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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   母子ともに ご無事を祈りて

2011年07月02日 | 季節の移ろいの中で

寒河江のサクランボみたいな 玉の如き赤ちゃんがお生まれになりますように

 

 

母子ともに ご無事を祈りて

 

 

今年の「半夏生」は今日、7月2日です。

そしてあなたの出産予定日。今朝から家中の神佛へお祈り致しました。

どうかご無事でご出産あそばされく、夏らしくお元気なお子が授かりますように、と。

 

半夏生 一ト月もすれば青々と変化

 

 法隆寺さんでは夏安居(げあんご)の真っ最中。

二十四節季を更に細分した七十二候の雑季のうちですが、

雨が多いこの時期は「托鉢行」がお休みで、

お寺にお籠もりし、「三経義疏」を勉強するのです。

今年の夏安居は 5/16~8/15 (新暦)で、丁度この頃が半夏となり、

夏安居の終わりには(旧暦7月15日)を指して、

修行が終わり、季節は秋へと、「夏解(げげ)」というわけです。

 

又僕の妻はお化粧を殆どしないほうだから、これは半化粧というのでしょうか。

あれこれ考えるうち、早夕方になってしまって、ごめんなさい。

すっかり遅くなりましたが、あなたに素晴らしい赤ちゃんが授かりますようにと。

みんなでみんなでお祈りしてましょうネ。

 

山形 左沢線の終点・大江町にある姫小百合群生の写真

 

今年も、6月17日、奈良・率川神社では三枝祭り(ゆり祭り)がありました。

御母神と御父神の間にいるのが、御子神の姫皇女、媛蹈鞴五十鈴姫命と申します。

このお祭りで捧げられるお花が姫小百合で、子安神さまご自身とも申せましょう。

母子ともに、お元気であらせられますように、祈りて。

 


  爽やかな一陣の風が吹き

2011年06月22日 | 季節の移ろいの中で

デンマーク王家 フレデリック皇太子

 

 

爽やかな一陣の風が吹き

 

 

今回の震災で、祖国に逸早く帰って行く各国大使の中で、

最も被災の凄かった東松島に、一人で義捐金を持って行った大使がいた。

デンマーク大使・メルビン氏で、3月30日、まだ混沌としている中で駆けつけた。

東京から車に支援物資を積み込んで同市に入り、

義援金1650万円と避難所にデンマーク製のブロックおもちゃ

「LEGO」(レゴ)を40箱寄付していた。余震が続く中、何と勇気ある行動だろう。

しかも最も甚大な被害を受けた東松島市に直接行ったのだから、

現地でも大変驚き、大使の行動にどれだけ励まされたことであろう。

 

こうした活動を知ったデンマーク王家のフレデリック皇太子が感激され、

ご自身も直接行きたいということになり、先日13日皇太子は、日本へ。

早速、御所へ天皇・皇后両陛下に表敬訪問をされ、翌14日に東松島市へ。

 

フレデリック皇太子と 天皇・皇后両陛下

 

瓦礫の中を歩いて、幼稚園へ行き、デンマーク製の文具など4000万円を市長宛てご寄贈。

園児たちからは、紙で作った兜を贈られた。その兜にはデンマークと日本の両国の国旗が。

嬉しそうに皇太子がそれを被ると、園児たちはデンマーク民謡をベースにした歌を歌う。

その中に入り、皇太子もともに歌う。何という光景か。

海外王家で、直接こうした援助があったのは初めてのこと。

 

紙の兜の返礼に思わず微笑む皇太子 

この三月双子の赤ちゃんが出来たばかりで、四児のパパに

 

そればかりではない。小学校に移動し、皇太子からハッピー・コインのプレゼントが。

 

皇太子からのプレゼント ハッピー・コイン

 

そして皇太子が大好きなサッカーをすることになる(ミニサッカー)。

精力的に東松島市を巡回する皇太子に、市民から絶大な歓声が飛ぶ。

この日、普通なら海外の方が大好きな松島は風評被害で60%減、そこで皇太子は宿泊し、

翌15日、松島湾のクルーズへ。何としても風評被害を止めたいとの強い思いがあったのだ。

デンマークからやって来た取材チームは計11チーム、32名、きっと海外にも発信された筈。

約40分の湾内クルーズを楽しまれ、デンマークとの絆が一層深まったような気がする。

相変わらず天空に、カモメが乱舞し、爽やかな表情の皇太子が印象的であった。

梅雨空に爽やかな一陣の風を残して、皇太子は帰国されたが、前々回のサッカーでは、

Aリーグに入って、韓国大会であり、練習場は和歌山であったような記憶がある。

そして今回の南アフリカ大会では、日本と激突。日本が勝利しているが、

サッカー好きの皇太子にとっては日本との関わりが親密に感じられたことだろう。

 

フレデリック皇太子着用のTシャツには 「希望」の漢字と「Japan」の文字と日本国旗が

 

 

統治能力を完璧に失った菅内閣、

未だ義援金届かず、これだけでも万死に値する。

私は日赤に父とともに義援金を渡したが、大失敗。

フレデリック皇太子のように、現地の首長さんに、

直接手渡しすべきであったと改めて反省した次第!

