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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 釜鳴り~年末につき、アレコレ言いたい放題

2010年12月08日 | 季節の移ろいの中で

能面の裏 こうした漆塗りは珍しく 殆どが直接手彫りのカンナメが見える

 

 

 

釜鳴り

 

~年末につき、アレコレ言いたい放題

 

 

 <仮面>

  •  人それぞれが仮面を掛けて生きている。隣村の西麻布で起きたあの暴力事件は何かね。市川海老蔵は好きな役者の一人だが、何だね、あの夜の行動や、今般の会見は。新婚さんでもある彼が夜中に出歩いて酩酊していたことだけでも可笑しい、酔っ払っていても自分だけは非がないと言ったことも、見っともない。浅はかさには憤怒さえ感じる。いやはや呆れ果てているのだ。現・扇雀や菊之助や、この海老蔵(新之助時代)とだって私は同席して飲んだことがある。恒例の京都・南座での顔見世興行の際が一番多いのだが、先斗町のバー・我留慕の斜め脇をちょいと入った小料理屋兼カラオケ店が歌舞伎役者行きつけの集合場所である。公表はしない。殆どの歌舞伎役者は品のいい飲み方をする。だが海老蔵はそうではない。一匹狼のような存在の飲み方をする。いつも余程のプレッシャーがあるのだろう。そして己の酒の限度を全く知らない。尤も興行中はさほど無茶はしないが、破滅型の飲み方をすることがあり、情けない極みである。ああ見えて繊細な神経を持ち過ぎているからだ。あの夜もよっぽどストレスが蓄積されていたのだろう。翻って成田山は真言密教の御寺である。初代から続く成田山信仰によって、二階桟敷席の大向うから「イヨッ!成田屋ぁ~~」と掛け声が響く。言わば江戸の庶民にとっては神の存在であった。ニラミによって庶民はお祓いを受けた気になっていたのだ。人間修行が足りないと本人は告白する。海老蔵は神になれなかった。だったら一人になって、四国お遍路でもいいし、以前に海老蔵自らやっていた成田山参篭によって、厳しい作務もいいし、山伏修験のための大峯山の山野行もいい、一人で修行出来ることは何でもある。「見渡せば敵も味方もなかりけり おのれおのれが心にぞある」、かの二宮尊徳翁も又ここに参篭したのだったが、自分を厳しく見つめ直す絶好の機会ではないか。好きな役者の一人だけに敢えて言う。無期限出演停止を更に深く重く受け止めて欲しい。十一代目市川海老蔵の前に、仮面の下には人間・堀越 孝俊と言う一人の若者であるからだ。更には伝統芸能の継承者は何も歌舞伎だけではない。能楽者の世界や、浄瑠璃の世界や、囃子方の世界では、収入の面において如何にストイックに生きざるをえないかを。イイ気になっているんじゃない。厳しく猛省を促す!今回の解決は二十年掛かるか、三十年掛かるか、或いはもっとか、それは本人の決死の努力次第である。加害者との示談などもっての他で、明治時代に大活躍した団菊左の一人・九代目団十郎を目指し、ひと回りもふた回りも大きくなって欲しいものである。関西の「和事(わごと)」は坂田藤十郎が踏襲し、関東の「荒事(あらごと)」は市川団十郎が踏襲し、東西相俟って、南座の興行は極めて重要である。喩え相手に非があろうとも、詰まらないところで、お不動さまの「荒事」を発揮して貰っては困るのである。
  •  困ったことに、第一種住居専用区域にも、隠れ家的な飲食店やレストランがあり、特にこの界隈に多い。無論有名人たちが通うためであるが、西東京エリアには暴走族あがりの愚連隊がいる。彼らは暴力団の下請けをしていて、所謂「特攻」と呼ばれ、金目のある著名人を狙って徘徊しているので一目で分かる。地方では地方に根差した暴力団がおり、建築を始める前に菓子折りの一つでもぶら下げて行かねばならないことがある。問題が大きい地域でも解放運動家に挨拶の一つもするのが通常のメンドイ儀礼であるが、東京のど真ん中でも、未だに同じような問題がある、戦後の闇市文化じゃあるまいし、もういい加減にして欲しいものだが、関東の893はすべて経済893になっていて、直截的な暴力事件が割りと少ないほうだが、ただ安心しては駄目である。そうした団の下請けには暴走族あがりの若い衆がいる。通常16、17、18歳で卒業するはずだが、卒業出来ないモノは相変わらず組織の下請けにて、やりたい放題の始末であり、闇の世界はどうしてもあることを認めざるを得ない。ただ対策だけはキチンとしていたいものである。それらの人が出入りしている場所に近づかないに越したことはない。
  •  海老蔵にもう一つだけ言いたいことがあるとしたら、玉三郎兄さんの存在を徹底して尊敬することである。元々身体的障害があった今の五代目坂東玉三郎は、兎に角自己管理が徹底しているのである。元々の出自が梨園の出でなかった(料亭の御曹司)ものの、リハビリ兼ねて幼少時から舞踊を習っていたが縁で、彼の踊りの美しさが見込まれ、十四代目守田勘弥の部屋子になり、養子になったのがそもそもの彼の努力の根源であった。そして舞台では背の高さが致命的に欠点となるが、能でも梅若万紀夫師などもご苦労が絶えなかった。身長が170cmを超えれば鬘モノを被ると優に190cmを超えてしまうからであり、日々背の高さとの格闘があるはずで、体調管理が絶対に欠かせないものである。今や世界の玉三郎であり、あらゆるジャンルの方々とコラボまでしている努力家でもある。そうして今回の南座で代役を務めている片岡愛之助も梨園の出でないからこそ、特別な切磋琢磨があって、京都では大評判になっている。嬉しい出来映えであり、六代目片岡愛之助は謙虚な努力家にして松嶋屋、二代目片岡秀太郎の養子に恥じない大活躍のようである。梨園の出でなくとも、血の滲むような努力を重ねている歌舞伎役者がすぐ傍にいると、常に認識すべきである。でなければ一旦海老蔵の名前を返上するぐらいの覚悟が必要であろう。
  •  我が櫻の仕事はもっと過酷である。海老蔵のようなシクジリは決して赦されない。私は、こうしたブログをなるべく早く閉鎖し、非公開でやっているホムペやブログを除いて、今後更新すべきではないと考える。千年後のことは誰も分からないが、千年後に通じる、今出来ることを確実にしなければならない実務があるからだ。私は決めた。もう、二度と我が公開ブログの更新することがないことを。

