開で思い掛けないいい時に来たものである

そして明日蔵王堂で 花会式と懺法会がある

折角だから それを見学させて戴いてから お山を降りることにしよう

 

夜半 夜櫻見物で 中の千本にいた方々は数組

皆 花に酔い痴れ 茫然としているようで 誰独りとして

騒いでいる方はいない 無論旅館に泊まっているのだろうが

このような花寒の真夜中に 静かなる花見は 眞にいいのもである

このまま死んでも悔しくないと思いつつも

 

 

 

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!5148.entry

櫻灯路 『爛漫たる櫻の海 吉野幽春』より

 

http://www.chikurin.co.jp/index.htm

今宵もこの宿舎 竹林院群芳園

 


 やすらい花よ 鎮めておくれ

2007年04月08日 | 

 

 

 

やすらい花よ 鎮めておくれ

 

 

今日は今朝から忙しい 亡き主人の生誕の日だからだ

潅仏会があり 佐原・香取神宮ではお田植祭りがあり 復活祭も本日

そして櫻の咲く頃 或いは散り際に 各地で開かれる鎮花祭の多くは

四月の第二日曜日になっている 当然京都でも何箇所かで鎮花祭がある

 

京都では鎮花祭を『やすらい花』と呼んでいるが

花が 多くの疫病を運んで来るから 花鎮めを行う行事は

平安の古代から連綿と続けられて来た 

大宝神祇令(701年)には 既にやすらい花が見受けられ 

如何に古い形式の行事かがお分かりだろうと思われる

 

人は奇祭(京都三大奇祭)と言うが 何故か当然な祭りであるような気がする

櫻花爛漫と咲き ちょうどその頃天候不順で どなたでも体調が

思わしくない状態に陥る 従って主に櫻花の所為にして 

花鎮めの行事をしなければならなかった 

 

京都だけでも 今宮神社内の疫神社で行われる『やすらい花』が有名だが

京都の他の神社では玄武神社の玄武やすらい花・川上神社の川上やすらい花

更に上賀茂神社(こちらは5月15日)でもやすらい花が行われる

全国的に見れば 奈良・春日大社の摂社でも鎮花祭があり

主に宇佐八幡宮関係・各所の多くの神社でも 厳かに鎮花祭が行われる

 

花そのものに そもそも呪術性があり これに中世には

風流(ふりゅう)囃子がつき 派手な演出となり 更に御霊会が加わって

現在のやすらい花が成立したのである 芸能史的にも非常に貴重な存在で

花を鎮め その呪力を駆使し疫病を退散せしめ 五穀豊穣を願った祭りが

この『やすらい花』の本義であろうと実証出来る

つまり疫病退散の呪術と御霊会とが 非常に上手く合体したのである

 

天候不順と言えば 昨日花背の山歩き中 突然の雨に襲われた

山櫻に見惚れていたからか 櫻花は人を狂わせる魔力があるのだろう

吉野山・蔵王堂では 中の千本の満開の花とともに『花供会式』がある

こちらはご神木の山櫻が満開になったと言う神への感謝の報告儀式だ

 

櫻の「さ」の字は神の意味で 「くら」は座を表し

 さなぶり・早乙女・相模・酒の「さ」と同義語であると言うのは

折口信夫流の直感主義の学説であったが さてどうだろうか

 

各寺院では潅仏会が華々しく行われ 幼子の仏陀のご尊像に甘茶を掛け

釈迦の生誕を心からお祝いする行事が 宗派に限らず方々で行われる

白象に立脚する天上天下唯我独尊のご尊像の作り物を中心に稚児行列もあり

又この日地獄絵も飾られる 亡き主人はそれを観たくなかったから

自分の誕生日は嫌いで嫌いでならなかったが 

成人になられてからはそうではなかった 

地獄絵以上の様々な現象が この世には幾らでもあると

 

キリスト教では 復活祭が最も重要な祭りで イースターとも呼ばれ

キリストが復活した重要な移動祝祭日で 今年は本日8日がその日に当たる

 