政治空白は、今後70日も続き、己の責任の所在を知らぬ

歴史に、最悪の宰相として名を残す最低の菅総理。

最早政治はアテにはならぬ。

バラバラな民主党もグッドバイ!

 


  古き佳き日本人の典型を 台湾で知る

2011年06月21日 | 季節の移ろいの中で

山百合の花 スタンバイ OK

 

 

古き佳き日本人の典型を 台湾で知る

 

 

僕に、台湾・高雄市出身の大親友がいる。

もう早20年以上にもなるだろうか、

泌尿器科医で、日本で開業している陽気で気さくな御仁だ。

酒に滅法強く、酔えば、カラオケに直ぐ走る。

千昌夫の「北国の春」を歌うためだ。

但し故郷、台湾の高雄を思い出す手段でもある。

口癖は、「日本人なら日本人らしくしろ」と。そして彼は帰化した。

 

20日の小さな囲み記事に、台湾から被災地へ短歌が送られる話が載った。

台湾・高雄市にある義守大学応用日本語科発行の短歌・俳句集のこと。

年一回発行の、この雑誌には熱い思いが籠もっていた。

戦前日本の教育を受けた古老や日本語を学ぶ学生を中心に、

台湾歌壇のメンバー62名の、120首の歌が掲載されている。

同歌壇の代表、蔡焜燦氏が次のように述べている。

「国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」と。

そして今回の災害に対し衷心からの歌が寄せられていた。

 

TAIWAN HAIKU「特集;東北関東大震災祈祷平安文集」とある

 

   「未曾有なる 大震災に見舞はれど 秩序乱れぬ 大和の民ぞ」

   「天災に 負けずくじけず 我が愛友よ 涙も見せず 鬼神をば泣かす」

   「原子炉の 修理に赴く男の子らの 『後を頼む』に 涙止まらず」

   「福島の 身を顧みず 原発に 去りし技師には 妻もあるらん」

   「大正生まれ 昭和育ちの我ならば 日本大災難に 心のしずむ」

 

又、今は亡き呉建堂(台湾歌壇の創始者)の歌が残されている。

「万葉の流れ この地に留めんと 命の限り 短歌詠みゆかん」

同じく今は亡き洪坤山(呉先生の愛弟子)の歌に、

「北に向き 年の始めの祈りなり 心の祖国栄えあれかし」

「日本語のすでに滅びし 国に住み 短歌詠み継げる人や 幾人」

500部発行のうち、200部が宮城・岩手の贈呈されるという。

 

 李登輝 元台湾総統の言葉


「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。(中略)『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積み上げられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。人類社会全体が危機竿頭の大変な状況に直面している時だけに、世界有数の経済大国であり平和主義国家でもある日本および日本人に対する国際社会の期待と希望はますます大きなものとなりつつある、と断言せざるを得ません。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、六十億人余の人類社会全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤い尊敬と信頼を集めているからです」

 

台湾には植民地化された印象が薄いように思う。

韓国から、日本より占領されていたではないかと抗議されると、

日本はあらゆるインフラを整え、整理整頓してくれた恩人であるとし、

韓国と国交を断絶してしまったのである。李登輝さんは、

京都大学で農業を学び、台湾に農業を振興させた御仁でもある。

台湾全土に、村人が建立した日本兵への恩賜の御霊廟も多い。

 

そろそろ我が親友から、ライチが届く季節になっている。

 

叢に 密かに咲くカタバミの花 (僕は野の花が大好きだ)

 


   野辺のかほ花

2011年06月17日 | 季節の移ろいの中で

  

亡き主人の「八甲田牧場」の絵に 蛍袋と野蒜の花をそえてみた

 

 

野辺のかほ花

 

高円(たかまど)の

野辺のかほ花

面影に

見えつつ妹(いも)は

忘れかねつも

 

大伴家持

万葉集 巻八 一六三〇 

 

亡き妻へ歌った大伴家持の鎮魂歌である。ここでいう「かほ花」とは

一般的に「昼顔」のことらしいが、家持の悲哀は昼顔だけだったのだろうか。

美しい花、皆「かほ花」に見えて、尽きせぬ喪失感を表現したものであろう。

高村光太郎は、妻・智恵子を肉として捉え、生涯忘れなかったように。

 

本来は十字花のドクダミだが 我が家には八重のドクダミがある

 

