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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   『冬の実』と、無用の用

2011年12月28日 | 季節の移ろいの中で

コトネアスター 中国やヒマラヤ原産で 冬の紅い実は実に美しい

 

 

        『冬の実』と、無用の用

 

 随筆は随筆として、ジャンルは確立されている。だが謂わば私小説になっている随筆を私たちは単純に随筆とは位置づけていない。特に随筆の名を借りた私小説のことである。何も近代日本人が残した数多くの私小説を完璧に排除するつもりはない。感心する私小説も決して少なくない。では何がいけないのかと言えば、自我の表現である筈の私小説に、自己と全く乖離したカタチの、ウソはったりで彩られた創作が存在していることである。

 『冬の実』という随筆集がある。又氏には『ふらり道草ー季節の往来ー』というブログもある。第51回日本随筆家協会賞を受賞された立派なその随筆は、戦時中西陣から、京北町に疎開されていた時分の追想の記録であるだろう。鋭い語り口が評判となっているようであり、大変結構なことである。氏は女性がお好きであるらしく、女性ブロガーのコメント欄に、毎度ワレ先にとカキコしている御仁だが、但し多くの詩人の詩や名文を、自文に付け足すことをイソイソと怠らない。通常引用にはそれを為す柱があるだろう。そう書く方の人となりとなるような引用であるべきで、何が何でも強引に己が記事に引用するとは、名随筆家としてどうだろう。恰も、それぞれの記事に阿り、自身が如何に偉いかを誇っているらしい。又は単に知っているぞという「ハッタリ」に過ぎないのではなかろうか。笑止の到りである。

 そもそも旧 日本随筆協会(現 文学交流の広場)と、日本エッセイスト・クラブとは大違いな別組織である。両クラブの歴代受賞者を比較対照しても明らかに理解出来る。旧 日本随筆家協会は新人発掘と言ってはいたが、果たしてどんな新人が発掘されたのだろう。一方日本エッセイストクラブには、私が影響を受けた名随筆が多いのは明らかであり、言うまでもなく優れている。綺羅星の如く存在し続けるこれら名筆の数々には圧倒される。古くは吉田洋一「数学の影絵」、片山廣子「燈火節」、中西梧堂「野鳥と生きて」、森茉莉「父の帽子」、曾宮一念「海辺の熔岩」、中尾佐助「秘境ブータン」、宮本常一「日本の離島」、石井好子「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」、戸井田道三「きものの思想」、坂東三津五郎(8代目)「戯場戯話」、角川源義「雉子の聲」、加古里子「遊びの四季」、中野孝次「ブリューゲルへの道」、高峰秀子「わたしの渡世日記」、「沢村貞子「私の浅草」、藤原正彦「若き数学者のアメリカ」、舟越保武「巨岩と花びら」、志村ふくみ「語りかける花」、岸恵子「ベラルーシの林檎」などなど、今でも多数のこれらの本を手許に置いて愛読しているが、旧 日本随筆家協会で受賞された方の本はたった一冊の本もない。しかれどもこのU・Mさんと言う御仁の『冬の実』の著者は、その受賞が本人にとってよほど嬉しかったのか、近辺の人は知らぬ者はなく、一身に尊敬を集めているから、結構ないいご身分である。

  さて、「無用の用」とは老子・荘子が説いたことだが、我が日本にも深く根ざしていた。ただ日本的意味が加味され、独特な意味を持つことになったようにも思う。よく分かりやすい荘子の言に、「關於『無用之用』,老子也曾提出略似的看法,在老子書中的第十一章就有:『有之以為利,無之以為用』。老子之『無之以為用』,特用車、器、戶牖為例,當其『無』,『無』即『中空』,方能有所用;至於莊子之『無用之用』,則略異其旨,莊子外物篇中云:惠子謂莊子曰:『子言無用』且大,人之所用,不過容足,然若使足之外,掘至黃泉,人則戰慄不得行動,因有『是知有用之物,假無用成功』。一般人但知『有用之用』而不知『無用之用』,故其用有時而窮;人存於世,只知徵逐名利是用,不知名利之傷生折壽,因而『有用』往往成了『無用』。とあるが、難しい。 「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫(な)きなり」 の意味で、単純に理解すれば、言行や条文など書かれたものでなく、自明の理として、不文の正義があるというものである。それは日本人の矜持として現在でも通じており、書かれたモノ以上大切なモノだと言うことである。敢えてご貴殿に捧げておこう。

 何を血迷ったのか、他家へ嫁いだ私の妻の実家を詮索したり、我が周辺を頻りにお調べのようだが、先も長くはないこのご老体に、今更文句をつけても致し方ないことである。何一つ後ろ指を指されるようなことだけはないと断言しておこう。どうぞごゆるりとお調べ賜りたいものである。但しシッカリとね。又この名随筆家とどこかウマが合うのか、gunkanatagoさんというフーテン老人がおられる。花落転合咄というブログを書いていて、通称「徘徊堂」と呼ばれる。京都を中心に徘徊した記事を書いておられるようだが、この方はきっと京都の地の人間ではない。これだけ京都のことを書いても全く知らないと言ってもいいだろう。道草と徘徊という言葉は共に良きコンビにつき、道草間諜としても立派な働きであることだけは褒めておこう。

 モノ書きを自認するんなら、書き人の人格や、現在の心境が映されて当然である。それを奥深く潜め、ありったけの知識をボロ糞に自慢し、この上なき冗漫さが本性とはあ~ぁ情けなや。立命館大学を卒業し、社会人になってから、多分営業分野一本だったのでは。嘘ハッタリは日常茶飯事。何度もお酒に溺れたことだろう。かくして過去の自身を自嘲気味(実は自慢気)に、オコナイという言葉を頻繁に使う。オイオイ冗談じゃないぜ。全国各地にある「オコナイ」と混同されるからと何度かご注意を申し上げたが、アタマが固いのか狡猾なのか一向に止める気配がない。「硯水亭歳時記 Ⅱ」では 「オコナイ」と日本人の宗教観として高月町のオコナイを詳細に説明してある。又能楽発生前夜に関わった要素があるとして、静岡県引佐町寺野にある「寺野のオコナイ」や、静岡県天竜市懐山に連綿と続いている「懐山のオコナイ」だってある。何とこれらは鎌倉時代に起こった古雅な猿楽能の一つではないかとさえ考えられているのだ。お願いだから、酒でデレスケになった己の過去のオコナイと一緒にして戴きたくない大事だ。自分の正体に向き合おうともせず、美辞麗句で古雅風な文体をあやつり、お他人様の詩句を平気で気軽に借用し、そうやって幾ら着飾ってもお里は知れている。ブログを書くしかない御仁だから、ブログを止めなさいとは言わないが、今後少なくもいい老後を楽しんで戴きたいだけである。お他人様のコメント欄を利用し、あからさまに誹謗中傷することは、その方も巻き込み、これぞ「アラシ」というべきものである。太宰治のように自身と向き合うこともなく、極めて可哀相な方だ。これ以上二人のお嬢様を哀しませてはいけない。私は三が日京都の妻の実家で過ごす。どうぞおいで戴ければ、一献酌み交わそうではないか。もっとも貴殿はご自分のブログを、このような記事で汚すことは決してないがね。

 大震災があっても、大津波があっても、平気な記事ばっかりで情けない。美しい記事は立派なもんだが、高浜原発など、万一事故でもあったら無縁ではない筈である。若狭湾はなりを潜めているだけに、専門家はその危機を大いに予知しているのだから、日本国中、自然災害及び人的災害の原発事故と無縁ではなかろう。子孫に負の遺産を残したくないご貴殿も無縁ではない筈である。東日本大震災に全く興味もないブログは我がブログの関知するところではない。私の今年の言葉は「哀」であり、「祈」である。どんなに涙を流したことだろう。長いリアス式海岸線をトボトボと歩き、祈って歩いたことだろう。貴殿のような御仁ではなく、復興の緒についたばかりの北の民人と共に生きていようと思う。曲がりくねり途中で途切れた三陸鉄道の線路が真っ直ぐに延びて復活するまでは。

 


   パリのKさんへ

2011年08月25日 | 季節の移ろいの中で

咲き始めた秋海棠の花

 

 

   パリのKさんへ

 

 

----- Original Message -----

送信者 : ""

宛先 : "K・U"

 送信日時 : 2008227 23:04

件名 : 今晩和!!