亡き主人は幸せな人である 神仏からお祝いされ その上櫻によって

多くの方々の記憶から途切れることはないだろうと思われ

櫻花と共に 清らかに鎮魂して戴きたいと願うばかりである

と言ってもあの人のことである 多分今頃は

千の風になって自在に大空を駆け巡っていることだろう

 

今朝暗いうちに 仁和寺さんにお邪魔して あなたへ読経して戴きましたよ

仁和寺さんの御室櫻も常照皇寺さんの九重櫻もまだ先ですからね

それまで何処かで自由にしていて下さいね こっちは大丈夫ですから

 

 

http://www3.zero.ad.jp/gennbu/yasurai.html#yasurai 玄武やすらい花の起源

口絵は このサイトからお借り致しましたやすらい花の屏風絵です

 


 櫻と私と

2007年04月07日 | 

 

 

 

櫻と私と

 

 

櫻好きになったのは 当然或る方の多大な影響であるが

東京から車で疾駆して 各地の名木を訪れる場面が多かった

そんな時 秋の紅葉の時季に日光いろは坂を上る場面と同じように

朝テレテレして出発するのではなかった 必ず真夜中に出る

そしてうっすらと明かりがさして来た頃に観櫻する これが鉄則

殆どの名木は 朝の八時を過ぎると ぞろぞろと幾重も人が集まり出し

観櫻どころではなくなるからだ 然も朝の色彩の早い変化が素敵で

何処へでもランドクルーザーで出掛けたものだった

 

誰もいないうちに 櫻を抱きすくめる そこでご挨拶をする

すると不思議に花片たちがこちらを全員で観てくれているようで嬉しかった

古い樹には大抵祠がついている そこにもお参りすることは当然の事で

地元の方々が抱く櫻への愛着や彼らへの敬意も忘れてはならなかった

 

今では殆どの名木に囲いが施されている 当然と言えば当然だが

昨今カメラを持つ人が圧倒的に多く 三脚を持ち出し

櫻の根元を傷つけ 挙句の果ては枝を折る人までいるから驚きだ

櫻切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿の譬え通り 櫻は切ってはならないが

最も多い櫻の病のテング病は人間の介在が 圧倒的に多い

傷つけられた根元には 膨大な数のシロアリが取り憑き厄介な病気である

或いは傷口から沁みて来る様々な疫病が 櫻を途方もなく痛めつける

従って地元の熱心な方々が 最低の防護するのが当たり前だろうと思う

 

私達観光で出掛け観るだけなら無責任極まりないのであり

地元で どんな思いをして古木・名木を守って来たか計り知れない訳で

櫻から問い掛けて来る問答を ちゃんと受ける為にも 静かに鑑賞し

人の生涯より遥かに永く生きる櫻への崇敬の念を 決して忘れてはならない

 

今年の淡墨櫻は 日本有数の断層地帯の中で暗く悲鳴を上げている風だった

花の時だけ来るけれど 葉櫻になり 真夏に来年の花芽をつけ

年がら年中 見事な花をつける為に努力し生息しているのである

真冬 私の主人は必ず櫻の許に行って スケッチをすることが多かったが

大雪が降って 枝や幹の形体が不本意に変わる事を始終心配ばかりしていた

東京にいる時だって どうかご無事にと地震の時や雪害が出そうな時なども

お仏壇や神棚に向かって一心に祈り続けることが結構多かった

 

そうして厳しい冬を経て 春爛漫の花片をつける時

お互いに愛し合っていた恋人同士の 運命の再会のように 

静かで豊穣な対話の時間がたゆたゆと流れた

私は花祭りの日に生まれ 櫻馬鹿で 花と散った彼を誇りに思う

花が儚いのではない 人間が儚いのだと繰り返し教えてくれた事を

今しみじみと深く感謝している 有難う櫻たちよ そしてあなたへ

 

雪月花さまがあなたへ追悼文を書いて下さいました

あなたの大好きな山櫻の絵とともに書いてくれましたよ

雪月花さまには 心から感謝申し上げます

http://blog.goo.ne.jp/setsugekka_2/ 雪月花 季節を感じて

 

