硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   「無用」の美を求めて

2011年06月16日 | 季節の移ろいの中で

静かで清楚な天神坂 登りきったところに この石塔があり 三樹荘があった

 

 

 

 

「無用」の美を求めて

 

 我孫子・手賀沼 文学散策 (Ⅱ)

 

 

祖父は、白樺派を全面的に認めていたわけではないが、

同人・柳宗悦だけは別格であったらしい。

柳の志向の高さに惚れていたのだろう。

三樹とは、「智・財・寿」と呼び、地元の人に崇められていた、

三本の椎の木のことである。

柳は、嘉納治五郎(実母・勝子の弟)の薦めにより、

治五郎邸の前に、この三樹荘を建てた。

大恋愛の末、結婚した兼子との新婚生活を送るためでもあった。

兼子の弾くピアノは祖父の心をときめかした。湖水にアルトの音声が

よほど美しく響いたことだろう。幸せな祖父!

 

治五郎邸跡から見た三樹荘 柳宗悦退去後 やってきたのは深田久弥や田中耕太郎

 

我孫子に最初にやって来たのは 嘉納治五郎であり 

そこから文化村が出来た ここは治五郎邸跡

 

 

多くの白樺派が集まり、柳宗悦も同人であったが、

彼の思考する美意識が全く違っていた。「西洋かぶれ」に加担しないのだ。

和を意識し、この新居に引越しと同時に見た朝鮮白磁に圧倒された。

従って、ここから「日本民藝」への意識が芽生えたと言っても過言ではない。

朝鮮総督府の弾圧が始まると、柳は朝鮮に渡り、民具や民藝を収集し、

そして朝鮮民族博物館を建ててしまった。ここまでの反骨精神は凄い。

 

白樺派同人写真プレート 武者小路や柳や志賀が見える

 

 

更に沖縄に激しい頻度で通い、沖縄の民藝美の発見に尽くした。

又、木喰上人の「無垢な直感の美」を持つ木造仏像を発見し公表した。

そこに河合寛治郎や浜田庄司や芹沢圭介や棟方志功などが大挙賛同し、

一時大ブームとなったのだが、日本人特有の熱し易く冷め易い性分に、

何時しか、「日本民藝運動」も忘れ去られてしまったようだ。

司馬遼太郎は読むが、柳田國男は読まない、今日的現象であろうか。

 

現在、御土産屋などに、柳宗悦の見出した美は一切ない。

 

 

子(ね)の神大黒天の阿吽像 

私たちは「南無大師遍照金剛」と唱えて祈った (右端はカネノワラジ)

 

この前方後円墳のすぐ裏手に祖父の墓所がある 

尊敬した「向井去来」のような 小さな墓所であった

妻と僕は 小っこい曾々孫と 幾種類かの「野の花」を摘んで手向けた

  

祖父の膨大な記録を前にし、父から漸く許しを得て、祖父の日記を、

妻と共に読み始めた。ここには古き良き時代の日本人が生き生きと、

描かれ、まさに時代の証言というべきものがある。

 

宗悦が利休居士と似ていると言われ、柳は激怒したらしい。

権力や金力を利用した利休など、本来の利休なら望まなかったはずだと。

現代の茶道の有り様を見たら、一目瞭然だろうとも。

我が祖父は柳の発言をコツコツと聞き書きし記録し書き残した。

祖父は昭和の始め、A紙新聞記者のロンドン支局員として、

「魔法の森の20年」前を生き抜き、大正末期生まれの父の代に変わった。

 

祖父の墓参を終え、杏の望む湖畔へ。

渡らないバンやオオハクチョウの家族たちが、私たちを迎えてくれた。

杏も、大風もどんなに喜んだことだろう。

墓参とは、根っこから清々するものである。

 

三岸好太郎は 女画学生だった節子とともに

同じ、この崖の絵を描き湖畔にて求婚をした

 

若かりし折の岡田嘉子が撮影をしたキネマ撮影所跡 

藤蔭静樹は彼女の舞踊の先生であった

この後、松竹撮影所は蒲田に移転した 

岡田の駆け落ちは会社をも巻き込む大事件であった

 

杉村楚人冠は祖父の先輩 詩句は陶板製で 

「筑波見ゆ 冬晴れの 洪(おお)いなる空に」 アサヒグラフ創刊など

 

やっとこさ行けた湖水 渡らないオオハクチョウの家族がいた 

杏が待ち望んでいた風景

この他 寺山修司の奥さんだった九条あや子のご実家にも回った

 大好きな作家・中勘助の仮寓跡もあり 盛沢山!



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