 

 

    Kさま

 

 お久し振りです。ご無沙汰を心から深くお詫びを申し上げます。パリでは既に櫻が咲いているようですね。レ・アール広場やリュクサンブルグ宮殿や12区の高架橋跡の公園辺りは今が見頃なのでしょう。街路樹にもなっていますから、たっぷりと櫻を味わえることでしょう。クロッカスや水仙は既に終わったのでしょうか。秋から夏が来るような、そんな可笑しい気象状況ではないのでしょう!今回行った京都では三日いて二度の雪に出逢いました。まだまだ京都は冬の真最中のようです。

 

 前回のメールでKさんの櫻への思いを伺って大変嬉しく思いました。私と、お父上さま実は櫻でつながっているんですよ。京北町で櫻山の苗場がありそうで、まだ未交渉なのですが、その時になったら是非先生にご協力を戴きたいのです。そんな理由がありまして、先生とはまだ一度もお逢いしていないのですが、全く初対面の感じがしていないのです。ブログを通じてやりっこしている所為だけではなさそうです。月に一、二度お送り申し上げているお酒の話でもウマが合いそうなのです。私の好みの酒をご存知で、それを先生が又快くご飲酒されるからでありまして、非常に有難いことだと思っております。

 

 さて絵のお話を致しましょう。Kさんはハイム・スーチンという画家をご存知でしょうか。私にはゴッホは既に古くなっている感じがするのですが、ゴーギャンの方がまだましなような気がしています。可笑しいでしょうか。中でも汚し屋と言われたスーチンが特に好きで、あのコレクターはバーンズが眼をつけて、売れない時期に彼のアトリエに来て殆ど買い漁っていったとか。モディリアーニとも深い親交があったようで、モディリアーニは何くれとなく彼をかばったようです。同じユダヤ人だったからでしたが。更に最近ではニューヨークで活躍した黒人のジャン・ミッシェル・バスキスが好きです。彼の場合特に場末の壁面画家からのスタートでしたから驚愕に値します。彼の絵に純粋無垢な命が感じられ、最近特段に好きになった画家です。Kさんがご存知の通り、確かにニューヨークはSOHOだけではありません。でも未だ未だ怖い地区がないわけではありません。スーチンとバスキス、この二人の画家の接点は実はレンブラントです。模写したわけではなく、レンブラントの絵を彼らなりに租借して描いたという意味です。バスキスは特にNYのダウンタウンで生まれ育ち、そこが仕事場でした。若干29歳で亡くなってしまうのですが、今を思えば惜しい人を亡くしたものだと残念でなりません。そこでこれからの美術界はどうなって行くのか、私のような一ファンではさっぱり分かりませんが、いつも私の場合直ぐ真新しい建築物を考えるのです。新しい構造物の中に、あの絵この絵と置いてみたらどうなるのか、絵に対する殆どの発想はそこから出て来ているのです。何分にも私は建築学部出身ですから、ル・コルビジェのどの建物に、この絵が似合うのかとか、そうした観点から物事を考えたり観たりすることが多いようです。

 

 Kさんが予想された通り、NYは決して甘いところではありません。競争が苛烈で、その分,強烈な刺激も多いのです。従ってこのようなお話をさせて戴きながら、私は間違っていないだろうかと常に考えているのです。でも根がこんな性分ですからつい口出しをしてしまって!そして私はKさんやご主人さまが、よ~~し挑戦してみよう!当たって砕けろとする意欲が沸いて出て来るのを充分に待ちたいと想っています。私の立場はKさんたちのホンの少々脇からお手伝いをするだけですから。安い宿や渡航費の工面や、そんな雑多なことしか出来ません。絵のご指導も出来ませんし、するつもりもありません。但し美術談義は大好きですが。だから私から強引にお誘いするわけには行かないのです。機が熟して、愈々という時に、私の力が発揮されることでしょう。こちらの受け入れ態勢の規模はまだ申し上げられませんが、既に出来ています。でも焦ることはありませんよ。何故かと言えば、Kさんの絵の性質から言って、果たしてNYは正解なのかと随分煩悶するのです。日本人の美意識を大切にされるのなら、パリで充分なのかも知れません。でも万一Kさんの絵が突出して激烈にNYを求めているのなら、少しだけお手伝いが出来ようかというものです。

 

 さて先般御座いましたご主人さまの個展はいかがだったでしょうか。結果のニュースを楽しみにして待っているのですが、彼からその後ご連絡がありませんので、Kさんに少々だけお尋ねしてみたかったのです。個々別々にお付き合い願いたいのが本音なのですが、ご主人は純粋な方です。個性は既に構築されつつあります。でも固めるのはまだ早いかも知れません。渾沌の中にだけ新しい進路があるものです。あの渾沌はどこから来て我は何者かどこへ行こうとしているのか(ゴーギャン風で済みません!)、彼の方向性のない得体の知れないパワーは多分NY向きでしょう。KさんはKさんで存分な素質を持っております。でも或いは本当の自分に出会うためには何かどこかを削ぎ落とさなければならないかも知れませんね。パリでその作業は充分に出来るかどうかなぁと。Kさんには余りにも和の素地が存分にありますから。でも逆にそれを利用する手もないわけではないのです。パリにある美術館で私が一番通ったのはマルモッタン美術館でした。住宅街にある小さな美術館です。ここでは印象派の画家たちが築いた和的な美を逆に租借して、尚真新しく構築すること場になることだって可能かも知れないからです。パリなどの海外にいて、徹頭徹尾「和」を追求する方法も大いに有りでしょう。嘗て印象派の画家たちが日本の浮世絵に憧れました。逆に近代絵画でも和を試みることは最近実に多くあって大切なことです。Kさんのご活躍を心から祈念しています。お二人にとって、バーンズのような存在になれたら嬉しいのですが。 敬具      R

 

  MさまKさまご夫妻へ

 

 お返事が大変遅れて申し訳御座いません。ちょっとした事故でした。暮れの時もそうでしたが、何故かKさまご夫妻のこととなると、トンだ邪魔が入るのは何故なんだろうと、ついつい考え込んでしまいます。きっと私の不徳の致すところなのでしょう。さて先般ご主人さまからとKさんからのメールをほぼ同時に頂戴し、実は大変感銘を受けました。お二人ともとても純粋な方だなぁという深く強い印象を持ちました。何とかしてお手伝いをしなければと、改めましてもう一度決意したところです。ただこれから申し上げる内情と今後のことを少々申し上げておかなければなりません。遅くに失した感がありますが、出来るだけ丁重にお話申し上げたいと存じます。お二人には個別にお付き合い願いたいところが本音なのですが、今回ばかりはほぼ同じことを申し上げることになりますので、お二人の連名でメールを出させて戴くことを予めお許し下さりませ。

 

 実はお父上さまとは未だ一度もお逢いしておりません。でも親しいつもりでおりますが、先生は東京に来て説明をするからとも言って戴いているのですけれど、本当のことを申し上げれば、Kさんとご主人さまのメールを、Kさんのご父君にご送付し読んで戴いておりました。これ自体何か不純な動機をお感じになられるかと存じます。お叱りを覚悟の上で御座いました。でも私は父君とのお付き合いが中心でありましたし、お父上さまのご心情も伺いたかったのは紛れもない事実です。貴女方ご夫妻を無視しようと思えば、こんなことは決してしないでしょう。私は私の所為にされたくないだけのズルイ考えなのかも知れませんが、でも飽くまでも自分で選んだ道と自らが断言して戴きたいだけでした。無論ご父君のお返事はきっとKさんが読まれたら大いに感涙なされることでしょう。どんなに娘夫婦、特に末妹のことです。深く愛していらっしゃる心情の親心を痛いほど伺って、私はどれほど嬉しかったことでしょう。この方々は幸福だなぁと思いました。

 

 そこで幾つかのハードルが御座いますので、そこからお話申し上げます。先ず現在の私はどなたにもフリーで逢える立場にはないのです。多くの社員を預かっているからでもありますが、巨額資金を預かっている唯一の身分でもあります。都内にいる時は自社警備担当のセキュリティが常時張り付いている身です。容易に逢うことは不可能です。そして亡き主人は一度ネットストーカーによる甚大な被害を受けておりますから、ネット上だけでの判断は決して致しません。これは私どものメーンバンクであるスイスの銀行のPICTET社の意向でもあります。ならぬものはならないものです。ご父君とのことも例外ではありません。今までネットでお付き合いをした方でも、ただ一人としてお逢いしたことは全くないのです。ところが実際のことを進めるに至っては、実際にお逢いするしかありませぬ。手触りや確かな感触や、お互いに様々な部分をそれでクリアすべきです。そういう意味では、先日メールにてご送付戴いた絵を購入することなどとは手続き上全くあり得ません。実際に観させて戴いてから決めるべきです。それから正確な判断を為すべきでありましょう。その方がKさまご夫妻に取りましても気が晴れてよろしいのではないでしょうか。