今日は市内の大混雑が予想された為 花背に逃れ 山櫻の開花を歓び

一日中嬉々として山歩きをした 春の野山は生命の歓喜で満ち溢れていた

猩々袴や野蒜や芹や蒲公英や 鶯の鳴き声にうっとりとしていた

櫻守の故笹部新太郎翁が 手当てをしていた小さな苗場も見れた

旅館で朝準備してくれた塩お結びが どんなに美味しかったことだろう

あなたの櫻への夢が どうやら私の人生を

大きく左右するような生き方にしてしまったようだ

有難う 心の底から感謝しています

 

 

 

今日の写真は大垣から出ている樽見鉄道の淡墨櫻の観櫻号である

この電車は実はタイヤの電車で単線だが 谷汲寺の辺りで上下線が交差する

大垣特産の柿畑をぬって 最終目的地の終点樽見駅へ到着し 

駅から淡墨櫻まで徒歩15分くらい 今回はこれを利用しなかったが

 


 インクラインの櫻

2007年04月06日 | 

 

 

 

インクラインの櫻

 

 

今朝も花寒のお花見日和 夕べ少々のお酒が残ったまま

宿から一直線に 蹴上のインクラインに行った

この時季 京都の何処に行っても 人また人で うんざり気味だが

探せば幾らでも静かに櫻を堪能出来る場所がある

インクラインは何時行っても少ない人で ひっそりとしている

櫻の根元で 櫻を見上げながら うっとりとして観られる場所だ

 

琵琶湖疎水事業の一環で 疎水が出来たわけだが

昔は この運河に船の往来も数多くあった

但しこの場所には段差があり 荷積みのまま船を乗せ

長い坂道を昇ったり降りたりしなければならなかった

その牽引する軌道車のレールの跡が今でも残っており

両側に染井吉野がしっかり静かに櫻花を誇っている

 

哲学の道や円山公園は立錐の余地もないくらい大勢の方々

夜ともなれば それはそれは観てられない馬鹿騒ぎ

実は小生はそれを特に否定はしないが

ザマァがないのが嫌いなだけである

 

山肌に密かに咲く山櫻など 実にいいもので

嵐山の中腹に咲いている山櫻も大好きだ

紅い葉と花の色香とのバランスは絶妙であり

今頃本居宣長さんが眠る伊勢・松坂の墓所でも 

淡紅色の山櫻が咲いていることだろう

 

花は静かに 出来れば独りで観たいものです

 

 

 

京都専門の写真を撮る友人Youpvさんの写真ブログをご紹介します

インクラインの美しい写真が 多数掲載されています 素晴らしい感性の方です

(巻頭の写真だったので 幾ら友人でもやっぱりお借りするのに憚られました

http://youpv.exblog.jp/ kyoto Photo (by Youpv)

 

口絵写真はお世話になっている宿の櫻です

 

 


 御衣黄の蕾 仁和寺より

2007年04月05日 | 

 

 

 

御衣黄(ぎょいこう)の蕾

 

仁和寺より

 

 

櫻山チームで 成功祈願として 

改めて何処かでお参りしようと言うことになり

かの君のご先祖代々が眠る仁和寺に出掛け 

金堂内陣に参集し お参りして参りました

 

未だお多福櫻(御室櫻)の開花には早く

と言うことは 常照皇寺の九重櫻も未だでしょう 

それでも境内では 御衣黄の櫻の蕾が漸く膨らんでいました

まるで私達のチームのようなもので 若い芽です

 

その後佐野家に行き 入り口の三代目枝垂れ櫻を鑑賞し 

櫻の一木で出来た観音さまを拝ませて戴きました

奥様自ら販売していた佐野家特有の黄櫻茶を購入し

オフィスに帰り 皆で戴きました

櫻の香りが高く ほっとさせて戴ける一品でした

今宵は簡単に全員参加で飲み会です 

一番若手の幹事がソワソワしています

 

 

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!4922.entry?_c=BlogPart

櫻灯路『櫻守の夢一夜』