 

 寒牡丹の寄せ植え 正月が近い 今日の祇園では「正月のこと始め」の日なり

 

  <泥棒に追い銭>

  •  近頃は泥棒に追い銭を払う場面が多いから気をつけたいものである。加害者にお土産つきでお帰り戴く愚かしさのことを言うのだが、かの御仁はどの記事にも他人のコメントにもあらゆる詩人や歌人の歌を同時に引用しカキコする。金子みすゞや、こともあろうに坂村眞民先生まで引用する厚かましさである。この人には自分の何をどう引用していいのだろうかと言う、お猿のお智慧もないらしい。実際どのツラ下げて書いて来るのかと思っている方が多いことも、この方の馬鹿さ加減と、楽天主義と、詐欺・ペテン師の範疇に入っていると、全くご本人が知らないようである。これを裸の王様と言わずして何と表現するのだろう。漢字を多用して如何にも品格をあげようとしているのだが、和文における最も美しい漢字の配分は30%前後だと言う。私も偶には反省をしているが、時には川端康成でも読んでみたら如何だろうかと申し上げたい。ご貴殿は私のような素人の物書きではないのだろうて。無論追い銭を払うような私では絶対にないことだけは強く申しおかねばならない。
  •  文章は書けばいいというものではない。難しい漢字の羅列の真底に果たして書いている本人はどう生きているかが問題だ。「オコナイ」とよく書かれるが、湖北中心にある清新な民俗行事を言う言葉なのだが、これも何一つ理解しようとしない。本人の「オコナイ」は単なる「グータラ」と書き直すべき文言である。彼が気に入らなかったら、メール作戦や、直接逢って私とは付き合うなと言うばかりか、その姑息さが尋常ではなく、好かない。私のブログにおいでになっている女性陣の方々は皆必死に真剣に生きておられるが、この御仁はブログ中心主義で、何とか立派に見えそうなご自身の記事だけを生き甲斐とし、ちっとも中身は生きていないのである。この際エーリッヒ・ケストナーの有名な言葉を贈ろう。「人生を愛せよ!死を想え!そして時が来たら誇りを持って、脇へどけ!」。こんな老害に付き合っているほど、私は暇ではないのである。従って本記事以降、この御仁のことは一切無視するものとする。
  •  我が亡き主人直伝の四柱推命が異様に働き、時に役にたつことがある。長年その方とのお付き合いの中で、一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星など、九星廻りや干支や納音や生年が分かって来る。相性まで分かる。勘が働くのだ。場合によってはその方の誕生の月日まで読める場合がある。不思議だ。よって人それぞれに特性と言う運気を背負わされていることが理解される。又性格も直しえないもので、短兵急な方は純粋にも見える。強情な性格は信念の強い人となる。欠点は長所であり、長所は欠点ともなりうる。ただ言えることは自分の運気をどう理解し対峙しているかということである。それをスッパリ忘れて、長欠髪一重を忘れてしまうことで、コイツは困ったものだ。ハッタリに上塗りしてしらばっくれているザマァはないのである。人類共通の害悪で、昔から言うことだが、憎まれっ子世に憚ると言う具合になる。自分の立ち居地や、お他人さまから見た己が体たらくぶりを知ろうともしない。娘の学費が心配なら、何故イの一番で晩酌をやめないのか不思議で堪らない。ポケドン作戦などとお茶を濁している、今後生きる時間と余裕があるのだろうか。ご本人には、何故私がかくも分かったのか、心の遠いところで恐れこそあれ、実際は能天気に過ごしているに違いない。幾つになっても大胆に運命を変えてみる挑戦も、格別に面白いことなのであるのをご承知か。今の私は発表することより、激しく勉強することのほうが遥かに好きである。無念かな、ああさらばよ、我が愛する老醜よ!(この方を老獪とは言わない、老獪になれば智慧があることになるからである)