 

 でもそうかと言って、私は逃げているわけではないのです。私は今後のことでの可能性についてお話申し上げる心積もりで、これを書いているのですから。今年○月○○日をもって、私は満○○歳になります。当社は四十五歳で定年制を敷いています。人生二度説が亡き主人の口癖で決定していたのです。私は退職金を受け取って第二の人生を歩む第一歩とすべく専ら準備中であります。無論私個人の資産もないわけではありません。平均家賃○○万円の部屋を○○○部屋抱えていますし、広尾の実家の跡継ぎでもあります。建築に掛かった借金がまだ若干残っておりますが、後二年で完済です。広尾の実家の生前贈与の問題もあります。それとね、普通の人には分からないでしょうけど、多い年収と言ってもただひたすら税金で持って行かれるだけです。経費で落ちるようにして何かに使う算段を考えるのがごく普通で当然のことです。さりとて女性問題も一切ありませんし、たった一円の無駄遣いも好きじゃありません。そんな無頼なことは殆ど無縁で大嫌いです。酒に溺れるような人間でもありません。海外には飽きるほど行きました。後の人生は亡き主人の夢の続きを追い掛けたり、新たな勉強を始めたり、父の老後の面倒を見たり、妻の勉強を手伝ったり、妻と子供のために、私が健康体でいたいだけです。更に私の夢は日本の山村や漁村など僻地の活性化や、そこに民間の医療施設を充実させ運営することや、櫻の植樹を全国にして行くことです。今はひたすら少ないながらもただ預貯金をしている最中ですが、私の小遣いは月にたったの5万円の現金だけです。ご理解出来ますでしょうか。

 

 と、あれこれアトランダムに現状をお話申し上げましたが、この中にどこかヒントのような可能性を感じて戴けましたでしょうか。そうなんです。以前会社で公募展を開いておりました。今度は櫻の財団自らで公募展をやるかも知れませんが、未だ決定ではありません。まだ何も稼動していないからです。オフィスがあって、その中でメーンの土地収用の交渉だけさせているからです。でも財団では既に絵画を少しずつ購入しています。それは以前からのお付き合いの中で、ジャン・コクトーとか、バスキスとか、スーチンとか、三岸節子だとか、中川一政とか、高山辰夫とか、堀研など数人の画家の絵ですが、実際に公募をするまでには至っておりません。本体が稼動していないからで、わき道を先にやることはあり得ないからなのです。購入をしたのは主人の時代からのお付き合いがあった画商からで、主人の絵と一緒にそれらの絵を飾れればいいなと思っているのです。でも必ずやることになるでしょう。時期は未定ですが。従って最悪会社や財団がやらなくても、私個人だけでもお二人のことを充分にしてやれるという可能性だけは申し上げておきましょう。

 

 先日NY支店で部屋探しなどをして戴きました。ただ社員が理解していなかったのです。私の説明が悪かった所為でどこかの得体の知れない人を保護するように受け取ったのかも知れません(失礼!)。狭いオンボロアパート数件でした。それに飛行機運賃を出してあげればいいんじゃないという勝手な憶測があったとも思われます。凡そ真剣味に大きく欠けておりました。アテにしたのがいけなかったと私なりに反省すること頻りです。先ず理想を申し上げましょう。自前の住居でなくてもいいと存じます。そこをリフォームするだけで、住まいの部分も充分に確保が出来ようかと存じます。広いスペースは画布や材料を置く必要があるのですから。お二人分だったら更に大きなスペースが必要となるでしょう。その上資金はお二人で最低でも年間二千万円は掛かるでしょう。無論画材やちょっとした個展の費用も含めてです。実質生活費をお二人で五百万円と踏んでです。自殺行為で行くのは構いませんが、ただ行っただけでは何のためだったのか分からなくなるだけです。でも絵の運命には自己犠牲は必須のものですが。畳の広さで言えば最低30畳分は必要ではないかと想像されます。そんな環境はあるかないかで申し上げれば必ずあります。それは心配は要りません。でもこれは私なりの考えです。異論がきっとおありでしょう。

 

 さてそのような環境を作って行くのに何が今後必要かと申しますと、先ず私が自由の身になることです。少なくとも退職をする五月いっぱいは無理でしょう。足の怪我はその頃になったら多分全快するように思われます。最も優先したいことは、その後のことです。しっかりと手順を踏みたいと思っています。つまり先ずご父君にお逢いすることから始めます。それから足が治り次第、私がパリへ出来るだけ早く行くことです。パリでKさんご夫妻に逢う必要があるでしょう。七月の初旬は実子の誕生がありますから、それだけは断じて避けますが、そんな形で先ずメールやネットをどこかに置いといて、実質的お付き合いを優先することです。少なくともそのぐらいのスローさは私には絶対に必要なことです。どのようなことでも失敗は決してしたくないのです。時間の無駄も一切作りたくはありません。そしてそれからどのような形で進めるべきか、逢ってからよく相談しましょう。かくのごとく申し上げると人参をぶら下げられたウマのような思いをなされるかも知れません。でも今日私は実情を正直に申し上げました。現状で申し上げられるのはただこれだけです。万一ご不満がありましたら、ご遠慮なくメールして下さいね。

 

 財団や私がもし収集をするとしたら、やはり櫻の絵が中心でしょう。今まで観た櫻の絵はすべてが大いに気に喰わないし不満であります。今までたった一つとしていい櫻の絵と出逢っておりません。日本画・洋画すべてに対してです。中島千波さんの櫻の絵はどんな絵も絵になっていないと信じてます。リトグラフ程度の日本画でしょう。ましてきれいなだけなら決して我々は購入しないでしょう。櫻を分かっていないということとだからです。ただ美しく描ければいいのではありません。櫻の持つ生命力や、日本人の原型である稲魂さまへの鎮魂の思いや沸き上がる生命のパッションが絶対に底辺には必要だと思うからです。そんな意味から言えば、堀研さんは凄いと初めて感じた次第でした。三岸節子も大いに興味を持っています。彼女の最晩年のご自宅での櫻の絵は最高だと評価しています。横山大観の夜櫻はそこそこの評価です。後藤純男さんの櫻は緻密過ぎて全く好きではありません。寧ろ高山辰夫さんの方が櫻を理解しているように思われます。Kさん!だからこそ希望があるのではありませんか。従ってKさんの描く櫻はこれから咲く櫻なのですから。あの花に暖かい血液や人間臭さの筋が一本ズド~~~ンと加わったら、どこででも直ぐ買い上げとなることでしょう。いいや、皆さんにも次第に高く評価されて来るでしょうし、私はその可能性は高いと感じています。デザインでしたらいいのですが、絵画ですから、やはり一度汚し屋のスーチンの現代性を感じて戴きたい思いでいっぱいです。花村萬月の小説世界であるかのようなご主人のMさんの絵画は或る方向付けが出来ています。後はがむしゃらに自己を描き続けることです。その中から自分で自分を磨いて行ける人です。もっともこれらのお二人の絵画のことは実際に観てみないと正直なところ何も分かりませんし、実際にKさんの絵も最高の絵になっているかも知れません。

 

 今日はこのぐらいにしておきましょう!パリはそろそろ暖かな朝を迎えた頃でしょう。今日もお元気で、そしてお二人とも、ご機嫌よう! MRより

 

                                                   

 

我が家の満開のルドペキア

 

