能面の裏 こうした漆塗りは珍しく 殆どが直接手彫りのカンナメが見える
釜鳴り
~年末につき、アレコレ言いたい放題
<仮面>
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人それぞれが仮面を掛けて生きている。隣村の西麻布で起きたあの暴力事件は何かね。市川海老蔵は好きな役者の一人だが、何だね、あの夜の行動や、今般の会見は。新婚さんでもある彼が夜中に出歩いて酩酊していたことだけでも可笑しい、酔っ払っていても自分だけは非がないと言ったことも、見っともない。浅はかさには憤怒さえ感じる。いやはや呆れ果てているのだ。現・扇雀や菊之助や、この海老蔵(新之助時代)とだって私は同席して飲んだことがある。恒例の京都・南座での顔見世興行の際が一番多いのだが、先斗町のバー・我留慕の斜め脇をちょいと入った小料理屋兼カラオケ店が歌舞伎役者行きつけの集合場所である。公表はしない。殆どの歌舞伎役者は品のいい飲み方をする。だが海老蔵はそうではない。一匹狼のような存在の飲み方をする。いつも余程のプレッシャーがあるのだろう。そして己の酒の限度を全く知らない。尤も興行中はさほど無茶はしないが、破滅型の飲み方をすることがあり、情けない極みである。ああ見えて繊細な神経を持ち過ぎているからだ。あの夜もよっぽどストレスが蓄積されていたのだろう。翻って成田山は真言密教の御寺である。初代から続く成田山信仰によって、二階桟敷席の大向うから「イヨッ!成田屋ぁ~~」と掛け声が響く。言わば江戸の庶民にとっては神の存在であった。ニラミによって庶民はお祓いを受けた気になっていたのだ。人間修行が足りないと本人は告白する。海老蔵は神になれなかった。だったら一人になって、四国お遍路でもいいし、以前に海老蔵自らやっていた成田山参篭によって、厳しい作務もいいし、山伏修験のための大峯山の山野行もいい、一人で修行出来ることは何でもある。「見渡せば敵も味方もなかりけり おのれおのれが心にぞある」、かの二宮尊徳翁も又ここに参篭したのだったが、自分を厳しく見つめ直す絶好の機会ではないか。好きな役者の一人だけに敢えて言う。無期限出演停止を更に深く重く受け止めて欲しい。十一代目市川海老蔵の前に、仮面の下には人間・堀越 孝俊と言う一人の若者であるからだ。更には伝統芸能の継承者は何も歌舞伎だけではない。能楽者の世界や、浄瑠璃の世界や、囃子方の世界では、収入の面において如何にストイックに生きざるをえないかを。イイ気になっているんじゃない。厳しく猛省を促す!今回の解決は二十年掛かるか、三十年掛かるか、或いはもっとか、それは本人の決死の努力次第である。加害者との示談などもっての他で、明治時代に大活躍した団菊左の一人・九代目団十郎を目指し、ひと回りもふた回りも大きくなって欲しいものである。関西の「和事(わごと)」は坂田藤十郎が踏襲し、関東の「荒事(あらごと)」は市川団十郎が踏襲し、東西相俟って、南座の興行は極めて重要である。喩え相手に非があろうとも、詰まらないところで、お不動さまの「荒事」を発揮して貰っては困るのである。
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困ったことに、第一種住居専用区域にも、隠れ家的な飲食店やレストランがあり、特にこの界隈に多い。無論有名人たちが通うためであるが、西東京エリアには暴走族あがりの愚連隊がいる。彼らは暴力団の下請けをしていて、所謂「特攻」と呼ばれ、金目のある著名人を狙って徘徊しているので一目で分かる。地方では地方に根差した暴力団がおり、建築を始める前に菓子折りの一つでもぶら下げて行かねばならないことがある。問題が大きい地域でも解放運動家に挨拶の一つもするのが通常のメンドイ儀礼であるが、東京のど真ん中でも、未だに同じような問題がある、戦後の闇市文化じゃあるまいし、もういい加減にして欲しいものだが、関東の893はすべて経済893になっていて、直截的な暴力事件が割りと少ないほうだが、ただ安心しては駄目である。そうした団の下請けには暴走族あがりの若い衆がいる。通常16、17、18歳で卒業するはずだが、卒業出来ないモノは相変わらず組織の下請けにて、やりたい放題の始末であり、闇の世界はどうしてもあることを認めざるを得ない。ただ対策だけはキチンとしていたいものである。それらの人が出入りしている場所に近づかないに越したことはない。
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海老蔵にもう一つだけ言いたいことがあるとしたら、玉三郎兄さんの存在を徹底して尊敬することである。元々身体的障害があった今の五代目坂東玉三郎は、兎に角自己管理が徹底しているのである。元々の出自が梨園の出でなかった(料亭の御曹司)ものの、リハビリ兼ねて幼少時から舞踊を習っていたが縁で、彼の踊りの美しさが見込まれ、十四代目守田勘弥の部屋子になり、養子になったのがそもそもの彼の努力の根源であった。そして舞台では背の高さが致命的に欠点となるが、能でも梅若万紀夫師などもご苦労が絶えなかった。身長が170cmを超えれば鬘モノを被ると優に190cmを超えてしまうからであり、日々背の高さとの格闘があるはずで、体調管理が絶対に欠かせないものである。今や世界の玉三郎であり、あらゆるジャンルの方々とコラボまでしている努力家でもある。そうして今回の南座で代役を務めている片岡愛之助も梨園の出でないからこそ、特別な切磋琢磨があって、京都では大評判になっている。嬉しい出来映えであり、六代目片岡愛之助は謙虚な努力家にして松嶋屋、二代目片岡秀太郎の養子に恥じない大活躍のようである。梨園の出でなくとも、血の滲むような努力を重ねている歌舞伎役者がすぐ傍にいると、常に認識すべきである。でなければ一旦海老蔵の名前を返上するぐらいの覚悟が必要であろう。