 

 冬の野草 何故か仏の座咲く 皇帝ダリアが満開中 辛夷の蕾が膨らみ、嫌な予感す

 

 <日本人のアイデンティテイとは>

  •  ここまで民主党が駄目だったかと、我と我が眼を心から疑っている。普天間基地の問題をそのままにして、もう一度社民党と事実上の友党関係を築こうと言う。政権さえ維持出来れば何でもすると言う風である日教組をバックにした輿石東は何様のつもりだろう。あのツラァを見てみれば一目瞭然であるだろう。年を重ねると、その方の年輪がそのまま顔に滲み出る。アホかいな。日教組は北朝鮮に対して何も言うはずがない。高木文部大臣が北朝鮮系の高校まで授業料無料とする方針であったが、さすがに今回のヨンビョンドへの北朝鮮からの挑発的爆撃で、しばらくひっこめざるをえなくなった。金正日体制を擁護する教育をする学校に、何故我が国の血税を使う理由が全く理解出来ない。最低不幸社会でなくする大方針すら財源問題で怪しいものだ。子供手当ての財源のために細かな部分で実質税負担が目立つ。余りにも無茶苦茶で、幼稚内閣で酷いものがある。雇用雇用と叫んでも雇用出来る体制がなければ実現不可能であろう。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
  •  つまり日本人のアイデンティテイとは何だろうか。フランスは「自由・平等・博愛」で、アメリカは「フリーダム」である。今の日本では何だろうか。「コスプレ・B級グルメ・ケータイ」なのだろうか。情けない極みである。私の幼少の頃、父から強要された論語の素読が、今は懐かしい。日本には美しい武士道があったし、「やまとごころ」の和歌も営々としてあった。でも今は滅茶苦茶になってしまっている。大切な日本伝統の美さえ、訳が分からぬ腑抜けの文化がごちゃ混ぜになり、日本人共有の精神的基盤はほぼ崩れ去っている現状だ。実は私にも分かっていない分野であるのだが、このまま放置していいものだろうか。
  •  第一、日米安保条約にも変遷があった。文言は一語たりとも変わっていないが、中身は大きく変わっているのである。日米の「友好」から、鈴木内閣の時に、日米は「同盟関係」になっているのだ。私見ではそれは「由」としたいが、今や安保条約の破棄か、細川内閣時点での見直しか、どっちにしても喫緊に、そこまで今でも責め立てられているのだろう。菅総理は何も決断出来ないし、何一つ動かないことだろう。無念かな、民主党はまだまだ政権を担う能力がなかったのである。もう一度声高に言いたい。政党の党綱領がないのは、あのナチと、この民主党だけである。党すら纏められないのが現実である。
  •  普天間基地移設問題では、鳩ぽっぽの迷走は酷いものであり、投げ出すように政権の座から転がり落ちた。「ハトる」とは出来っこないことを言い、ひるがえすことだと言う新語らしいが、先日の苫小牧での鳩山の発言は次回の選挙に出ないことを明言していたことをアッサリひるがえしたものであった。ここまえ言葉の重さがなくなったら、何が何でも政治家を辞めてもらいたい。その鳩ぽっぽと、新党を作っては壊し、清算の時は政党助成金の残金が一文もなかったとし、ところが蓋を開けてみたら、何時の間にか小澤の個人資金となり、先の衆議院総選挙で、小澤マネーとして新人候補に配られた。これって国民の税金だぜ。陸山会の資金の究明は絶対に必要なことで、小鳩政権が失敗した本家本元が菅下ろしに躍起なのは笑止!大体あなた方が今日までの迷走の発端だったのだから。特に安全保障の問題では十年掛かっても取り戻せないように思えてならない。唯一清廉で原理主義者の岡田幹事長に筋目を通してもらうことに淡い期待を掛けざるを得ない。
  •  民主党幹部会で、小澤一郎を政倫審に議決出来なかった。こうした迷走ぶりも現在の民主党の象徴である。小澤よりの若手代議士たちから検察審査会まで違法と言う始末である。私は、訴状に上がっていない部分の摩訶不思議な政党助成金の金の流れの行方に注目しているのである。昨年の衆議院総選挙で、500万円ずつ配ってもまだ本人の個人的政治グループ、胡散臭い「文化フォーラム」にじゃぶじゃぶと資金が残っているはずである。それらの資金は小澤一郎が不動産を取得したり、小澤の恫喝的政治資金に使われるのではなく、残金のすべてを一括して国庫返上すべきものである。それら資金のすべては国民の血税であるのだから。鳩っぽと、あの小ずるそうな輿石東の三者に、どんな正義があるというのか。総理を終えたら代議士を辞すると大見得を切った鳩ぽっぽ、総理からの要請にも応えられない一郎君、相変わらず教師に中立などあり得ないと嘯き、日教組ドップリの輿石ラスプーチンなど、殆ど復権はありえず、とっとと脇にどくべき事である。
  •  日本人の共通の概念や国家観を求めて、私塾でも大いに勉学に励みたい!