我が家の叔母は柿生にお嫁に行っていた 

そこから財産分与を受けた畑が彼女のフィールド

年中有機野菜が取れ 日々困ったことがない 

住宅街に約三千坪の畑あり 税金が大変

その結果税金対策として 2000坪ほど 

近所の方々に 家庭菜園として貸し出し中

このフルーツは改良型の「夏グミ」 大量に出来た

 

ラズベリーって不思議 花の脇には実がなっているのだ 

蜜蜂も止まっていた 右上にいる

 

ヒメウツギの小さな花が咲いていた

 

「墨田の花火」はもう少し 叔母は76歳 

今でも軽トラに乗って 時々柿生の菜園に通っている

 

この花 何ていうのと聞いても返事がない 

ゲンノショウコのような不思議な花

 

野蒜を採ってきて、しみじみと眺めた。

濃い緑色の茎が真っ直ぐに伸び、その先に小さな丸い顎が固まっており、

そこから更に細い線が十数も伸びて、六枚の白い花をつける。

花が開き始めの頃、先端にピンクの色が可愛らしい。

小さな花だけど、蕊は長く、堂々として蜜蜂たちを待っているようだ。

 

野蒜(のびる)と 蛍袋

(白・ピンク・紫などがあるが 純白の蛍袋がだぁ~~い好き)


   「無用」の美を求めて

2011年06月16日 | 季節の移ろいの中で

静かで清楚な天神坂 登りきったところに この石塔があり 三樹荘があった

 

 

 

 

「無用」の美を求めて

 

 我孫子・手賀沼 文学散策 (Ⅱ)

 

 

祖父は、白樺派を全面的に認めていたわけではないが、

同人・柳宗悦だけは別格であったらしい。

柳の志向の高さに惚れていたのだろう。

三樹とは、「智・財・寿」と呼び、地元の人に崇められていた、

三本の椎の木のことである。

柳は、嘉納治五郎(実母・勝子の弟)の薦めにより、

治五郎邸の前に、この三樹荘を建てた。

大恋愛の末、結婚した兼子との新婚生活を送るためでもあった。

兼子の弾くピアノは祖父の心をときめかした。湖水にアルトの音声が

よほど美しく響いたことだろう。幸せな祖父!

 

治五郎邸跡から見た三樹荘 柳宗悦退去後 やってきたのは深田久弥や田中耕太郎

 

我孫子に最初にやって来たのは 嘉納治五郎であり 

そこから文化村が出来た ここは治五郎邸跡

 

 

多くの白樺派が集まり、柳宗悦も同人であったが、

彼の思考する美意識が全く違っていた。「西洋かぶれ」に加担しないのだ。

和を意識し、この新居に引越しと同時に見た朝鮮白磁に圧倒された。

従って、ここから「日本民藝」への意識が芽生えたと言っても過言ではない。

朝鮮総督府の弾圧が始まると、柳は朝鮮に渡り、民具や民藝を収集し、

そして朝鮮民族博物館を建ててしまった。ここまでの反骨精神は凄い。

 

白樺派同人写真プレート 武者小路や柳や志賀が見える

 

 

更に沖縄に激しい頻度で通い、沖縄の民藝美の発見に尽くした。

又、木喰上人の「無垢な直感の美」を持つ木造仏像を発見し公表した。

そこに河合寛治郎や浜田庄司や芹沢圭介や棟方志功などが大挙賛同し、

一時大ブームとなったのだが、日本人特有の熱し易く冷め易い性分に、

何時しか、「日本民藝運動」も忘れ去られてしまったようだ。

司馬遼太郎は読むが、柳田國男は読まない、今日的現象であろうか。

 

現在、御土産屋などに、柳宗悦の見出した美は一切ない。

 

 

子(ね)の神大黒天の阿吽像 

私たちは「南無大師遍照金剛」と唱えて祈った (右端はカネノワラジ)

 

この前方後円墳のすぐ裏手に祖父の墓所がある 

尊敬した「向井去来」のような 小さな墓所であった

妻と僕は 小っこい曾々孫と 幾種類かの「野の花」を摘んで手向けた

  

祖父の膨大な記録を前にし、父から漸く許しを得て、祖父の日記を、

妻と共に読み始めた。ここには古き良き時代の日本人が生き生きと、

描かれ、まさに時代の証言というべきものがある。

 

宗悦が利休居士と似ていると言われ、柳は激怒したらしい。

権力や金力を利用した利休など、本来の利休なら望まなかったはずだと。

現代の茶道の有り様を見たら、一目瞭然だろうとも。

我が祖父は柳の発言をコツコツと聞き書きし記録し書き残した。

祖父は昭和の始め、A紙新聞記者のロンドン支局員として、

「魔法の森の20年」前を生き抜き、大正末期生まれの父の代に変わった。

 