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我が櫻の仕事はもっと過酷である。海老蔵のようなシクジリは決して赦されない。私は、こうしたブログをなるべく早く閉鎖し、非公開でやっているホムペやブログを除いて、今後更新すべきではないと考える。千年後のことは誰も分からないが、千年後に通じる、今出来ることを確実にしなければならない実務があるからだ。私は決めた。もう、二度と我が公開ブログの更新することがないことを。
寒牡丹の寄せ植え 正月が近い 今日の祇園では「正月のこと始め」の日なり
<泥棒に追い銭>
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近頃は泥棒に追い銭を払う場面が多いから気をつけたいものである。加害者にお土産つきでお帰り戴く愚かしさのことを言うのだが、かの御仁はどの記事にも他人のコメントにもあらゆる詩人や歌人の歌を同時に引用しカキコする。金子みすゞや、こともあろうに坂村眞民先生まで引用する厚かましさである。この人には自分の何をどう引用していいのだろうかと言う、お猿のお智慧もないらしい。実際どのツラ下げて書いて来るのかと思っている方が多いことも、この方の馬鹿さ加減と、楽天主義と、詐欺・ペテン師の範疇に入っていると、全くご本人が知らないようである。これを裸の王様と言わずして何と表現するのだろう。漢字を多用して如何にも品格をあげようとしているのだが、和文における最も美しい漢字の配分は30%前後だと言う。私も偶には反省をしているが、時には川端康成でも読んでみたら如何だろうかと申し上げたい。ご貴殿は私のような素人の物書きではないのだろうて。無論追い銭を払うような私では絶対にないことだけは強く申しおかねばならない。
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文章は書けばいいというものではない。難しい漢字の羅列の真底に果たして書いている本人はどう生きているかが問題だ。「オコナイ」とよく書かれるが、湖北中心にある清新な民俗行事を言う言葉なのだが、これも何一つ理解しようとしない。本人の「オコナイ」は単なる「グータラ」と書き直すべき文言である。彼が気に入らなかったら、メール作戦や、直接逢って私とは付き合うなと言うばかりか、その姑息さが尋常ではなく、好かない。私のブログにおいでになっている女性陣の方々は皆必死に真剣に生きておられるが、この御仁はブログ中心主義で、何とか立派に見えそうなご自身の記事だけを生き甲斐とし、ちっとも中身は生きていないのである。この際エーリッヒ・ケストナーの有名な言葉を贈ろう。「人生を愛せよ!死を想え!そして時が来たら誇りを持って、脇へどけ!」。こんな老害に付き合っているほど、私は暇ではないのである。従って本記事以降、この御仁のことは一切無視するものとする。
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我が亡き主人直伝の四柱推命が異様に働き、時に役にたつことがある。長年その方とのお付き合いの中で、一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星など、九星廻りや干支や納音や生年が分かって来る。相性まで分かる。勘が働くのだ。場合によってはその方の誕生の月日まで読める場合がある。不思議だ。よって人それぞれに特性と言う運気を背負わされていることが理解される。又性格も直しえないもので、短兵急な方は純粋にも見える。強情な性格は信念の強い人となる。欠点は長所であり、長所は欠点ともなりうる。ただ言えることは自分の運気をどう理解し対峙しているかということである。それをスッパリ忘れて、長欠髪一重を忘れてしまうことで、コイツは困ったものだ。ハッタリに上塗りしてしらばっくれているザマァはないのである。人類共通の害悪で、昔から言うことだが、憎まれっ子世に憚ると言う具合になる。自分の立ち居地や、お他人さまから見た己が体たらくぶりを知ろうともしない。娘の学費が心配なら、何故イの一番で晩酌をやめないのか不思議で堪らない。ポケドン作戦などとお茶を濁している、今後生きる時間と余裕があるのだろうか。ご本人には、何故私がかくも分かったのか、心の遠いところで恐れこそあれ、実際は能天気に過ごしているに違いない。幾つになっても大胆に運命を変えてみる挑戦も、格別に面白いことなのであるのをご承知か。今の私は発表することより、激しく勉強することのほうが遥かに好きである。無念かな、ああさらばよ、我が愛する老醜よ!(この方を老獪とは言わない、老獪になれば智慧があることになるからである)
冬の野草 何故か仏の座咲く 皇帝ダリアが満開中 辛夷の蕾が膨らみ、嫌な予感す
<日本人のアイデンティテイとは>