 最初はこんな風に何度もメールし合ったりして濃密にお付き合いをさせて戴きまして、貴女たちご夫婦に、一般的には「えっ!」と言われるほどの多額の経済的援助のお約束を致しました。これは事実です。セザンヌたち多くの印象派の画家たちに援助したピサロのような気分ではありません。私は実存するオトコとして誠心誠意まともでした。そして今年の2月、私の父から最後の生前贈与を受け、その税金を何とか納めてから、漸く全金額が確定したものです。ですから長い長い時間を費やしてしまいました。スッカリご迷惑をお掛け致しましたネ。無論法人ではなく、私個人の分からです。まだこのお約束は生きているのですが、残念ながら、貴女がたのお父上さまには、驚くほどの衝撃を受けてしまいまして、今更どうしようかと実は迷っております。何も知らない方々のブログ欄に、グズグズと愚痴り始めました。貴女さまの知らない女性たちのブログのコメント欄へです。そこで激怒した私は貴女の父上へのお酒の贈答をプツリと止めてしまいました。毎月一度か二度二年間贈り続け、全額で1,320,000円ぐらいです。たいしたことがない金額ですが、このご老人には可笑しな癖がありまして、自分のブログを一切汚すことがなく、お他人さまのブログのコメント欄を利用し、私を攻撃するという最も卑劣な癖の持ち主なのです。まだ何も確定していない時分にです。メールなどで直接言わないで、そうした卑劣な行為は私を激怒させました。その後どんな風に進んでいますかとか、そちらの実情はどうでしょうかとか、直接一切メールして来ないんですもの。これってどこか可笑しくないですか。それで事情を知る人に相手にされないとなったら、今度はそこらじゅうを「徘徊」し、フーテンして歩くご老人とタッグを組み、私を糾弾するカキコするのです。貴女方と、濃密に、温厚に、長い時間を掛けて、ようよう結論を出したというのに、「遅い」だの、「フィクション」だの、貴女方知らないところでは言いたい放題で、我侭気侭の限りを尽くしました。私から日本各地の銘酒が届かなかった原因は何だったか本人は自分を自省してみることは全くありません。余程鈍感か阿呆なのでしょう。或いはご自身を立派な随筆家だと勘違いされているのかも。従ってこのご老人を通じては一切何もやらぬ決意になったのです。そもそも「日本随筆家協会賞」を取った方ですから、それなりの方だと思っていましたが、やはりあの協会は胡散臭い協会で、新人を発掘するとか言っていても、誰も育っておりません。殆どの方は「日本エッセシト・クラブ賞」と勘違いしているのではないでしょうか。日本エッセシト・クラブ賞は日本随筆家協会とは桁違いの賞です。片山廣子や森茉莉がおり、多くの著名な文人墨客ばかりです。曾宮一念さんも賞を得ておりますが、今や曾宮一念さんと言ってもピンと来る人がいないのかも知れません。言わば日本エッセシト・クラブ賞を戴いた方々は名誉市民クラスの賞なのです。お父上さまの駄文は、要するに体の悪い私小説のようなインチキな書き物なのです。自分の人生のシンシビリティ(真実感)がないじゃありませんか。お他人さまのコメント欄に、イケシャ~シャ~として過去の偉大な詩人の詩句を引用する癖も我慢なりません。特に坂村眞民さんの引用には反吐が出ます。自宅を「たんぽぽ堂」と名付け、死の直前まで真夜中三時に起き、地面に耳を当て、清らかな空気を吸い、そんな高潔な方の詩句をよくもまぁ簡単に引用し、知ったかぶりをするのか、理解出来ません。そこで我が得意とする四柱推命や易学・気学を駆使し、あの方を鑑定すると、繊細で気の弱いハッタリ屋だと断言したのです。明るい性格でもありリーダーシップもあったでしょう。戦後某私立大学を出てサラリーマンとなり、恐らくは営業マンとしてならしたことでしょう。夜な夜な飲み屋でダボラ話をして、でも家は建てたんだが魂入らずで、貴女たち姉妹はどうだったのでしょう。家で大人しくしている方ではないので、殆ど構って貰えなかったのではないでしょうか。本人から教えて貰っていないのに、昭和13年生まれの人で、月日まで、私には分かっています。私が最も激怒したのはお他人さまのブログのコメント欄だけを利用することにあります。ただこの一点です。何故直接言わないのか、全く理解に苦しみます。自分が出来なかったことを、贖罪のつもりでコトを為し、如何にも正義感ぶっている半分痴呆症の酒飲みなだけです。こんな方は私は相手に致しません。

 私たちは花背のスキー場を苗場として、是非欲しかったのですが、美山荘のご主人と相談したり、京北町は興味がありました。そこに付け込んできたのが、貴女方の父親です。京北町に、虫食い状態になった利用されていないゴルフ場があると。私はその話に飛びつきました、でもよくよく調べてみると、何と京都の公的土地になっていたのです。バブルの時は魚屋の小母ちゃんでも八百屋の小父ちゃんでも土地ブローカーでした。貴女方の父親はこうしてバブルがはじけても、嘘八百のブローカーになろうとしていたのです。この点でもこの御仁の人格を疑いました。もういい加減にしてくれってね。その上、妻の実家を探し廻ったり、我が本名に該当する会社を嗅ぎ回ったり、残念ながらいずれも外れておりますが、何の魂胆があるのでしょうネ。私はこの老人から頂戴をする塵も垢も微塵もありませぬ。この性悪の数々の所業は奥さまが何処までご存知なのでしょう。懲りない御仁は告発するしかないのでしょうか。或いはご友人(徘徊堂)の大好きな解放か同盟の方々に依頼するしかないのでしょうか。皆さんにはどう思われますか。

 ただ貴女方には何の罪咎は御座いません。その後変更になったのはニューヨークは割りに短期間滞在とし、サンタフェには長く滞在し制作して戴くことだけです。無論円だてで実行しますから、ユーロ換金にせよドル換金にせよ、貴女方の自由です。当分円高が続きますから、安心でしょう。私はアメリカのグリーンカードを持っていますから、サンタフェは自宅なんです。ニューヨークに劣らない数の芸術家がたくさんおります。かのオキーフだって、この地を愛してやまなかったのです。11月初旬に久し振りにパリに行きます。その時、お逢い致しましょうネ。小切手持参して参る所存です。ただ貴女の父親には、断じて直接連絡取る気がありません。ですからこうした手段を使わせて戴きました。御免なさい!どうぞご検討下さりましネ。

 

今年の紫陽花を刈り取り致しました そしたら又芽が?


なでしこの花

2011年08月24日 | 季節の移ろいの中で

美しきやまとなでしこの花

 

 

なでしこの花

 

 

日本女性の美の象徴として、

今や「なでしこの花」が大ブームなようです。

多年草の愛らしい花で、万葉集に26首も出て参ります。

どうやら恋するなでしこの花が多いようです。

 

  なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

     (石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日将無 

            0408 家持が坂之上郎女に贈りし歌)

 

  秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

     (秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞

     0464  家持が亡き妻へ贈る 妹=妻が植えたなでしこが咲いたよ)

 

  我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

     (吾屋外尓 蒔之瞿麥 何時毛 花尓咲奈武 名蘇經乍見武

      1448  家持が坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈った歌 

       なでしこの花が咲いたら貴女だと思いましょう)

 

  我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも

     (吾屋前之 瞿麥乃花 盛有 手折而一目 令見兒毛我母

      1494 家持がなでしこが咲いたら、誰に見せる妹がいるだろうか)

 

  なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも

     (瞿麥者 咲而落去常 人者雖言 吾標之野乃 花尓有目八方

     1510 家持作 花は咲いて散ったが、貴女は心変わりは

     しないでしょうね 紀女郎へ贈った歌)

 

  萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花

     (芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花

     1538  山上憶良の秋の歌 そのままの意)

 

  射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花

               ふさ手折り我れは持ちて行く寧楽人の為

     (1549)

 

    高円の秋野の上のなでしこの花うら若み人のかざししなでしこの花

     (1610    丹生女王が太宰師大伴卿~家持~に贈れる歌一首)

 

  朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも

     (毎朝 吾見屋戸乃 瞿麦之 花尓毛君波 有許世奴香裳

      1616 笠郎女が家持へ贈った歌 

       我が庭のなでしこを家持さま見ていてほしいものです)

 

   見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね

     (見渡者 向野邊乃 石竹之 落巻惜毛 雨莫零行年

     1970 作者不詳 野のなでしこの花よ 雨で散ってしまわないでね)

 

   野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも

     (野邊見者 瞿麦之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母

     1972 作者不詳 なでしこの花が咲いたよ 私の待っている秋が近くに)

 

   隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む

     (隠耳 戀者苦 瞿麦之 花尓開出与 朝旦将見

     1992 作者不詳 引籠もり恋しく思うのは苦しいのだ

      なでしこの花を身近に見るにつけ)

 

  あをによし奈良を来離れ天離る鄙にはあれど我が背子を見つつしをれば思ひ遣る事もありしを大君の命かしこみ食国の事執り持ちて若草の脚帯手装り群鳥の朝立ち去なば後れたる吾や悲しき旅に行く君かも恋ひむ思ふそら安くあらねば嘆かくを止めもかねて見渡せば卯の花山のほととぎすねのみし泣かゆ朝霧の乱るる心言に出でていはばゆゆしみ礪波山手向の神に幣奉り吾乞ひ祈まくはしけやし君が正香を眞幸くもありたもとほり月たたば時もかはさずなでしこが花の盛りに相見しめとぞ