祖父の墓参を終え、杏の望む湖畔へ。

渡らないバンやオオハクチョウの家族たちが、私たちを迎えてくれた。

杏も、大風もどんなに喜んだことだろう。

墓参とは、根っこから清々するものである。

 

三岸好太郎は 女画学生だった節子とともに

同じ、この崖の絵を描き湖畔にて求婚をした

 

若かりし折の岡田嘉子が撮影をしたキネマ撮影所跡 

藤蔭静樹は彼女の舞踊の先生であった

この後、松竹撮影所は蒲田に移転した 

岡田の駆け落ちは会社をも巻き込む大事件であった

 

杉村楚人冠は祖父の先輩 詩句は陶板製で 

「筑波見ゆ 冬晴れの 洪(おお)いなる空に」 アサヒグラフ創刊など

 

やっとこさ行けた湖水 渡らないオオハクチョウの家族がいた 

杏が待ち望んでいた風景

この他 寺山修司の奥さんだった九条あや子のご実家にも回った

 大好きな作家・中勘助の仮寓跡もあり 盛沢山!


  泰山木の花が咲き

2011年06月13日 | 季節の移ろいの中で

我が家の庭の王者 泰山木の白い花

 

 

 

泰山木の花が咲き

 

 我孫子・手賀沼 文学散策 (Ⅰ)

 

 

庭一面にいい香りが漂っている。これは朴の花ではないな。朴より少し香りが控えめだ。

父が朝、「そう言えば今日が祖父の命日だな、しばらくお墓参りをしてないが、さて」と。

「じゃ僕らが行くよ」と言い、杏に「鳥さんたちを見るかい」と言ったら直ぐに首をコクリとした。

いい具合に、妻も行きたいと言い出す。非常勤勤務の良さか。目指すは我孫子市・手賀沼。

子(ね)の神大黒天にある祖父の墓参に行く。

 

祖父は変わっていて、老いてからA紙新聞記者になったが、

柳宗悦を心から慕っていた。特に奥さまのアルト声楽者だった兼子さんの大ファンで、

A紙新聞の大先輩・杉村楚人冠の信任も厚く、始終我孫子に通っていたらしい。

 

水原秋桜子は、年に50回も通って好きだが、キミも余程好きねぇとよく言われていたようで、

そして白樺派の文人たちの集まりに、時々顔を見せ、その都度何か提供をしていた模様。

 

父との確執で悩み、方々を転変とした若き日の志賀直哉。今はあまり読まれないようだが、

私は、志賀直哉の文章は格別に美しいと信じている。私が好きな中勘助も来ていたようだ。

 

祖父は豆々しく繊細な男で、彼らの住居を買う際には、きっと力になったことだろう。

そして実に筆まめであったので、白樺派や他の文人たちの新発見があるかとも思う。

未だに、祖父の日記に手をつけていないが、判読は妻に任せたいものである。

 

志賀直哉邸の書斎は古色蒼然として実にいい。まるで良寛和尚の五合庵を観るかのよう。

 

  

 

 

志賀直哉の書斎 右手石段は 山上の客間へと続く

 

石榴や椿や樺や杉板や、何もかもが邸内にある原木をそのまま使用、藁葺屋根以外は、

昔のままだと言う。この書斎で書かれた小説は、大正6年(1917)に父親との確執を書いた

『和解』。続いて同年『城之崎にて』。大正9年(1920)『小僧の神様』。作家全盛の勢いに。

作家として名声を得て行く時期でもあり、更に大正10年(1920)~大正13年(1923)まで、

『暗夜行路』の前編と後編の殆どを、この小さな書斎で書き上げている。

 

その後京都経由、奈良・高畑町に移り、和のお屋敷を持つが、滝井孝作もついて行った。

本来俳句は河東碧梧桐の弟子だが、小説の師は芥川龍之介と、特に志賀直哉を師と仰ぎ、

孝作と志賀は随分親しかったようだ。志賀邸に夕食に招かれることがしばしばだったらしい。

 

滝井孝作は、志賀邸のもう少し高台に掘っ立て小屋を建て、円形古墳の傍の家で妻と、

暮らしながら、ヒロインのリンが出てくる連載小説・『無限抱擁』という純愛小説を書いている。

師の移動とともに京都へ行くが、『無限抱擁』のヒロインのリンが死ぬと、小説も終わり。

その後、何と志賀邸のお手伝いさんと結ばれる。然もその名は「りん」。何ということか。

常に私が主人公で、如何にも日本的情緒の私小説に過ぎないが。

 

滝井孝作 仮寓跡 傍の円形古墳 (この一帯には古墳が十三個あるとか)

 