 

小菊 寒さの中でいとおしき

 


我が家の七五三

2010年11月15日 | 季節の移ろいの中で

 

我が家の庭にて もはや錦秋の候か

 

 

 

我が家の七五三

 

 

我が家の長女が数えで三歳になりましたから、当家流の七五三を昨日致しました。

母が昔着ていた加賀友禅の振袖を再利用し、叔母が杏用に丁寧に仕立て直してくれました。

杏もいたく気に入り、神妙なお姉ちゃんぶりです。和服のパワーって凄いものですネ。

杏が七歳になった時のために、その和服も同時に、違う絵柄を変えて創って戴きました

当家の七五三は伝統的に当家の菩提寺で行われます。

更に青山墓所にある私たちのご先祖の御霊にも参拝致します。

夜は集まってくれた親戚一同と賑やかな宴会をし、長女のお祝いを致しました。

本来なら産土神に、お参りするのが当然ですが、

実は当家の菩提寺に氏神が祀ってあるためでもあります。

従って五歳の時の長男と、七歳の際には男女とも菩提寺にある産土神にお祈り致します。

七歳を「氏子入り」するとでも申しましょうか、我が家では七歳のお祝いを最も盛大にします。

 

妻の実家・京都から誘われ、京都の寺社仏閣で七五三をやってはと言われましたが、

妻は当家の伝統に従うときっぱり伝えた模様で、祝賀の際にはじぃじとばぁばが、

我が家にやって来て滞在しております。暑い京都を過ごし、秋になったかならないうちに、

冬の香りが漂っていると言っておられました。だからもう直ぐ錦秋の京都になることでしょう。

東福寺は櫻が修行の邪魔になるからと植樹を拒否、唐楓を植えたのが始まりです。

通天橋の直ぐ傍に三枚仕立ての、最も早く紅色に染まる唐楓がありますが、頷けます。

神護寺などの三尾・嵯峨野・黒谷・東山・北山・鞍馬など多分25日以降が盛んでしょうか。

 

関東も随分と紅く染まって参りました。神宮の公孫樹並木も見事な黄葉で散り始めています。

我が家の盆栽たちも紅葉が真っ盛りです。つい最近小さな我が池に水鳥が飛来しました。

七五三という通過儀礼も、季節の移ろいの中に鮮明な足跡を刻んでいるのでしょう。

 

近頃の江戸っ子は新しくなるスピードが早いがために、新規のものにそれ程興味がなく、

べったら市とか、羽子板市だとか、古いものだけに拘っています。東京スカイツリーには、

見に行くことすら殆どありません。オフィスのある東京駅の丸の内側では、赤煉瓦の、

本来あった当初の三階建ての駅舎にするらしく、深々とネットが掛かっています。

一ヶ月東京を留守にすると周辺が驚異的な変化をするのがザラですから、

まじに興味がないのです。中延や北品川や谷中の夕焼けダンダンなどの、

昔からさして変わらない風情を求めて彷徨する習性が根っからついているからです。

秋の小石川植物園や、当家の近所・有栖川宮公園や、変化がない処が大好きで、

大体我が旧友たちは皆勝手で、それぞれの実家を継いでいるか、ジャーナリストか、

そもそも出世する意欲は皆無の連中ばかり、それぞれが楽しんでいるようです。

但しウチ向きで、海外に行くことがない奴って一人もいないことだけは自慢です。

そう言えば先日7日の立冬の日に、「一の酉」がありましたが、高村光太郎の父親(光雲)は、

お酉さま造りの職人からスタートした人で、幼い光太郎は父のリヤカーを引いた記憶があると。

光太郎の自宅があった千駄木の駒込林町周辺には様々な人が住んでいました。

森鴎外・サトウハチロー・青踏社、数えあげたらキリがないくらいです。

それと新宿・中村屋の創業者であった相馬夫妻も住んでいました。

あの美しい安曇野の碌山美術館主人、荻原守衛(碌山)との関係も深く感慨深いです。

 