     (4008)

 

   うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

     (宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈

                                     安佐奈々々見牟

      4010  大伴池主が大伴家持を恋して贈り歌ったなでしこの花)

 

   一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ

     (比登母等能 奈泥之故宇恵之 曽能許己呂

                          多礼尓見世牟等 於母比曽米家牟

      4070 家持は国分寺の僧・清見との宴席で歌ったなでしこの歌)

 

  大君の遠の朝廷と任きたまふ官のまにまみ雪降る....(長歌)

  (於保支見能 等保能美可等々 末支太末不 官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来 安良多末能 等之乃五年 之吉多倍乃 手枕末可受 比毛等可須 末呂宿乎須礼波 移夫勢美等 情奈具左尓 奈泥之故乎 屋戸尓末枳於保之 夏能々 佐由利比伎宇恵天 開花乎 移弖見流其等尓 那泥之古我 曽乃波奈豆末尓 左由理花 由利母安波無等 奈具佐無流 許己呂之奈久波 安末射可流 比奈尓一日毛 安流部久母安礼也

   大君(おおきみ)の遠(とお)の朝廷(みかど)に遣(つか)わされた職務(しょくむ)により、雪(ゆき)の降る越(こし)の国に下って来て、5年の間、手枕(てまくら)をすることもなく、紐(ひも)を解いて着替えもせずに寝ると、気持ちが落ち着かないので、気持ちをなぐさめるために庭になでしこを植えて、夏の野の百合(ゆり)を引き植えて、咲く花を見るたびに、なでしこのような妻に後(のち)に逢えると、気をまぎらわすようなことをしないと、とても一日でも、こんな田舎に居られないものですよ

    4113 家持作 天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年(749)、5月26日に詠んだ歌で、奈良の都に残してきた奥様は、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)。

 

  なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも

     (奈泥之故我 花見流其等尓 乎登女良我

                         恵末比能尓保比 於母保由流可母

     4114 越中国守の家持が天平感宝1年(749)閏5月26日に詠んだ歌。ここで詠んでいる「娘子(をとめ)」とは、奈良の都に残した奥様の「坂上大嬢」のこと。

 

  なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも

   (4231 遊行女婦蒲生娘子の一首)

 

  雪の嶋巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに

   (4232  ここに諸人 酒酣にして 夜更け鶏鳴く 前歌とともに艶っぽい)

 

   我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず

     (和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖

                         安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受

     4442 大原真人今城(おおはらのまひといまき)が家持家で歌った歌)

 

   ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背

     (比佐可多能 安米波布里之久 奈弖之故我

                         伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢

     4443 家持作 天平勝宝7年(755)5月9日に大伴家で詠まれた宴歌

     咲いたばかりのなでしこは、貴女(女官)のようです)

 

  我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け

     (和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟

                            由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家

      4446 丹比国人が橘諸兄宅宴席で歌う 

                   何でもあげるからなでしこよ 散らないで)

 

  賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに

     (麻比之都々 伎美我於保世流 奈弖之故我

                          波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓

     4447 橘諸兄返歌 大切に育てたなでしこのことだけ思う

                               あなたではありませんね)

 

  なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも

     (奈弖之故我 波奈等里母知弖 宇都良々々々

                         美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母

     4449 船王作 なでしこを手に取るようにじかにお逢いしたい 

                          君とは橘奈良麻呂のこと)

 

  我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも

     (和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母

                        伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母

     4450 家持作 なでしこは散ることはない 

                      初花のように益々咲く 橘奈良麻呂へ)

 

  うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも

     (宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我

                        波奈尓奈蘇倍弖 美礼杼安可奴香母

     4451 家持作 ご立派でお美しい橘奈良麻呂様は

                            なでしこのように見飽きませぬ)

 

 「なでしこの花」の歌の中で、私が最も好きな歌は家持22歳の時の歌で、家持の幼い内縁の妻が子供を残して死んでしまう。その妹(この時は内縁の妻)が植えて逝ってくれた「なでしこの花が咲いたよ」という歌。若き家持の素直な心情が溢れ出て大好きである。私の代わりに「なでしこの花」が妻の生命の再生を祈るかのようでもある。(秋さらば 見つつ偲(しの)へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも~秋になったら一緒に見ましょうねといって逝ってしまった貴女よ、なでしこの花のように恋しい貴女よ、なでしこの花が咲いたよ~巻三~0464 天平11年(739)旧暦6月のことで、秋も来ないのに、貴女の思いか強いのか「なでしこの花」が早く咲いたねという優しさと悲しさと、驚きの心情も交錯して詠まれている)

 


   被災地で,HANABI!!

2011年08月21日 | 季節の移ろいの中で

被災地の夜空にあがったHANABI 海面に怪しく光る花火の蔭 御霊か

 

 

被災地にあがったHANABI!!

 

  春まだき四月、遅い花見をしていた時、真夏に花火をやろうという御仁がいた。正直言って、そんな場合じゃないだろうと思っていたが、「ライトアップ ニッポン」(プロジェクト名は「LIGHT UP NIPPON」)と呼ばれるHPを立ち上げ、どうやら本気らしい。発起人は高田佳岳さんで、毎日19時に更新され、バーチャル花火があがっていた。坂本龍一アレンジの「赤とんぼ」の曲に合わせ、HPであがる花火はメランコリックで、豊かさと、安らかさを醸し出しながら映ろいでくれていた。そこで私は被災した我が塾生の人数分(一人につき一万円)だけ、ささやかな募金をした。七月末、募金は6千万円を超え、被災地10箇所で、2万発の花火があげられる夢が実現しそうと。被災した子を誘い、地元で花火を見ないかと聴いてみた。そしたら最初は誰も行かないと言っていたのに、全部ではないが、学校時代の同級生に逢えるかもしれないと言って、五人だけ行くと言う。私は我が職員五人と子供たち五人を連れ、この11日から16日まで現地で過ごしていた。HANABIが開催されるのは11日夜、19時に一斉に各地で打ち上げられるという。開催地は、岩手県宮古市田老地区、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市三陸町、宮城県気仙沼市、多賀城市、福島県南相馬市、会津美里町、いわき市の全10ヶ所。合計で2万発の花火。一箇所にしたら、ホンの少々だが、被災者が観るのは特別な感慨があったことだろう。子供たちが思い思いのまま、散り散りになるのを避けたかったので、何とか説得し、宿を松島に取り、一箇所で観ることに。そしてその夜気仙沼に電車で移動し海辺の町で、散発的に打ち上げられる花火を観た。観客は殆どが生き残った方々で、そこでどんなに多くの涙を見たことだろう。「しおらしい東北魂」に再び出逢ったのだった。真昼、松島湾から見える海は非情なほど美しかった。我が子供たちは海は怖いと言い、遊覧船に乗って、鴎に餌遣りなどして遊ぼうともせず、まして桂島に渡って海水浴もしないと口々に言う。中高生ではトラウマになって当たり前だとも感じられた。隅田川は無論のこと、長岡や横手や、数多くの花火の名所を観てきたが、今回のような慰霊と鎮魂の思いの丈を感じたことはなかった。短時間で花火のお祭りは空しく終了したが、観ていた方々は子供たちも含めて至極満足した様子である。そして翌12日から職員の引率によって、それぞれの故郷に帰ったが、帰りの新幹線では誰も口を開くものはいなかった。久し振りに逢えた友人・知人や親戚の方々とはほぼ無言の会話であったようでもある。改めてこのプロジェクトを敢行された方々に深く敬意を表したい。

 

ささやかだが 深い祈りの花火たちよ あはれ

 