志賀は晩年殆ど我孫子を思い出したくなかったと言う。

冬は特に寒く湿気が多いこの地で、二人の愛児を失っているからだ。

志賀を我孫子に呼ぶ切っ掛けを作ったのは、他でもなく武者小路実篤。

そのお蔭で白樺派の文人たちや、林芙美子や、斉藤茂吉や、古くは正岡子規も来ていた。

野口英世を物心両面から支え続けた血脇守之助は我孫子の旅籠・「かど屋」の出で、

謝恩の碑も我孫子にはあったが、後に東京歯科大学を創立することになる。

文人だけではなく、多くの文化人や著名人が集まった場所、

それが錦湖・手賀沼の湖畔であったのだ。まるで「坂の上の雲」を見るかのようである。

 

だがつい最近まで、全国の湖の中で最も汚れた湖として有名であったらしいが、

今ではスッカリ綺麗に浄水され、美しく、古き良き時代の湖畔になっている。

我が長女・杏はここに集まる渡り鳥が大好きだ。

 

長谷川伸、中里恒子、島崎翁助、窪田空穂、藤蔭静樹、円地文子、大町桂月、

古くは小林一茶までこの地に来ている。西洋史専門の村川堅固・堅太郎の別荘もある。

「三田文学」の編集長であった坂上弘も在住していた。大田蜀山人や、

歌人で、宮中・歌会始めの召人であった清水房雄も住んでいた。

軽妙な句を作り、人気があったM新聞の、祖父の記者仲間であった岡野知中も、

ハケの道と呼ばれる場所に住んでいた。

俳人で、この地出身の、高浜虚子の口実筆記をした野村久雄もいた。

祖父は特に、関東三十三番札所で、真言宗の古刹・「子(ね)の神大黒天」を愛し、

今は新しい家が建っているが、門前に住んでいたようだ。祖父の遺言に、前方後円墳がある

この御寺の墓所を購入していたので、埋葬を遺言し独りここに眠り、

祖母は田舎に行くなんてマッピラだと公言し、祖父の言い成りにした。

後に、当家伝来の青山墓地に分骨し、祖母と一緒にしたが、

父は何かと祖父を尊敬し、祖父の墓参りを欠かしたことはなかったようだ。

 

武者小路実篤と志賀直哉、たった2キロしか違わない距離で、

お互い船で行き来し、小船から「おおい、しがぁ、いるかぁ」ってな具合に大声を張り上げ、

二人は懐かしく、愛惜に満ちた声になって聞こえたという。

 

但し祖父は二人に割って入ったわけではない。

時世、急をつげる中、ただ悠々としていただけだ。無論『匿名者』として。

でも一言だけ、我が家に伝承されていることがある。

左翼系作家だった小林多喜二が志賀邸にやってきて、

意見を仰いだ時、志賀はウザイと思ったらしく聞く一方であったらしい。

白樺派は時局に疎すぎると、祖父は嘆いていたようだが、

でも彼らとのお付き合いが好きだったのだから、イト不思議。別記事にする。

 

祖父が最も愛し、信仰にも似た感情を抱いていたのは、柳宗悦・兼子夫妻の存在であった。

(Gooブログ記事の容量の都合で、最も大切な部分は、別記事にする)

 

直哉の哉の字に ハネがない このほうがすっきりするといい 生涯この字に徹した

 

志賀邸から 200メートル手前にある「白樺文学館」

 


   花之江河(はなのえご)を夢みて

2011年05月24日 | 季節の移ろいの中で

 

お茶席の隣の間 御待合の間 (茶懐石はここで戴く)

 

 

花之江河を夢みて

 

 

