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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

      人的被害0の奇跡

2013年07月02日 | 季節の移ろいの中で

岩手県洋野町 人的被害0でも 大きな津波に襲われた(岩手日報より)

 

 

          人的被害0の奇跡

 

 岩手県最北端の、人口17,000余人の小さな町で奇跡が起きたことを、震災から843日も経ってからだが、改めてお知らせしたい。高さ16㍍の防潮堤に、大津波の勢いがそがれたこともあったろう。津波の高さ16㍍少々であったのも防潮堤に勢いをなくしたのだろう。だが海中にあった漁網も悉く被災した。海近くの家屋も数多く全壊した。漁業関係は壊滅的打撃であった。それでも、迫りくる大津波の中でも、この町の方々は皆冷静であった。この地区はかつて何度も大きな被害にあっている。従って津波に対する意識がもともと違っていたのだ。特に八木北地区は徹底していた。ここでは津波が来たら逃げろではない。地震が来たら逃げろが合言葉となっていた。八木北地区では10世帯を一班として、20班全員が高台避難して、一人の被害者も出さなかった。怪我人さえいなかったのだ。各班ごとに、どこへ避難するかを予め決め、その避難路の確保を常日頃から実施し訓練していたのだ。雪が降ったら、誰彼なく高台への道のすべてを雪かきをし、夏草が生い茂ったら、避難路と分かるように徹底的に除草し、四季折々避難道の確保を、当然のこととして実施していたのだ。私が実際に彼らから証言を聞いたら、津波到達時の12分前に避難が完了していたと言う証言であった。どうだろう、その意識の高さは、私たちが自分自身のこととして充分検証して然るべきだろう。(以上記事の一部の著作権は岩手日報社「洋野町の津波の証言」にあります)

 何故なら東南海トラフなどの大地震や、首都直下型の大地震だって、いつ起きても可笑しな状況ではないからでありましょう。朝の連続テレビドラマ「あまちゃん」は大好評らしいが、この舞台・久慈市の直ぐ北に洋野町は位置し、岩手県最北端の場所である。だから被災したのが少なかったというなら、実際見たらどうだろう。「あまちゃん」の舞台になっている久慈市だって被害がなかったわけではないのである。クドカンの脚本の良さと面白さ、配役の素晴らしさ。脇役陣の充実など、褒めても褒めてもおっつかないほどで、高視聴率になるのは当然である。最初被災地に向かって、こういう明るいキャラのドラマはどうかなぁと思っていたが、何と現地岩手の方々に圧倒的に支持されているのだから驚きで、私の下の息子なんかはドラマ冒頭に出て来る大友良英のオリジナル曲に敏感に反応し、朝からクネクネと踊りまくっている。

 

岩手日報社 各種記事

 

洋野町・避難通路の一つ

 

今では美しい種市海岸の風景

 

未だ瓦礫残る海岸べりで 魚釣りをする親子の穏やかな風景

 

 幾ら立派なコンクリート製の構築物を作っても、作ったその日から経年劣化が始まる。だが森の長城プロジェクトのような広葉樹で植栽された防潮堤は植樹したその日から成長が始まり、劣化することはない。無論鉄筋コンクリート作りの防潮堤を全面否定するものではないが、人は人、我は我とする現代の風潮に、果たして洋野町のような住民意識が持てるだろうか。震災予告が政府から発信され、私たちは今何が出来るだろうか。小さな単位から危機感を抱きつつ、新たに構築しなければならないはずで、決して遅くはないはずであろう。来年再来年の話ではなく、私たちは、今出来るところから地域地域で始めるべきだろう。

 尚大飯原発の再稼働は反対である。野田政権時代、大飯原発を再稼働したのは、京都府綾部出身で、内閣府特命(原発関連)大臣であった細野豪志であったはずで、私の反対理由の大きな柱は大飯原発本体にではなく、原発に通じる道路の問題が最も酷く危惧している点である。片側一車線道路が多く、しかもトンネルが数多い。もしもの時に、様々な車両がどうやって大飯原発まで辿りつけるのかということだ。特に大型車両。現在細野氏の選挙区は静岡五区だが、出身母体の綾部から直ぐ傍の大飯町のことを全く知らないなんて絶対に言わせない。安倍総理も原発のトップセールスマンを自認しているらしいが、最終処分場が一つも決められない現状で、よく言うものである。もう帰れっこない帰宅困難地域の福島の方々に、改めてお見舞い申し上げるとともに、決して一人ぽっちにはさせないとお誓い申し上げる。