  所々で、岩手県特有の獅子踊りが多数見られた。鬼剣舞や念仏剣舞や、遠野の獅子踊りなど。私は早池峰山の麓・大償や岳の山伏神楽が見たかったのだが、早池峰で開かれる山伏神楽の本祭りで忙しいのだろう。あのテンポの速い囃子方の楽曲や、最も重いとされる権現舞など、でもそれは観光で行ったわけではないのだから、無理というものだろう。世界遺産になったばかりの平泉にも行った。だが宿泊客が多く、他のホテルと断トツに違っていた。松島を始め、殆どのホテルでは夏休みというのに例年の七割減という惨状である。私たちは素晴らしい旅館に、格安値段で泊まれたが、風評被害というのか全く酷いものがある。職員一人につき、一人一人の子供たちがそれぞれの故郷に帰った。私はレンタカーに乗り、なるべく多くの地域を廻り、被災者のその後を見詰めて歩いた。南三陸町で、私の手作り絵本(今回は急遽8冊の絵本を作った)を読み聞かせしてくれたことに感謝を言われたが、お元気そうな方々ばかりで、しおらしく東北魂を見た思いがして胸が詰まったものである。又、初盆には庭先に、杉の木を採ってきて、上の枝だけを残し、そこに盆提灯をつける習慣があった。よく観ると。高さ10メートルもある高提灯で、そこから白い紐が伸び、お仏壇まで届いていた。一種の神の依り代なのだろう。神島の「ナヌカビ」にも高提灯が出てくるのをしみじみと思い起こしていた。そうして、普段イクメンで忙しい私は花巻温泉の逆にある鉛温泉で過ごしたが、最後はそこに集結し、全員で一泊。みんなの思い出話や、友人たちや知人たちの話をぽつりぽつりと聞かせて戴いた。今どきの中高生は立派な若者たちである。夜、線香花火だけを庭で楽しむ。線香花火の焔がポトリと落ち、それが彼らとって一区切りついたことだろうか。無口だったが、全員元気いっぱい。翌16日に新幹線にて帰京する。

 

最後の花火 鉛温泉にて 線香花火大会

 

  自宅に帰ると、杏も大風も抱きついてきた。そう言えばこんなに長い時間を留守にしたことがなかったかもと自省しながら、妻が品川のマンションで大変なことになっていると。翌朝マンションに一緒に行くと、窓際にグリーンカーテンとして植えたゴーヤや朝顔。全長15メートルほど。ゴーヤは網目に添って整然と成長していたが、朝顔はどこにでも蔓を伸ばすようで、妻が言っていたのはこの朝顔のほう。何と彼女の机の脇にある網戸を数ミリはみ出し紫紺の花を咲かせたと言うのである。よくよく観ると、驚くことに網戸のたった2ミリぐらいな隙間から朝顔の蔓が進入して室内で花をつけていた。可哀相で切れないし、窓は開けっ放しにしていたと。妻は加賀女のような心境だったのだろうか。それでももしゲリラ豪雨があったら、どうするの?と諌めると、貴方が帰ったら採ってくれると思っていたからと平然と言う。いとおしい一言。

 

妻の品川の勉強室 網戸を潜り抜けて咲いた朝顔の花

 

  <花火小史> 

 イギリスの戴冠式の時だって、ベトナムでアメリカの傀儡政権が打倒された時だって、日本人製作の花火が使われた。凄いことだと思うが、日本に観賞用の花火が持ち込まれたのはポルトガル人によってで、慶長二年(1597)に我が国の朝廷に献上されてからである。元々花火は戦争用の一手段で、狼煙(のろし)などがそのいい例だろう。一発目でどうしろとか、二発目があがったら、戦闘開始だとか、花火は戦争ととも歴史に刻まれてきた。古代我が国では火薬花火ではなく、山上から木の炎を点し狼煙としたものであったが、ヨーロッパで火薬が発見され、大量に生産されると、劇的に変化していったものだ。更に慶長五年(1602)、今度はオランダ人から朝廷へ花火が献上されると、観賞用の花火が日本でも作られるようになっていった。それ以前、織田信長は天正時代に狼煙として火薬を使用した形跡があるが、徳川幕府が江戸に出来、平和な国家として存立することになったのが慶長8年(1605)以降のことで、その十年後家康が息子・秀忠に見せるために江戸城中で打ち上げ花火が行われた。この時は既に大阪夏の陣によって豊臣一族は滅びていた。江戸城中の打ち上げ花火以降、幕末まで、戦争らしい戦争は起きていない。敢えて申し上げれば、寛永十四~十五年(1637~38)の天草の乱ぐらいなものだろうか。

  戦争用に作られた花火であったが、皮肉にも平和の手段として発展成立したものである。花火は徳川幕府の支配下のもと発達したと言っても過言ではない。従って江戸の町民文化の一つであったとも言えよう。その切っ掛けは享保十六年(1731)の、隅田川・両国橋での水神祭における花火の打ち上げが最初であった。これが所謂両国の川開きに付随した花火の始まりであり、それから毎年旧暦の五月下旬に開催されていた。明治になって明治五年に、太陽暦が導入されると、七月初旬になり、昭和のサラリーマン時代には七月初旬の土曜日の夜に変更された。打ち上げ花火が中止されたのは、上野彰義隊事件を挟む戊辰戦争における幕末動乱の時代と、太平洋戦争の最中と、戦後の混乱期だけである。このように花火は戦争とは無縁なカタチで、平和の象徴として、町民から絶大な支持を得ていたのである。

  両国の川開きとは、その日から隅田川に納涼船を出し、水錬場(すいれんば)という川を利用したプールのような場所で泳いでもよいと言う納涼の季節を告げる行事であった。最初の水神祭は悪魔祓いとして行われたが、花火によって水上、もしくは水中に棲む悪霊を追い祓ってから、川で遊んでもよいとされ、以降「川開き」と言われ、打ち上げ花火は毎年挙行されるに至ったものである。然し東京の中心部が多くの車輌に占拠されるようになると、人間より自動車本位の社会となり、名実共に交通戦争の時代へ突入。それとともに工場廃水やその他の理由で、隅田川と両国橋の辺りの水が汚染の極みとなったこともあり、昭和36年(1961)から、昭和52年(1977)まで、実に二百数十年も続いた川開きが取りやめになってしまっていた。言わば、日本が高度経済成長として経済戦争をし、ドル圏内で始まった交通戦争の、両方の狭間で、休止に追い込まれたわけである。

 それでも多摩川や江戸川など近郊の河川で続き、東京の隣接県では数多く行われた。又、北海道から沖縄まで、それぞれの地域の行事において独特な習慣のもと、今日まで発展してきたのであった。山下清画伯の描いた長岡の花火や、私がちょうどその時に行った別府の花火など、その海に映るサマは美しく、まことに雄大であった。花火の一大生産地の一つ・大曲などは格別な全国花火コンクールもある。札幌雪祭りでの花火は冬の花火として類例がない。私は両親と行った隅田川の花火大会は浅草の麦飯屋でトロロ飯を戴きながら鑑賞した。この界隈には花火専門の松木商店もあったはずで、又或る時は、両親と観た苗場スキー場での花火なぞ生涯忘れられない思い出である。結婚する前、山形の銀山温泉に泊まり、近くのスキー場で特別に頼んで打ち上げて貰った10発の和火の思い出も強烈で、当時の恋人であった彼女の微笑みも素敵だったし、雪面に映える花火は実に美しかったものである。

  今回10箇所で打ち上げられたプロジェクトの二万発の花火は一箇所にすれば、たった二千発に過ぎない。全国の花火大会は一度に一万発以上で、二千発と言う小規模なモノは殆ど類例がない。だが被災地であがった花火は、生き残った人たちの心の襞に深く刻まれたものであったのだろう。散発的にあがる花火に、どれほど多くの人が泣いただろうか。そして再び「しおらしく再生する誓い」の瞬間であったかもしれない。花火が尽きた時、一瞬の淋しさを味わうのは花火が持つ哲学的な美の要素が内包している証拠で、同時に戦争から出た花火は、逆に平和を志向するモノになったのであった。何故なら内緒では打ち上げられないからであり、空しさ以上に、多くの人たちと、或いは霊界に逝った故人とともに共有出来る大切な瞬間ではなかろうか。独占を許さず、明るく華やかに楽しむ、それもまた彼岸に旅立った方々からの応援であるかもとも思う。花火こそ民衆の側に立つ楽しみなのである。

 

品川から広尾にやってきた朝顔 見る見るうちに赤紫に変わり やがて萎れた

 


  いつもと違う、8月6日

2011年08月06日 | 季節の移ろいの中で

比叡山 根本中堂の「不滅の灯」

 

 

いつもと違う、8月6日

 

とっくに戦争は終結していたのに、遅きに失した敗戦の覚悟。

それが広島・長崎への原爆投下で終始するとは何たる無様か。

太平洋戦争で亡くなった方の90%以上は終戦の一年半前からである。

 

ピカピカに磨かれて、今でもアメリカで展示されてある「エノラゲイ」!

今日は広島に原爆投下されてから66回目の平和記念式典にあたる。

 

だが待てよ、今年は特別な意味を持つ原爆投下記念日ではないか?