 櫻塾や当財団などの活動はしばらく外部に秘匿し、内々にやっている。これらは亡き主人の強い希望であって、誰が主役か、その問い掛けが極めて真剣だったからである。日光・月光菩薩さまや普賢菩薩・文殊菩薩さまは、必ず本体の阿弥陀さまや、観音菩薩さまを両脇で御守りする。その本体は何かを常々考えるべきだというのである。私たちは櫻山を作り、それを通して日本文化の在り様を問い掛ける団体であるべきだというのだが、「匿名の文化」の担い手であることも重要で、本体の阿弥陀さまや観音菩薩さまに代わって、山櫻や江戸彼岸であるべきだというものだ。誰がどんなことを何時やったかが問題ではなく、特に樹々の成長は時間が掛かり、一夜花や一年草の運命とは訳が違う。「匿名の文化」の象徴は、僅か十ヶ月で忽然と消えた東洲斎写楽であるかも知れないが、万葉集には作者不詳の歌が数限りなく多い。又日ごろ愛読している「梁塵秘抄」の歌唱の殆どは一般人の歌唱で、中でも人目を憚る遊女の歌が多いからでもあろう。もっと言えば古くから伝承されてきた民俗芸能の裾野は現在でも圧倒的に多く、無名に等しいのである。有名な祭りは商業ペースになるものが殆どであるが、商業ペースに乗らない密やかな芸能や民俗には、日本文化の根本的なキーワードとなるものが間違いなく潜んでいる。それらは代々受け継がれ、変わることなく存続し続け、永年の時を費やさなければ日本民族の心となりえない。櫻や、広葉樹や照葉樹や針葉樹だって時間を掛けなければ断じて育たないのである。能面を作る木曾檜だって樹齢二百年以上経ったものが使用され、しかも伐採してから、何度も水に浸けたり、乾燥させたりして、愈々面打ち(能面作家)に渡るまでに、約40年は掛かる。樹の油をほどよく抜くためでもあるが、樹が割れないことを確認する作業ためでもある。要するに私たちの仕事は孫子の代まで続いてこそ意味が出てくるというものである。財団法人日本さくらの会に、以前佐野籐右衛門さんが参加されていた。だが所詮お役所の下請けのような組織で、最後副理事長を務められ、佐野氏は退任した。いずれの時代も、時の衆議院議長が筆頭理事長になっているのも、公営ギャンブルの数%を維持費にしている根拠から仕方がないことだろう。更に染井吉野だけを植栽に薦めるのはどうかと思う。コマツの企業メセナで行われている財団法人日本花の会は結城市に立派な苗場があるが、一企業で日本全土をカバァー出来る余力はなく、その時々の企業業績と連動するのは当然である。私たちは完全無欠な私人の団体である。私たちは私たちのしたい放題のことをする切っ掛けを作ったのは我が亡き主人の遺志であり遺言であった。従って櫻を植えても櫻が主人公であるのだから、私たちは黒子にしかなってはいけないと。櫻は佛さまで観音さまで阿弥陀さまであるとも。5月13日、日高山系の麓の、静内の櫻並木は満開となった。漸く根室に咲く千島櫻が満開になろうとしている。

 

色づいた紫陽花 紫露草 西洋◎◎ この時季紫系の花が多い

 

  •  私たちの組織を公表するのはずっと先で、それこそ「匿名の文化」を擁護したい。櫻だけは自分たちで育てているが、その作業はそう簡単で単純なものではない。人手を入れていない自然林は神の領域だけでいいはずで、私たちが所有する岐阜の山を除いて、約三十ヶ所の山林間伐の依頼を受けている。櫻だけではなく、所望されれば、当然多くの種類の樹林を植栽して行きたい。楢系ではクヌギ・ナラカシ・カシワ・アベマキ・ミズナラなど、樫の仲間ではウバメガシ・アカガシ・イチイガシ・アラカシ・シラカシ・ウラジロガシなど、馬手葉椎の仲間ではマテバシイ・シリブシカガシなど、椎の仲間ではスダジイ・ツブラジイなどと言ったドングリを付ける樹々。無論七竈(ナナカマド)やブナやオニグルミやサルトリイバラやハゼノキや漆やミズナラやダケカンバや栗や、様々な種類の松や杉や高野槙や檜は言うに及ばない。山櫻や江戸彼岸系の櫻以外のそれらは安行の苗場近くで幾らでも購入出来る。要するに、太陽が地面に到達し、色々な昆虫や蛇や梟や猪や熊や鷲など、多彩な動物たちの楽園になる自然林にしたいだけのことであり、櫻山とはそれらと共生する櫻山であることである。
  •  3;11以降、何度も被災地に入ったが、百聞は一見にしかずである。残忍な津波は特別恐ろしいことが理解出来る。同じ運命を共に共有しているからと言って被災者たちは誰も無口で感情を表に決して表さない。でも懐かしき逢いたかった人と出逢うと感情が一気に爆発するのだろう。何人もそんな方々と抱擁し、号泣した。未だに傷口は深くトラウマとなっているようだ。そんな中、5月22日午前11時、石巻専修大学で入学式があった。我が塾生一人が入学した。私は彼の付き添いとして大学構内まで行った。他のご父兄のお話を伺うと、宮城から三陸周辺の地元の方々は過去何度も甚大な自然災害を受けても、一時山へ再建するのだが、結局海の民なのだろう、再び海ツ淵へやってきて、何度残酷な被災があっても性懲りずにやって来るらしい。そういう性なのだと。こうして我慢するから神さまが豊饒の海を与えて下さっているんだと。既に僅かに残った船で操業しているが、相変わらず豊かな海であると胸を張って嬉しそうにしていた。避難場所でじっとしているより、少しでも身体を動かしているほうが健康にいいのだろう。そう言えば道の駅も壊滅的な打撃を受け、悲嘆にくれていたが、そんな場合じゃないよと春野菜の伸びる光景に教えられ再開したという方もいらっしゃった。我が塾生は櫻のDNA研究をしたいと抱負を述べていたが、やはり故郷には人一倍執心があるのだろう。櫻のことは別にして、地元の方々と是非一緒に頑張って欲しいものである。元の風景が自然に見られるまで私たちは気永い応援をして行くだろう。まだ始まったばかりだ。
  •  表題に書かせて戴いた「花之江河」とは屋久島の山中、標高1,600メートル付近に梅雨の時季から飄然と現れる緑の湿地のことだ。屋久杉生い茂る先にある。宮之浦岳はほぼ2,000メートル級の高山である。最南端にある日本百名山で、父も登った山だが、一年中雨が降り梅雨入り後は最も過酷に雨が降る。九州南部に梅雨入り宣言を出された昨日から、しばらくは雨季となることだろう。私の好きな季節の一つでもある。雨季には淡い色の花がよく似合う。和色468色すべてと色合わせなどして、季節を楽しむのもいいかもしれない。苔で覆われた屋久島の花之江河の美しさは二十年前訪れたが今だに記憶に残って堪らなくなる。縄文杉はそう高木ではない。でも流石に縄文時代から生きているという説が心底から納得出来る。又、神代の1,800年前、神功皇后時代から始まったとされる大阪・住吉大社の御田植神事もそろそろだろうか。壮麗な行事で興味尽きないが、確か6月14日だったかも。梅雨にも楽しみあり。

