コトネアスター 中国やヒマラヤ原産で 冬の紅い実は実に美しい
『冬の実』と、無用の用
随筆は随筆として、ジャンルは確立されている。だが謂わば私小説になっている随筆を私たちは単純に随筆とは位置づけていない。特に随筆の名を借りた私小説のことである。何も近代日本人が残した数多くの私小説を完璧に排除するつもりはない。感心する私小説も決して少なくない。では何がいけないのかと言えば、自我の表現である筈の私小説に、自己と全く乖離したカタチの、ウソはったりで彩られた創作が存在していることである。
『冬の実』という随筆集がある。又氏には『ふらり道草ー季節の往来ー』というブログもある。第51回日本随筆家協会賞を受賞された立派なその随筆は、戦時中西陣から、京北町に疎開されていた時分の追想の記録であるだろう。鋭い語り口が評判となっているようであり、大変結構なことである。氏は女性がお好きであるらしく、女性ブロガーのコメント欄に、毎度ワレ先にとカキコしている御仁だが、但し多くの詩人の詩や名文を、自文に付け足すことをイソイソと怠らない。通常引用にはそれを為す柱があるだろう。そう書く方の人となりとなるような引用であるべきで、何が何でも強引に己が記事に引用するとは、名随筆家としてどうだろう。恰も、それぞれの記事に阿り、自身が如何に偉いかを誇っているらしい。又は単に知っているぞという「ハッタリ」に過ぎないのではなかろうか。笑止の到りである。
そもそも旧 日本随筆協会(現 文学交流の広場)と、日本エッセイスト・クラブとは大違いな別組織である。両クラブの歴代受賞者を比較対照しても明らかに理解出来る。旧 日本随筆家協会は新人発掘と言ってはいたが、果たしてどんな新人が発掘されたのだろう。一方日本エッセイストクラブには、私が影響を受けた名随筆が多いのは明らかであり、言うまでもなく優れている。綺羅星の如く存在し続けるこれら名筆の数々には圧倒される。古くは吉田洋一「数学の影絵」、片山廣子「燈火節」、中西梧堂「野鳥と生きて」、森茉莉「父の帽子」、曾宮一念「海辺の熔岩」、中尾佐助「秘境ブータン」、宮本常一「日本の離島」、石井好子「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」、戸井田道三「きものの思想」、坂東三津五郎(8代目)「戯場戯話」、角川源義「雉子の聲」、加古里子「遊びの四季」、中野孝次「ブリューゲルへの道」、高峰秀子「わたしの渡世日記」、「沢村貞子「私の浅草」、藤原正彦「若き数学者のアメリカ」、舟越保武「巨岩と花びら」、志村ふくみ「語りかける花」、岸恵子「ベラルーシの林檎」などなど、今でも多数のこれらの本を手許に置いて愛読しているが、旧 日本随筆家協会で受賞された方の本はたった一冊の本もない。しかれどもこのU・Mさんと言う御仁の『冬の実』の著者は、その受賞が本人にとってよほど嬉しかったのか、近辺の人は知らぬ者はなく、一身に尊敬を集めているから、結構ないいご身分である。
さて、「無用の用」とは老子・荘子が説いたことだが、我が日本にも深く根ざしていた。ただ日本的意味が加味され、独特な意味を持つことになったようにも思う。よく分かりやすい荘子の言に、「關於『無用之用』,老子也曾提出略似的看法,在老子書中的第十一章就有:『有之以為利,無之以為用』。老子之『無之以為用』,特用車、器、戶牖為例,當其『無』,『無』即『中空』,方能有所用;至於莊子之『無用之用』,則略異其旨,莊子外物篇中云:惠子謂莊子曰:『子言無用』且大,人之所用,不過容足,然若使足之外,掘至黃泉,人則戰慄不得行動,因有『是知有用之物,假無用成功』。一般人但知『有用之用』而不知『無用之用』,故其用有時而窮;人存於世,只知徵逐名利是用,不知名利之傷生折壽,因而『有用』往往成了『無用』。とあるが、難しい。 「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫(な)きなり」 の意味で、単純に理解すれば、言行や条文など書かれたものでなく、自明の理として、不文の正義があるというものである。それは日本人の矜持として現在でも通じており、書かれたモノ以上大切なモノだと言うことである。敢えてご貴殿に捧げておこう。