 (尚、私は共産党でも社民党でも生活の党でもみどりの風でも民主党でもない。ましてみんなの党でも維新の党でもない。発送電分離を蔑にした参議院の、今回の党利党略は全く不快である。しかも民主党も一緒に同意しておきながら、このザマであり、民主党こそ亡国党であり、党内で決して纏まることのない政党であると言わざるを得ない。私は与党・自公民でもない。ただ、これだけは断っておきたい。私は断じて右翼ではなく、ただのニッポン教信者であると)

 今日は半夏生の日。少しは物忌みをし、粗食にしたいものである。関西のように蛸を食べるべく、それだけは買ってあるが、どんな献立で夜を過ごすべきだろうか。一刻も早く、被災者の皆さまに、いつもの生活が戻りますようにと、家族揃って心からお祈りしながら。

 


梅雨寒と子供たち

2013年05月29日 | 季節の移ろいの中で

この紫の花は何だろうって 叔母の小さな雑草畑でアンがみつけた 白い十字花のドクダミと

 

 

           梅雨寒と子供たち

 

 西のほうから梅雨に入ったニュースが流れ、東京も早いもので、本日から梅雨入りとか。小さな我が家の梅林に実った早生の梅の実を、叔母はせっせと梅干し作り。昨日は天火干しの日だったらしい。日中小雨がぱらついて、やや気温が下がり、梅雨寒の日となったが、相変わらず子供たちは病気一つしないで元気いっぱいだ。スカイツリーは一周年となり、隅田川にLED電池の青い美しい灯りが流れたニュースを知っているが、私たちは未だスカイツリーに行ったことがない。東京に住んでいるものは新しいものに、まず興味を持てない。そんなもん、年がら年中のことであり、また恐ろしく喧噪が増えるだけだと。物質だけが目いっぱい溢れ、行き着くところまで行くのだろうと聊か冷ややかだ。資本主義とは面倒臭いもので、溢れかえる新規・珍奇なものが、どうしてそこまで加熱し沸騰するのだろうか、株価についても全く冷やかだ。我が家では家族全員、相変わらず普通(なみ)の生活を送っている。

 最近子供たちとしていること。第一図書館通い。板橋ボローニャ子ども図書館や上野の森の国立国会図書館子ども図書館などに少なくとも月に二三度は行く。子供たちは話せるが、読むのに困難な英語・フランス語・イタリア語などで、私が未だ勉強中のロシア語はそこそこだ。その次はよく森へ連れて行く。最もよく行くのは有栖川宮記念公園がすぐ近くで当然だが、その次は東大付属小石川植物園で、新宿御苑や、品川や目黒にある林試の森公園や立川にある昭和記念公園などにもよく行く。自前の手弁当を持って、遠出するのは高尾山や館山野鳥の森公園などだ。今年最も遠かったのは、まだ春浅き奈良・吉野への旅だった。そして季節に応じ、真鶴半島や丹沢などにも是非連れて行きたいと思っている。美術館もよく出掛ける。無論近くの山種美術館の頻度は多いが、東京都庭園美術館やサントリー美術館にもよく行く。杏だけを連れてコンサートにも行く。今回ウィーン少年合唱団のコンサートにも出掛けた。また紀尾井ホールや川崎まで出掛け、ヴァイオリン・コンサートにも二人で出掛けて聞いた。杏は特に楽器に対して興味津々で、駿河台のクロサワ・ヴァイオリン店や芸大の奏楽堂など、図書館の近くだから平気で行く。現在杏の楽器は二台目の大きなサイズ(大人未満)で、音色がやたら気に入っているらしい。大風は瞬間湯沸かし器的な情緒の持ち主だから、何事も長続きせず、最近スポーツに凝っている。サッカーをやったり、小さなバットを振ってみたりで様々だ。そんな子供たちを見ていると、彼らは一人でに大きくなって行くようで、ついつい楽しくなってくる。親バカかも知れないが、礼儀作法はそこそこに出来る子たちだと自負している。

 年子の姉弟と言えども、パーソナリティは全く違うもので、さほどお仲がよろしくない。姉が最近逆立ちが出来るのを嫉妬し、弟は果敢に挑戦するのだが、殆ど出来ず、すっ倒れてしまい、ついには癇癪を起す。お互いの愛犬の自慢も少々加熱気味だ。愛犬同士はどうなんだろう。迷惑しているかなぁ。着せる犬用の服もそれぞれ主張があるらしい。要するにお姉ちゃんはちょっぴりオトナである。私は、亡き母がやっていた絵本作りをこのところ本格的に挑戦している。最初は大人向けの絵本だった。そして赤毛のアンものや、ムーミンものを模倣して描いたりした。最近は物語性を高め、構成力を重視した絵本が多く、もう30冊は越えた。手作りの創作絵本だから一点もので、暇をみつけてはセッセと描いたり、文章を練ったりして余念がない。家内の評価はまぁまぁで、子供たちにもまぁまぁというところで満足している。専用の棚を作り、それらを子供たち専用の書架にしている。