あの恐ろしい核兵器と、福島第一原発における核は全く同じことであるが、

アナーキーで、ポピュリストの典型のような菅直人に断じて言われたくない。

国民すべてに核兵器問題とごっちゃにされ、尤も大元は一緒だが、

エネルギー問題を菅はこの席でも能天気にぶちあげた。あんたから言われたくない。

原爆投下された唯一の国家として果たすべきものがあるはずだが、

一国の総理が先日記者会見した「脱原発依存社会の実現」は、

個人的発言だったとは。そして式典で発言したのも個人的意見だたというのだろうか。

G8で原発推進を言っておいて、いつからか自然再生エネルギーと表明し、

常に世界でもコロコロ変わる総理発言では、世界のどこからも信頼されなくなっている。

 

明治維新から終戦までを一区切りとし、敗戦から3;11までを一区分とし、

私たちの今後を、新たな歴史の構築を根本から考え直さなければならない。

敗戦後、民主主義と言う言葉と、如何にも良心的に見える共産主義と、

日本国民は翻弄され続け、原発安全神話まで登場し、その裏側を検証する智慧もなく、

正確な情報を伝えないマスコミにも、容赦ない鉄槌を下さなければならない。

特に大ホラとも言えるマニフェストで大勝した民主党に政党の体を成していない。

とっくに破綻し瓦解したマニフェストに拘る馬鹿モノもいる。

ペテン師扱いにされ、お互いが批判しっこして情けなや。

政党綱領がなかったのは過去のナチスと、我が民主党だけである。

従って個人個人で、民主党々員が勝手なことをいうはずである。

 

現在の日本はアメリカとは日米共同宣言の策定は見送りとなり、

北朝鮮とは日朝協議が延期されたまま。韓国総理の来日も危うい。

日豪合意のACSA関連法案は国会審議で中断し協定の発効の見通しが立たず、

7月に予定されていた日中ハイレベル経済対話開始の目途が立っていない。

ベトナムやトルコへの原発輸出は暗礁に乗り上げたままで、

世界中から相手にされていない国家に成り下がってしまった。

 円高介入しても円高傾向が今後も続き、決して円が優秀であろうはずがない。

世界各国は自国の利益以外考えていないのだから、日銀は一層金融緩和し、

日本円のお札を世界と同様にジャブジャブと発行したらいい。

日本の国債も禁じ手だが、最悪の場合買ったらいい。

但し財務省の市場介入は、一時的なモノで終わってしまうので、考え物だ。

アメリカ格付け会社S&P社が断行したアメリカ国債の格付けを落としたことの意味は、

相当重いもので、ユーロ圏も中国やインドもインフレ傾向で景気は減速して、

世界中の金融危機に陥るかもしれない、1930年代の世界恐慌時代の再来のように。

最早アメリカは破綻寸前の状態であり、グアム移転の費用が出なくなり、

普天間基地の固定化はありうる。そしたらアメリカに対し、

あなたの国債を売りさばいてしまいますよと、堂々と脅したら如何だろう。

アメリカの御妾で、安保んたんだった日本は何も手をこまねいている場合ではない。

 

文字の発見発展と戦争は比例し増大し、あの産業革命は、植民地主義を助長させた。

平和で満ち足りていた3000年前の良き時代を破壊したのは人類の宿命か。

あり余った余剰な製品は、皮肉にもより一層完全な武装化という戦争へ導き、

日本国は石油の禁輸措置によって戦争に突入したのは愚劣の極みではなかったか。

たった半年しか実態では戦勝していなかったのである。

その上、原発安全神話も、いい加減な情報の過度な垂れ流しだったわけで、

私たちは、私たちにある「恥の文化」により、自分の足場を確かめることが肝要である。

 

戦後の日本は日本国の尊厳をかくも卑屈にし、我欲に満ちた最低の国家にしたのは、

政・財・官のみならず、教育現場やマスコミにも最も大きな責任がある。

アナーキーで、責任感のない内閣を持つ国家は卑屈で卑しく悲劇的であり、

特に、この3;11以降、新しい日本の誕生を目指し、伝統や伝承までも、

もう一度ガラガラポンして確かめる必要がありそうである。

 

原爆における多くの被災者へ、

まだそこにあった日本人の美を取り戻すことを、静謐な中でお誓いとしたい。

 

木漏れ日の中の、涼しげな苔

 


    7月28日

2011年07月28日 | 季節の移ろいの中で

弥陀の声明

 

 

7月28日

 

 

今から五年前の本日、午後17時27分、

若き当主で、私の大恩人のM氏がご逝去なされました。

場所は愛宕神社・男坂途中、急に胸の苦しさを訴えられ、

直ちに救急搬送されましたが、その途中で死亡が確認されたのです。

享年40歳。私はやや逡巡しながら、その5日後の『櫻灯路』の記事に、

ブログの主人の死を発表させて戴きました。混乱と泣きの涙の渦中でした。

 

「千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた」と、貴方から教えられました。

千年にわたる野望を抱くのではなく、今の立ち位置を把握し、高い目標を掲げ、

ひたすらその目標に向かって邁進して行く決意と行動のことだと貴方は仰りました。

貴方の遺言通り、櫻の団体も立ち上げ、貴方の夢だった若い子の育成も。

貴方が書かれた「人の育て方」という小冊子の通りで、

なるほどなぁと日々教えられています。

お蔭さまで、何とかやれていると自負しています。

これも貴方が私たちの心の中に、キチンと生きている証拠です。

 

今朝貴方のお宅にお邪魔し、未だジェラルミンの筒に入った散骨用のお骨にお参りし、

急かず焦らず、人を順番よく育てながら、粛々と進めています。江戸彼岸の苗も、

山櫻の苗も、丁度明日から五年目になり、植樹するのにいい樹々になりました。

貴方が生前用意してくれた財団の原資を一円たりとも減らすことなく運営されています。

貴方が抱いた高貴な精神性を、今後とも皆と一緒に高めて参ります。

人を育てることは、己を育てることだったんですね。よく分かりました。

色々申し上げたいことがありますが、目標を貴方の精神性に置いて今後も頑張ります。

櫻山が出来るまで、お骨はそのままですが、どうかゆるりとなさっていて下さりませ。

 

貴方から戴いたボイセンベリーの果実 今年もたわわに実りました 

黒くなったら収穫 アレもコレも全てを有難う御座います 心から感謝しています

 


   なでしこJapanに大興奮!

2011年07月19日 | 季節の移ろいの中で

 

なでしこJapan 大興奮の世界一

 

 

なでしこJapanに大興奮!

 

まだ興奮が続いています。

世界各国からも大絶賛の嵐、貴女たちは素晴らしい!

きっと震災地へも、勇気と前向きな気持ちが届きましたよ。

おめでとう、そして有難う!

 

我が櫻塾には二チームのサッカー部があります。

僕は、塾生の彼らと一緒に宿舎で観ていました。

彼らにも、どんなに大きな夢を与えたことでしょう。

八月末からニュージーランドへ行き、ホームスティする彼らは、

ホテルのチェックインも、ディナーのオーダーも出来るようになり、

英語を頑張って習得致しました。櫻の苗100本を持参して参ります。

中には宮間選手や丸山選手や鮫島選手に憧れる女の子もいます。

澤選手が誰か相談に来ると、「私の背中を見なさい」というそうです。

いずれ自分がそう言える人間になりたいと彼女は張り切っています。

 

櫻塾の子供たちは若木です。

「なでしこ」長く続く愛の花言葉の意味があります。

素晴らしい夢と創造力とを有難う。彼らに大きな影響を与えて、

心から心から感謝します。どうぞこれからもご活躍を!