千駄木周辺は広大な敷地を所有していた東叡山・寛永寺の寺領で薪取り場だったんです。

徳川天下が終了した明治のご維新にて、一般に開放された所ですから、

様々な職種の方々が住みつくようになり、特に高級官僚の御妾さんが多かったのです。

樋口一葉の素敵な小説や、森鴎外の小説でも明らかでありましょう。

東京は新しい町です。京都の比ではありませぬ。

でもここにいると世界に通じる何かがあります。集まってくる資料も半端ではありませぬ。

東京のパワーは凄いものです。憎い相手を、Tファンのように他を蔑むことがありません。

Gファンは最もGに対して厳しいことです。ブルーカラー・ライン上のTファンは、

私たち関東人にとって、モノの数に入っていないのです。お分かりですか、ご老醜!

でも愛らしいものですネ。生え抜きの選手が殆どいないのに熱烈な応援なのですから。

要するにお互いをリスペクト出来ない関係は全く無意味です。

 

関西にも大変な品性があることが、田辺聖子さんによって縷々教えて戴き勉強しております。

 

 

父の愛する盆栽 小さな紅葉の葉っぱと緑の苔

 


杏(アン)の独り遊び

2010年10月24日 | 季節の移ろいの中で




                  ハイビスカスの実と高柳佐知子先生の本と






     杏の独り遊び



 
 

 我が家の長女・杏は独り遊びの名人で、長男の大風はまだヨチヨチ歩き。どうも長女と長男の仲がよろしくない。それは長男のせいだろうか。弟は頭の回転が速く、次々に無理強いするせいでしょうか。或いは弟が自分の犬を可愛がらないせいだろうか。姉の杏は自分のトイプードルを手下のように従え、毎日庭で元気にお散歩をし、愛犬をいたく可愛がっています。そして日々目新しい秋の野の草や紅葉した葉っぱや木の実などを取ってきては得意顔になってテーブルの上に飾り楽しんでいます。そこへ行くと長男は何かと、父の妹である叔母やお手伝いさんを日々煩わせている状態です。長女は妻似で、背が高くなりそうで、まだ満二歳を過ぎたばかりなのに、身長は既に三歳児を大きく上回っています。無論どちらとも好きですが、杏の独り遊びには時折感心させられることが多いんです。

 従兄妹からヴァイオリンの手解きを受けてから、あっと言う間にシューベルトの「鱒」の、主旋律をほぼ弾けるようになりました。これには家族中でも従兄妹もびっくりで、来年から家庭教師をつけ、本格的にヴァイオリンを教えようかとも考えています(←親馬鹿チャンリン)。オモチャのピアノや、私がやっている能管や小鼓などにはそれほど興味がなく、買い与えてみようと漫然と、小さなヴァイオリンを購入し、杏に手渡したのが切っ掛けでした。最初ギコギコやっていましたが、それも毎日触っているし、ハイビジョンでヴァイオリン演奏の放送などを観るときは眼を皿のようにして観ています。無論才能があるのかどうかは全く分からないのですが、でもプロのヴァイオリン奏者である従兄妹に来て貰って、一度正式な弾き方を見せてから、忽ち上手に首の根元に掲げ、何となくそれらしくなっているから可笑しいものです。無論音符が読めるわけがありませんが、どうも音感は良さそうで何とも頼もしいとまたまた親馬鹿チャンリンぶりであります。別に自慢するわけでは決してありませぬ。

 








  このブログは雪◎花の久美子さんという方から僕たち夫婦のことで、盲目的だの何やかやと色々言われたのを切っ掛けに永らく中断しておりました。彼女は結婚離婚を繰り返している方でしたから、尚更腹がたったのです。僕たちはピカピカの初婚です。でもこうして三年の月日が経ち、僕たちは当初の通りその直後結婚し、間もなく二人の子供に恵まれ、予想以上に、僕たち自身の幸福を勝ち得てから、腹を立てるのもいい加減にしたらいいと自ら言い聞かせるようになりました。そうしてこのブログが再開されたのです。父親として、僕は割りと厳しいほうのようです。昔、我が厳父からされた論語の音読の強要はどんなに嫌だったことでしょう。でも気付いてみると、何とまぁ、僕の身体中にそれが充満し体得していたので、自らが驚きました。父の時代には「修身」というのがあったらしいのですが、僕たちには一切ありませぬ。徴兵制もなければ、日本が持つべき国境意識にも酷く乏しく、何時の間にか際限なく日本人は彷徨って落ち込んでいます。僕は、そんな日本を心底から愁いています。ただ単位は一家族から、私塾や財団に広がり、そして少なくとも将来のことまで考えるようになりました。僕たち夫婦は、僕が櫻で、妻は書誌学で、しかと足元をみつめて生きて行く決意です。どうか今後ともよろしくご指導を御願い申し上げます。同時に皆さまのご健勝を、心からお祈り申し上げます。