 

バジルを今年も植えた 苺の白い花 まだまだ収穫出来そうだ

 


  杏と、唐種招霊(トウオガタマ)の花と

2011年05月15日 | 季節の移ろいの中で

トウオガタマの花 別称カラタネオガタマ (又はバナナ・ツリー)

 

 

杏と、唐種招魂の花と

 

娘・杏の部屋から初夏の風にのって、いい香りがしてくるとばぁばに、娘が盛んに言う。

ばぁばとは叔母のことだが、じぃじ(父)が地植えにしたバナナの木じゃないの!っていう。

僕はカラっと晴れ渡った昼ごろ、杏と彼女の愛犬・メイを連れて庭に出た。

杏の部屋のほうへ行くと、なるほどいい香りがしてくる。確かにバナナの香りがする。

でもバナナよりずっと高尚で、上品で爽やかな香りがする。何だろう、ユリの木の花かと、

近づいてよくよく観ると、なるほど直径8センチほどの小さな花が咲いていた。

この家に育ったの僕なのに、まだまだ知らない木があるようだ。

杏は嬉しそうに手を、パチパチ叩いてよく観ていた。

愛犬も一緒に喜んでいる風にシッポ振り振りで楽しそうに見える。

 

(メイは杏が大好きなアニメ となりのトトロの妹メイと同じ)

 

 

まだ蕾が多く、満開とは言えないが、

それでもこの芳香はバナナの香りの主成分酢酸イソアミルのようで素晴らしい。

杏は上機嫌。この子は香りに人一倍敏感で、好きな香りだと近寄ってじっとしている。

足元にはニワゼキショウの小花がびっしりと咲き、連翹はすっかり緑色。風も心地いい。

そのうち、妻が大風を連れてやってくる。大風の愛犬・スパンキーは元気いっぱい。

大風とスパンキーは庭中走り回る。普段運動不測の妻は、それに一緒について回る。

 

(スパンキーは以前僕が飼っていた雄のアフガン犬と同じ名前で コーギー犬)

 

蕾のトウオガタマ 自生のオガタマとは違う 白いオガタマはモクレンのようで 

匂いはパイナップルのようだ しかもそれはフトモモ科のフェイジョアに似ている

 

ばぁばがお昼御飯だと言って、オニギリやオヤツなどを持って来てくれた。

杏も大風もモリモリと食べる。妻も汗いっぱいにして食べている。

いい午後になった。ひと頻り遊ぶと、杏も大風もそれぞれ抱っこされ、

それぞれのお部屋に入って、午睡。妻も午睡。父にこの花のことを聞く。

盆栽用にと挑戦してみたが、盆に収まらない性質があるらしく、地植えにしてしまって、

早七年になると言う。高木になるらしい。中国から江戸時代に、日本にもたらされた花だと。

来週父はいつもの岳人たちと、尾瀬に行く予定だと。

多分山開きでもあるのだろうか、福島県桧枝岐で開かれるのであろう。いいなぁ!

 

妻が休んでいる間、読書中の『万葉集』の上に ニワゼキショウの花を飾ってあげた

ニワゼキショウは一日花につき 万葉で思い出される歌は大伴旅人が歌ひける

“生ける人 つひにも死ぬる ものあれば 今在る間は 楽しくをあらな”

巻三・三四九 大伴旅人 作

 


  鎮魂

2011年05月11日 | 季節の移ろいの中で

コバンソウ 翳んで見えているのが、野の花のコバンソウ

 

 

 

鎮魂

 

 

今日の午後2時46分、あれから早二ヶ月。

私たちは何も出来ないが、全国にいる私たちの盟友とともに黙祷し、お祈りをする。

遅々として進まぬ復旧・復興。政治の力は絶望的な状況で、悔しい限り。

誰も人のせいにせず、我慢し、復興の時を待つ東北のあなたよ!