 

歓喜の表彰台 (すべての画像はNHK/BSの動く映像から)

 

 私たちの塾生はこんな短期間で、普段の英語が使えるようになりました。二三の落ちこぼれがいないことはないのですが、彼らとてまだ諦めていません。新規参入の被災地からの子供たちは最も元気で過ごしています。晩夏、ニュージーランドにホームスティする子は50名弱。一軒に一人です。全部で100名近い大世帯になっていますが、プリンスエドワード島とメープルロード巡りや、ロシアの針葉樹林旅行や、イギリス湖水地方や、ドイツ・ロマンティック街道や、アラスカ国立公園巡りなど、樹林見学をキーワードにし予定は目白押しです。皆モチベーションが高く、塾長である我が職員はノリさん(全日本女子サッカーなでしこの監督)並みの横から目線で結構慕われています。責任は私が取る。だから精一杯頑張れと私は塾長を励ましています。国内の植林名人のみならず、彼らは塾長と共に、今まさに世界に飛び出して行こうとしています。いずれ詳しいご報告は後ほど申し上げます。今回の快挙にひと言、世界一になったのに、オープンカーなどで銀座でパレードをしないのか。菅総理が諦めないことや、どうやってチームをまとめるかなどの陳腐な発言はもう遅い。阿呆かいな!それとなでしこリーグをどこかの局で放映して欲しい。我が塾の女の子たちは皆それを望んでいます。(硯水亭主人)

 


   「おひさま」のリアリティ

2011年07月11日 | 季節の移ろいの中で

安曇野 水車小屋 美しい湧水

 

 

「おひさま」のリアリティ

 

 

忙しい妻がテレビを観るとしたら、現在好評中の連ドラ「おひさま」と「日めくり万葉集」。

後は殆ど観る暇がない。久しく連ドラを観ていなかったと彼女は、この物語に毎度感動中。

私は朝の連ドラでは「芋たこなんきん」「だんだん」「こころ」「ちゅらさん」などを観てきた。

いいドラマが多かったと思うが、最初の一週間だけで、そのドラマの良し悪しを判断し、

過去幾つも途中で観ることがなかったのが、結構あったようにも思う。

竹山洋氏脚本の「天花」など、その代表作で、あんなにがっかりしたドラマはない。

今度の「おひさま」は脚本が素晴らしい。戦前・戦中・戦後の時代の等身大が描かれ、

当時の一般人のリアリティを感じさせ、私もつい感動することが多く、妻も涙している。

しかも大好きな安曇野が舞台の中心であるから尚更である。

松本ではご維新時代の教育に対する律儀さを見事に感じさせる。

あの旧開智学校を見たときの感動を忘れられない。長野は元より教育県である。

向田邦子賞を受賞された原作者の岡田恵和さん。

初めての脚本は「ちゅらさん」であった岡田恵和さんだから好感を持ったものである。

その上俳優陣が豪勢で、中でも主人公の陽子が嫁いだ先の丸庵主人である丸山道夫役の

串田和美さんがいい。かの名エッセシスト串田孫一さんの息子さんで、中村勘三郎の

演出を17年間もやっていた方だ。シアターコクーンでの奇抜な歌舞伎などがそうである。

陽子の父親役である寺脇康文さんも素敵で、義母役の樋口可南子さんや陽子の夫役の、

高良健吾さんも目力があって、なかなか良い。いいドラマにはいい脇役が欠かせない。

女学校当時の女性同士もなかなか素敵で、時にキュンとなり、

女同士の熱い友情ってこういうものかと、そしてマイコさんにはぞっこんになった。

二人の兄役の田中圭さんや永山絢斗さんもいい。陽子を愛する農夫役の柄本時生

タケオ・タケオと連呼したくなるような個性溢れる俳優だ。

調べてみると、道理で、性格俳優というか、あの柄本明さんのご子息であるらしい。

 

安曇野 おひさまに登場する場面の絵図 (NHKホームページから

 

ヒロイン 陽子役 井上真央さん(図書カードより)

 

戦時中、師範学校を出て教師になった陽子は、当時の等身大の日本人そのものの姿だ。

教師として、軍国主義を教えたときの辛さは何とも言えない哀しさがあったのだろう。

将来は軍人になることだと公言していた生徒も当時普通のことであったのかも知れない。

 

でも戦後コロリと変わる教育現場もついていけない。ましてやあの真摯な子供たちなら。

日本人の文化や矜持さえ奪いつつ、戦後が始まったようだからである。

 

ヒロイン陽子 師範学校当時 バックの白い蕎麦畑が美しい

 

とにかくこの物語は戦争を背景にしているが、一般庶民の感情を中心にした。

言葉遣いにも、時代考証が細やかに気配りされており、古き良き時代も感じさせられた。

親子の絆、夫婦の絆、学徒の友情、周辺との絆、丸庵のお客との絆、

私はこうした精緻な時代考証を中心とした気負いのない、絆のドラマが大好きだ。

聴けば、視聴率も好調のようで、製作者の方々に心から感謝したいのである。

出演者の皆さんにも、性根の座った演技に注目し、心から堪能させて戴いている。

 

それと番組冒頭の題名が出る場面で、すごく単純に作られ、

野の花が大好きな私にとって、押し花だけを使った功績を称えたい、素晴らしい。

 

大糸線 おひさまラッピング列車登場 串田和美さんとマイコが立ち会ったらしい

 

 

松本を中心とした観光スポットは多種多様にある。

国宝松本城もそうだが、お城の近辺の町歩きも大好きだ。

そして安曇野には「ちひろ美術館」や、「碌山美術館」があって、一日居ても、

全く厭きることはない。安曇野の、犀川近くの山葵田や、夫婦揃って立っている道祖神など、

晴れた日には常念岳が直ぐ傍に見え、北アルプスへの憧れを増大させる。 

 

魅力溢れる大糸線

 

今頃は松本から安曇野にかけて、ご旅行される方がおおかろう。 

是非「おひさま」の薫りを訪ねて行って戴きたいものである。

 

「おひさま」のヒロイン陽子は現代に生きている。若尾文子と斉藤由貴の語り部が、

現在でも生きている証拠で、昭和への郷愁へ誘い、安心して観られるのである。

この掛け合い万歳の語りこそ、朝の連続テレビ小説として王道を行く手法なのだろう。

 


   おめでとう御座います

2011年07月08日 | 季節の移ろいの中で

ルリタマアザミと八甲田と 

(主人は20号のスケッチ帖を見開きにし よく大きな風景を描いていた)

 

 

 

おめでとう御座います

 

 

この一週間、我がことのようにご心配申し上げていたあなたのご出産。

7月1日夕刻、3,340グラムという立派な女の子が誕生致しました。

 

いつも思うことなのですけれど、人間として生まれてきた奇跡。

そしてこの親にして、この子ありのベストカップル。無論ご主人さまもです。

私たちの塾に、多数の被災地から入塾されましたが、これも奇跡的なご縁でした。

 

同世代を、或いは同時代をともに生きることは奇跡のご縁です。

ましてやどんな不幸な社会であっても、

明日の素晴らしい社会に変えて行くパワーがあるのは、

他ならぬ私たちの子供たちなのです。

どうか健やかなるご成長をお祈りしています。

 

ノウゼンカズラの花 我が家では満開になってお誕生を祝福しています

 


   なぜか不意に涙があふれるとき

2011年07月06日 | 季節の移ろいの中で

ユウスゲの花 儚げに

 

 

なぜか不意に涙があふれるとき

 

 

3;11以来、僕は涙もろくなっています。

「頑張ろう日本」「がんばっぺ東北」「たちあがろう宮城」など、

数多くのメッセージが居並ぶ仙台駅頭に立ち、更に進み、東松島へ。

遠き海を眺めて、多くの声なき声を、独り佇み聴いているのです。

元ような清々しい夏の光を浴び、さわさわとした風にふかれながら。

 

瓦礫の中で、方向が分からなくなったあの日、やっとみつけたキミを抱いたとき。

「おじさん!」と、見知らぬ小学校の子供から元気な声をかけられたとき。

すっかり元の海になった青さをしみじみと眺め、懐かしきかの人の声を聴いたとき。

避難所にいる言葉少ない方々にいる多くのご老人たちの東北魂を聴いたとき。

4月17日、気仙成田山に地元のお酒「酔仙」をお届けし、ともに花見をしたとき。

釜石・宝来館の岩崎昭子さんを尋ね、お花がお庭にいっぱいに咲いていたとき。

陸前高田の金剛寺で、思いがけずも、山伏神楽の「権現舞」を観たとき。

ふと振り返ると、低い三陸の山々に山櫻が咲き、若緑がカラカラと笑っているとき。

 

ワタスゲ 日光・戦場ヶ原にて

 

ゆらり岩手より東京に朝帰りし、たくわん漬けを噛み、ガリリと音がしたとき。

気仙小学校の壁新聞「ファイト新聞」が閉じられると知ったとき。

原発近郊で、野生化した牛を見たとき。決して近づいて来ないペットを観たとき。

田老地区、一般家庭のヘドロ掃除をし、中からそのお宅の親戚の写真が出てきたとき。

あの時は寒かったが、節電で厳しい最中にいるウチの子供たちをじっと観ているとき。

「相馬野馬追」が少々縮小されても、実施されるというご当地からの一報に触れたとき。

 

いつでもどこでも直ぐに涙が出てしまうのですが、

僕たちの生きる苦しみを、「抜苦代受」され、

先立たれた多くの故人の愛を間近で感じられたとき。

霊魂は生きていると信じられたときに、そこに親代わりになった明るい子たちがいた。

彼らはとっくに前へと向いている。僕はそろそろ涙を卒業しなければならない。