杏の独り遊びで蒐集した我が家の、小さな秋


皇后と栗名月と

2010年10月20日 | 季節の移ろいの中で




 美智子皇后陛下 76歳のお誕生日に (宮内庁提供)





 皇后と栗名月と



  今日20日は美智子皇后陛下のお誕生日で、満76歳におなりになられる。天皇陛下とともに日々お忙しいのに、咳喘息の可能性や結膜下出血などがあられ、ご公務のご多忙にして、一国民として心底からご心配せざるを得ない。

 ご加齢による現象があられるようで、率直に近況を宮内庁のご文書で綴られていたが、宮内庁の公式行事などを見るにつけ、二年先までご公務がびっしりで、観るだけで涙があふれてくる。本来ならご隠居される御時なのに、どうしてこうもご公務が激しいのだろうと胸が酷く痛くて堪らない。


  今夜は十三夜、栗名月の宵である。静かに天皇陛下とお過ごしになられてはと思う。だが今日一日のご予定に、祝賀行事がびっしりと並んでおいでで、多分十三夜をお静かに眺められるのは深夜になってからではなかろうか。未だに愛子内親王さまは雅子皇太子妃殿下のお付き添いで通学されていらっしゃるようで、美智子皇后におかれましても、片時もお心休まるお時間がないのではなかろうか。

 どうかお健やかにお過ごしになられ、当家の五葉松のように幾久しくお元気で、いらっしゃられることを心から望んでおります。




硯水亭歳時記







 主人の一周忌

2007年07月28日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

 

主人の一周忌

 

 

 

去年のこの日は 全く同じこんな暑さの午後のことで御座いました

 リハビリ中に 突然心不全によって 直後亡くなられた主人

茫然自失の日々が続き 目の前は目まぐるしく変化し 

私達には 酷く辛く永かった一年で御座いました

 

でも御蔭様で 今朝大勢の方々様のご参集により 

無事に 主人の一周忌追善法要を終えることが出来ました

文面で失礼ではありますが 取り合えずご報告とさせて戴きます

 

この写真 京都・インクラインの櫻とレールのように

遺された我々は 櫻山計画に 一意専心を志せと言う意味でしょう

頑張りますので 櫻の山できっとお逢い致しましょう!

 

 

 

硯水亭主人

 

 


 午後のひと時

2007年07月12日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

午後のひと時

 

 

ブログをやめるとなったら ことの他淋しさがつのりますが

私には人様に 何かを披瀝する『徳』と言うものがないのです 

私の立場上ではやってはならなかったかもと 深く反省を致しております

長く会社勤めを致しますと その道にはプロですが 改めて考えてみますと

殆ど世間には疎いことばかりで 私にはやることが山のようにあるようです

 

そろそろ後二年後の退職を見据え 真剣味を増して参りました

本格的に稼動しなければならない生涯を賭けた仕事が待っています

知ったかぶりで BLOGで発表などをしている場合ではないのでしょう

更に主人から宿題にされている多くのことも御座います

今はひたすら勉強する時期なのですから

 

櫻山建設計画を筆頭に 多くのことが重く圧し掛かっています

主人が遣り残した『山伏神楽・番楽』の研究や本居宣長の読破や

他にも数々のことも考えたいし 実行したいことが山ほどあります

門前の小僧方式で始めた油彩もあり 余りにも多いのです

きちんと整理をすべきでしょう

 

素人で 雰囲気だけで 発表出来るような余力と自慢は何もありませぬ

完璧なプロの仕事が やはりこの職場を去ってからも 結果が求められるのです

久し振りにこの絵を観ながら 大好きなアールグレイのお茶を飲み

少しずつ やる気が満ちて来るのをじっと待っています

 

『櫻灯路』で286200人 『あづさ弓』で53600人 『硯水亭歳時記』で28300人

この三年間余に 数多くの皆様に読んで戴いて 本当に有難う御座いました

多くの恥もかきましたが 多くの勉強もさせて戴きました

心から 深く深く御礼を申し上げます 

有難う御座いました 

 

 

硯水亭主人

 

 


 夢殿

2007年07月11日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

夢殿

 

  

 法隆寺・夢殿は、私の憧れの御寺です。

春秋一般公開があるのですが、春の一般公開は格別の歓びです。

型の櫻の花びらで、枝垂れ櫻が、夢殿の直ぐ脇で咲いてくれるからです。

最も大型の櫻は太白と言う品種の櫻があるのですが 

その大きさと殆ど変わりませぬ。白に近い淡いピンクの花で、

その美しい御姿はとても印象が強いです。

美しい八角円堂の御堂とうまくマッチして、

何とも妙なる美となっているのです。

 

 聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、

聖徳太子の御遺徳を偲んで、天平11年(739)に建てた

伽藍を上宮王院(東院伽藍)と言います。

その中心となる建物がこの夢殿です。

八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身大と伝えられる

秘仏救世観音像(飛鳥時代)が安置され、

その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、

乾漆の行信僧都像(奈良時代)、

平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の

塑像(平安時代)なども安置されております。

この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、

まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、

神秘的な雰囲気を漂わせて立っています。

 

 救世観音(くぜかんのん)は、明治17年(1884年)

古都の美術調査をしていたアメリカ人学者フェノロサと

東洋美術の先駆者である岡倉天心が、

法隆寺に来て厨子をあけるまで、

何百年も間日の目を見ることがありませんでした。

寺僧が、厨子をあければ仏罰によって寺塔が倒れると言って

夢殿の扉を開けることを許さなかったのですが、

再三の説得によって、開扉すると、

幾重にも巻かれて白布にくるまった一体の像があり、

グルグル巻きの白布を取り除くと、

像高178.8センチの聖徳太子の等身大の身長に、

宝珠形の頭光と山形の宝冠をいただく救世観音が現れました。

仏像は、本来礼拝するものであるのに、何故白布でぐるぐる巻きにし、

人目に触れないようにされていたのか。

ここにも聖徳太子と悲惨な死を遂げた一族と、

法隆寺に関わる謎が隠されているのではないでしょうか。

 

 白布にくるまれた救世観音は、何百年もの間、

何を思っておられたのだろうか。争いのなかった時代はなく、

世界のどこかで、今も、誰かが殺されている。

憎しみや悲しみ、苦しみ、人間の心は、

聖徳太子が生きておられた時代も、今も変わらない。

白布にくるまれていた時も、白布を取り除かれてからも、

救世観音はすべての人間から苦悩を取り除き、

救いたいという願いは変わっていないのでしょう。

救世観音が造られたのも、法隆寺が再建されたのも、

当時の権力者が聖徳太子と太子一族の怨霊を

鎮めるためだったのかも知れません。

時の権力者にとっては、法隆寺は祟り(怨霊)の寺であったのでしょうが、

権力者の思いとは別に、聖徳太子を本当に慕う民衆の心が、

法隆寺を祈りのお寺に変え、世界に誇る法隆寺として、

今日まで、守り伝えてくれたのでしょう。

 

 ところがところが不可思議なことがあるもので、

新しい解釈を正確に試みられておられるます。

梅原猛氏は『隠された十字架』の中でこう述べています。

法隆寺再建の年次はわからないが、

夢殿が建立された年次は明確であり、これが重要なヒントになると。

更に梅原猛氏は言います。

“西暦724年。藤原不比等の娘・宮子が文武天皇との間で

産んだ首(おびと)皇子が聖武天皇となり、

不比等の四人の息子も重要な官職につき藤原全盛の世でしたが、

737年にこの四人の息子が当時大流行した天然痘のため

全員がほぼ同時に死んでしまいました。

これは聖徳太子の祟り以外にないということで、

翌々年739年に夢殿を建立し、

太子の祟りを鎮めるべく救世観音を作ったのだ”と。

 

 救世観音の頭と胸に釘が打ち込まれているのがその何よりの証であり、

頭の後ろの光背は、通常は背中で支えるのが普通だが、

救世観音はなんと頭に直接釘で打ち込まれているのです。

頭に釘が打ち込まれている仏像など聞いたことがありません。

更に、胸の部分の十字の木組みの真ん中にも釘が打ち付けられている。

救世観音(聖徳太子)の祟りとは一体何なのでしょうか。

何故そこまで恐れられたのでしょうか。

 

 あくまでもふくよかで、笑みをたたえたこの面持ちに、

フェノロサは東洋の神秘アーカイックスマイルの真髄と褒め称え、

モナリザに並ぶ 逸品と称されました。

憎悪の塊の対象が果たしてここまでの傑作を創るのでしょうか。

 様々な謎を秘め、救世観音は今日も静かに人々の

安穏と国家鎮護をされていらっしゃいます。

又高村光太郎は、この像の彫り方、そのすさまじさに感嘆しています。

「負」に向かう力であっても、やはり、人の作った物には違いはない。

「負」の心であっても、人の心のかよった物であるならば、訴えかける力

があるのでしょう。いろいろな意味で、これだけの怖さを、人々に与えた

この像は、やはり「逸品」の中の一つという事なのでしょう。

そして 祈りは美しさの中に…と。

 

 やはりここで思い起こされるのは、歌人として書家として、

私が大好きな会津八一の歌詠みに御任せ致しましょう。

会津の『鹿鳴集』の「夢殿の救世観音に」と題された歌、

 