何を血迷ったのか、他家へ嫁いだ私の妻の実家を詮索したり、我が周辺を頻りにお調べのようだが、先も長くはないこのご老体に、今更文句をつけても致し方ないことである。何一つ後ろ指を指されるようなことだけはないと断言しておこう。どうぞごゆるりとお調べ賜りたいものである。但しシッカリとね。又この名随筆家とどこかウマが合うのか、gunkanatagoさんというフーテン老人がおられる。花落転合咄というブログを書いていて、通称「徘徊堂」と呼ばれる。京都を中心に徘徊した記事を書いておられるようだが、この方はきっと京都の地の人間ではない。これだけ京都のことを書いても全く知らないと言ってもいいだろう。道草と徘徊という言葉は共に良きコンビにつき、道草間諜としても立派な働きであることだけは褒めておこう。
モノ書きを自認するんなら、書き人の人格や、現在の心境が映されて当然である。それを奥深く潜め、ありったけの知識をボロ糞に自慢し、この上なき冗漫さが本性とはあ~ぁ情けなや。立命館大学を卒業し、社会人になってから、多分営業分野一本だったのでは。嘘ハッタリは日常茶飯事。何度もお酒に溺れたことだろう。かくして過去の自身を自嘲気味(実は自慢気)に、オコナイという言葉を頻繁に使う。オイオイ冗談じゃないぜ。全国各地にある「オコナイ」と混同されるからと何度かご注意を申し上げたが、アタマが固いのか狡猾なのか一向に止める気配がない。「硯水亭歳時記 Ⅱ」では 「オコナイ」と日本人の宗教観として高月町のオコナイを詳細に説明してある。又能楽発生前夜に関わった要素があるとして、静岡県引佐町寺野にある「寺野のオコナイ」や、静岡県天竜市懐山に連綿と続いている「懐山のオコナイ」だってある。何とこれらは鎌倉時代に起こった古雅な猿楽能の一つではないかとさえ考えられているのだ。お願いだから、酒でデレスケになった己の過去のオコナイと一緒にして戴きたくない大事だ。自分の正体に向き合おうともせず、美辞麗句で古雅風な文体をあやつり、お他人様の詩句を平気で気軽に借用し、そうやって幾ら着飾ってもお里は知れている。ブログを書くしかない御仁だから、ブログを止めなさいとは言わないが、今後少なくもいい老後を楽しんで戴きたいだけである。お他人様のコメント欄を利用し、あからさまに誹謗中傷することは、その方も巻き込み、これぞ「アラシ」というべきものである。太宰治のように自身と向き合うこともなく、極めて可哀相な方だ。これ以上二人のお嬢様を哀しませてはいけない。私は三が日京都の妻の実家で過ごす。どうぞおいで戴ければ、一献酌み交わそうではないか。もっとも貴殿はご自分のブログを、このような記事で汚すことは決してないがね。
大震災があっても、大津波があっても、平気な記事ばっかりで情けない。美しい記事は立派なもんだが、高浜原発など、万一事故でもあったら無縁ではない筈である。若狭湾はなりを潜めているだけに、専門家はその危機を大いに予知しているのだから、日本国中、自然災害及び人的災害の原発事故と無縁ではなかろう。子孫に負の遺産を残したくないご貴殿も無縁ではない筈である。東日本大震災に全く興味もないブログは我がブログの関知するところではない。私の今年の言葉は「哀」であり、「祈」である。どんなに涙を流したことだろう。長いリアス式海岸線をトボトボと歩き、祈って歩いたことだろう。貴殿のような御仁ではなく、復興の緒についたばかりの北の民人と共に生きていようと思う。曲がりくねり途中で途切れた三陸鉄道の線路が真っ直ぐに延びて復活するまでは。