どうかいい加減、我慢しないでください。そして震災川柳でもお読みになり、

笑って、是非頑張って下さりませ。あなた達と共に。又私たちは伺いますネ。

 

大津波ぜんぶ流されバカヤロウ!

(確か工藤さんとか言われた若い被災者のご婦人の川柳)

 

 

我が家の木香薔薇が満開 あなたへと 香りも花も届け!

 


  Royal Wedding 、Will&Kate

2011年04月29日 | 季節の移ろいの中で

Will & Kate おめでとう!あなたの落ち着きは素晴らしかった (CCNJより)

 

 

 

 

 

Royal Wedding 、Will & Kate!

 

 

朝からCNNJを観て、女性週刊誌の記者のようになって観ていました。

二人は婚姻後、ケンブリッジ侯爵・ケンブリッジ侯爵夫人となられます。

どんなケーキが出るか、どんな宝飾品を身につけるか、ウェイディング・ドレスはとか、

予想される方々で大騒ぎです。トラファルガー広場に多くの市民が集まりました。

凡そ100万人とか。記者は8000人で、世界で20億人が見るとか、

何とも桁はずれの大きさです。多分ダイアナ妃以来なのでしょう。

 

セントアンドリュース大学で、共に美術史を学ばれたようですが、驚いたことは、

ケイト妃の落ち着きぶりが際立っていました。何故か不思議にさえ思えました。

ドレスは、母・ダイアナ妃と違い、少々地味で遠慮気味でしたが、丸っこい裾。

その素敵な井出達についうっとりと致しました。ウィリアム王子も、明るい紺色の、

肩掛け(サッシ)が、真紅の軍服(最高位の礼装)に似合って、見事にはまっていました。

ケイト妃の介添え人は父親のマイケルさん(祭壇では実妹のピッパさん)、

ウィリアム王子の介添え人は実弟のヘンリー王子(皇位継承第三位)です。

実はヘンリー王子は、私が逢ったことがあるのですが、

でも、日頃のヤンチャな王子ではなく、漆黒の礼服にキリリと引き締まっておりました。

Harryと書いて、ヘンリーと呼ばれるのが不思議です。実は、私、彼の大ファンなのです。

 

ロンドン子たちは12連休の真っ最中で、半分以上は旅行中です。

殆ど、アメリカやオーストラリアなど、海外からお越しの方々ばかりでしたが、

海軍の飛行隊が空中を祝賀飛行をした時、Royal Kissがあったのです。

群集は大喝采!そこで二度目のキッス。最初より二度目が長く感じられました。

すっかり有頂天になっていると、我が妻が帰ってきました。思い切り笑われたのですが、

娘が、美しい聖歌隊の歌を見ていることをいいことに、何とか妻も一緒に観ることに。

 

ただ一言、今日は「昭和の日よ」と言われ、

そうだなぁと返答するしかありませんでした。

お住まいはクレランス・ハウスでしょう。新婚旅行はパパラッチに追跡されないよう、

母親のダイアナ妃の、二の舞になりませぬようにと、祈るばかりです。

 

ともかく本当におめでとう御座います。

末永くお幸せであられますように、心からお祈りしています。

 

そう言えばこの度、キャンディーズ時代の、スーちゃんの放映がありましたが、

昭和って、何て平和でおとなしく、豊かな気骨で終わっていたような気がしてなりません。

私たちは、これからの将来を考える上で、過去の事例に遡ることが肝要でしょう。

 

    (王子との噂が大衆紙「サン」に書かれて以来、ケイトと表現されるようになりましたが、

    本来の名はキャサリンです。ウィリアム王子と素敵な結婚生活を送られることでしょう。

    ブーケに注目しておりました。20世紀初頭に崩御されたヴィクトリア女王が祖母に

    贈られた銀梅花でブーケを作るのが伝統で、純白のウェディング・ドレスを着て、それ

    が今日の花嫁衣裳の原型になったものと考えられています。でも今日のケイトはやや

    オフホワイトのドレスで、ブーケはハニーサックルか何か分かりませんが、銀梅花では

    ありませんでした。きっと英王室に時代の新風を送り込むだろうと感心しました。それ

    にしてもご母堂のダイアナ元妃のご葬儀の際、まだ少年であったのが夢みたいです。

    スペンサー卿もご出席されておりましたが、故人もきっとお慶びのことでしょう)