    あめつちにわれひとりゐてたつことき

            このさひしさをきみはほほゑむ

    阿目津知耳我一人居天立如紀此寂尾君葉保々恵武

 

【大意】天地の間に、私がたった独り立っているかのようなこの寂しさを、

貴殿は超然として微笑んで見ておられる。

 

 何と言う歌でしょう。孤高の歌人と言われ、生涯を独身で過ごし、

古都奈良をこよなく愛した詩人の魂が爆裂しているかのような歌で、

この御尊像に最も相応しいような気がしています。

政治的に謀略を受けても尚、超然として時代を超え、

我々に勇気を与え続けておられる聖徳太子の

魂そのものの歌ではないでしょうか。

歴史とは隠された真実で本当の歴史が 成り立っているようですが、

そこから遥かに食み出た部分もきっと多いのだろうと思われてなりませぬ。

そろそろ後数編で、このブログを終了するに当たり、

どうしてもこれだけは書いておきたかったことでした。
 


 予告

2007年07月10日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

予告

 

 

近々 大変残念ながら このブログを閉めることに致しました

私忙しい身の上 ギリギリのせめぎあいの中で 必死に書いて参りました

情けない話ですが こんなところが私の限界なのでしょう

本日は好きな酒を断ち 薄茶にて 御点前を致しました

夏用の『洗い茶巾』です 独り静かなひと時でした

 

本日10日 浅草寺では 酸漿市と同時に四万六千日の日です

様々な根拠はあるものの 四万六千日とは大きく出たものですが

これからの皆様のご多幸を 併せて心からお祈り申し上げます

本当に有難う御座いました

 

 

硯水亭主人

 

 

中には心からご尊敬申し上げたり 大いに親しみを感じている方々がおいでです 

今後とも 相変わりませずブログ散歩をさせて戴きとう存じます

 


 倭文織(しづおり)と倭文布(しずり)

2007年07月08日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

倭文織と倭文布

 

 七夕の今宵 大切な貴女へ

 

 

 

『倭文(しづ)』と言う古称は 

『倭文織(しづおり)』と『倭文布(しづり)』から来ている

 楮(こうぞ) 麻 苧(からむし)などの繊維で出来ており

赤青の原色で染め 乱れ模様に織ったものの布である

「倭」は 古代日本と言う意味

「文」は文布(あやぬの)の略語 アヤのある布の意味

(アヤとは光彩、色彩、模様)

『倭文』は 『文布』とも書かれていた

天孫降臨以前の日本原住民達 

即ち九州に住んでいた海人族は 中国に「倭族」と呼ばれ

彼等海人族が織った布は 『倭文』と言われ

その布を織る専門の織工集団は 『倭文部』で

彼等の住んでいた地方を 『倭文郷』と称えられていた

その首長は宿弥(すくね)で 

大和朝廷の重臣要職である八色姓の一つである

 その氏族を祭る神社があり 『倭文神社』と言い

伯者国一ノ宮(鳥取県)に存在する


 
 
古くから神様の服(神御衣)として 

『延喜式祝詞』に記載された祭りの中で登場している『倭文』の一種は

『荒妙(あらたえ)』と『和妙(にぎたえ)』であり

『荒妙』すなわち麻で 筋目が荒っぽく 原始日本民族の織技術のまま伝えられ 

松阪市内の神麻続機殿(かんおみはたどの)神社で織られている

 

『和妙』すなわち絹で 肌理細やかに織られた布で 

同じ松阪市内の神服織機殿(かんはとりはたどの)神社で織られている

 

両方とも伊勢の神宮125社に属し この二社で毎年春秋二回『神御衣祭』が行われ

神職が半月間お籠りし 伊勢の大御神への御衣を 織機で織って献上する

その他 神宮の大きな祭り 例えば月次祭や神嘗祭 式年遷宮に至るまで 

神様への捧げ物の中で 『荒妙』や『和妙』の布は決して欠かせない存在である 


 
 
『延喜式祝詞』で記載された『倭文』に関する文は

①[出雲国造神賀詞]

倭文の大御心も多親に明御神の大八嶋国を 

天地日月と共に 安けく平けく知行さむ事

②また「斎院式」 斎王群行の時の装束についての規定に登場している

「斎院式」には美しい『倭文』の装束の記載があった
 

 
写真は 京都の帯製造の老鋪『誉田屋源兵衛』が出したもので

三年前の「和楽」という雑誌に広告を出し

 東京ますいわ屋で取り扱かわれている製品の写真である

帯の荒い部分が 倭文布(しづり)に該当する

以上 大切な貴女へ お調べ致しました

 

 

今回の話題は 知る人ぞ知るで 

神様はきっと僕達を見守っていてくれると信じつつ

未だ日曜日なのに 早く来週末が来ないか 男だって切ない

(コメを戴ける方で中身がお分かりの方は ○○子で表現お願いしたく)