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ここまで民主党が駄目だったかと、我と我が眼を心から疑っている。普天間基地の問題をそのままにして、もう一度社民党と事実上の友党関係を築こうと言う。政権さえ維持出来れば何でもすると言う風である。日教組をバックにした輿石東は何様のつもりだろう。あのツラァを見てみれば一目瞭然であるだろう。年を重ねると、その方の年輪がそのまま顔に滲み出る。アホかいな。日教組は北朝鮮に対して何も言うはずがない。高木文部大臣が北朝鮮系の高校まで授業料無料とする方針であったが、さすがに今回のヨンビョンドへの北朝鮮からの挑発的爆撃で、しばらくひっこめざるをえなくなった。金正日体制を擁護する教育をする学校に、何故我が国の血税を使う理由が全く理解出来ない。最低不幸社会でなくする大方針すら財源問題で怪しいものだ。子供手当ての財源のために細かな部分で実質税負担が目立つ。余りにも無茶苦茶で、幼稚内閣で酷いものがある。雇用雇用と叫んでも雇用出来る体制がなければ実現不可能であろう。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
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つまり日本人のアイデンティテイとは何だろうか。フランスは「自由・平等・博愛」で、アメリカは「フリーダム」である。今の日本では何だろうか。「コスプレ・B級グルメ・ケータイ」なのだろうか。情けない極みである。私の幼少の頃、父から強要された論語の素読が、今は懐かしい。日本には美しい武士道があったし、「やまとごころ」の和歌も営々としてあった。でも今は滅茶苦茶になってしまっている。大切な日本伝統の美さえ、訳が分からぬ腑抜けの文化がごちゃ混ぜになり、日本人共有の精神的基盤はほぼ崩れ去っている現状だ。実は私にも分かっていない分野であるのだが、このまま放置していいものだろうか。
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第一、日米安保条約にも変遷があった。文言は一語たりとも変わっていないが、中身は大きく変わっているのである。日米の「友好」から、鈴木内閣の時に、日米は「同盟関係」になっているのだ。私見ではそれは「由」としたいが、今や安保条約の破棄か、細川内閣時点での見直しか、どっちにしても喫緊に、そこまで今でも責め立てられているのだろう。菅総理は何も決断出来ないし、何一つ動かないことだろう。無念かな、民主党はまだまだ政権を担う能力がなかったのである。もう一度声高に言いたい。政党の党綱領がないのは、あのナチと、この民主党だけである。党すら纏められないのが現実である。
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普天間基地移設問題では、鳩ぽっぽの迷走は酷いものであり、投げ出すように政権の座から転がり落ちた。「ハトる」とは出来っこないことを言い、ひるがえすことだと言う新語らしいが、先日の苫小牧での鳩山の発言は次回の選挙に出ないことを明言していたことをアッサリひるがえしたものであった。ここまえ言葉の重さがなくなったら、何が何でも政治家を辞めてもらいたい。その鳩ぽっぽと、新党を作っては壊し、清算の時は政党助成金の残金が一文もなかったとし、ところが蓋を開けてみたら、何時の間にか小澤の個人資金となり、先の衆議院総選挙で、小澤マネーとして新人候補に配られた。これって国民の税金だぜ。陸山会の資金の究明は絶対に必要なことで、小鳩政権が失敗した本家本元が菅下ろしに躍起なのは笑止!大体あなた方が今日までの迷走の発端だったのだから。特に安全保障の問題では十年掛かっても取り戻せないように思えてならない。唯一清廉で原理主義者の岡田幹事長に筋目を通してもらうことに淡い期待を掛けざるを得ない。
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民主党幹部会で、小澤一郎を政倫審に議決出来なかった。こうした迷走ぶりも現在の民主党の象徴である。小澤よりの若手代議士たちから検察審査会まで違法と言う始末である。私は、訴状に上がっていない部分の摩訶不思議な政党助成金の金の流れの行方に注目しているのである。昨年の衆議院総選挙で、500万円ずつ配ってもまだ本人の個人的政治グループ、胡散臭い「文化フォーラム」にじゃぶじゃぶと資金が残っているはずである。それらの資金は小澤一郎が不動産を取得したり、小澤の恫喝的政治資金に使われるのではなく、残金のすべてを一括して国庫返上すべきものである。それら資金のすべては国民の血税であるのだから。鳩っぽと、あの小ずるそうな輿石東の三者に、どんな正義があるというのか。総理を終えたら代議士を辞すると大見得を切った鳩ぽっぽ、総理からの要請にも応えられない一郎君、相変わらず教師に中立などあり得ないと嘯き、日教組ドップリの輿石ラスプーチンなど、殆ど復権はありえず、とっとと脇にどくべき事である。
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日本人の共通の概念や国家観を求めて、私塾でも大いに勉学に励みたい!
小菊 寒さの中でいとおしき