 

アン・シリーズ 最初の本格的作品 (A4版)

「仏には櫻の花をたてまつれ」より 大人向け

近著 「どんこ」より 子供の視点で

 

 最近の作品は子供たちが読んでくれるから嬉しい。「越前水仙 花物語」、「仙台夜」、「かた雪かんこ」、「武蔵野の森を歩く」、「ポンポンダリアと、じぃじぃと」、「さくらさくらの、一億年のお話」、「スカンポ採ったらどうじゃったぁ」、「ヴェズレーの丘・恋物語」、「ままごとごっこ」等々である。要するに作品の数だけはたくさん描こうと思い、その僅かな隙間に我が作品の是非を探している。ただ公表したり、出版したりするものではない。我が子にだけ歓んでもらえれば、それでいいことである。どんなことでもいい、自らのイマジネーションを信頼し最も大切にする子供たちになって欲しいのみである。どっちみち子供たちには携帯電話を持たせるつもりはなく、ゲームも買って与えることはしない。東京のド真ん中にいて、物質文明に真正面から逆らう生き方を、どこまで出来るか分からないけれど、私たち夫婦はそう固く決意し覚悟している。因みにこのパソコンはウィンドウズ7であり、8ではない。スマホもやろうとはてんで想いはしない。

 


      お願いがございます!

2013年03月22日 | 季節の移ろいの中で

 

我が家の白爪蒲公英 (叔母管理の小さな雑草園にて)

 

 

お願いがございます!

 

当ブログに、いつもお越し頂きまして、心から感謝申し上げます。

このブログは製作者のある意図があり、そのもとで書かれています。

それは、この画面を125%(もしくは150%)で、ご覧戴きたいことであります。

ツールバー表示に、「拡大」があります。そこで125%に拡大して戴き御覧賜れば、

これほどのご幸甚は御座いません。製作者の我儘、勝手気儘な意図でありますが、

字、及び写真など、その大きさに照準を合わせ、書かせて戴いて御座いますので、

どうかご理解戴きまするよう、又ご協力賜りますように、心よりお願い申し上げます!

 

硯水亭歳時記 主人

 

 

裏庭に咲くマルハタチツボスミレ

 

玄関わきに咲く、白いシバザクラ 今が満開

 


    利休居士をしのびて、朝茶

2013年02月25日 | 季節の移ろいの中で

 

            名鉄犬山にある 利休の弟子七賢人の一人

         織田有楽斎の手になる茶室・国宝『如庵』

 

 

 

利休居士をしのびて、朝茶

 

 茶聖と言われた千利休は 今から約415年前 大徳寺における自らの木造像をネタに 秀吉から切腹を命じられて 自刃して果てた 忌日は二月二十八日 当然旧暦であったので 利休忌は 三月の末頃に当たる 表千家では三月二十七日 裏千家では一日遅れで 二十八日に行われる忌日を 今から書くべきではないと言われるかも知れない ましてお雛様の慶事を前にしている 気が引ける だが昨日櫻前線の予報が出た 三月の終わり頃になると  何かと櫻の記事が多くなるので 敢えてこの時期を選んで 朝茶しながら書こうと思った お許し願いたい

 

       <利休の出自>

 茶道と言われるのは 茶の湯の道の略語で 道と言うからには 遊芸と言うだけではなく 心構えを必要としている  分かり易く言えば 『茶のこころ』と言うことであろう このこころを大切にした最初の茶人は 室町時代の茶人村田殊光(むらたしゅこう)であったが  その志を受け継いだのは 殊光の孫弟子に当たる武野紹鷗(たけのじょうおう)であり  その高弟が 同じ堺の出身の千利休であった  1577年 堺の豪商魚屋の長男与四郎として生まれ 早くから茶の湯に親しみ  17歳では北向道陳の元で正式に学び始めた 各地を放浪しながら 禅の修業をしたり  様々な茶器を考案したりしながら 名を宗易と改め 村田殊光にも習った  最初にデビューをしたのは 23歳の時 戦国武将・松永久秀の茶会に  茶頭として 遺憾なく才能を発揮してからであったが 有為転変として 戦国の世を生きたのである  織田信長が堺に矢銭(軍資金)を課すようにした時 堺は抗戦派と和平派に別れた  商人であり茶人の今井宗久・津田宗及などと親しかった利休は 和平派であって  その関係から 利休は信長から取り分け可愛がられた  時に利休は既に58歳になってから 信長の茶頭になったのである  信長自身茶器の名品を漁る批判が多かったぐらい その道のスポンサーのようなものであったろう  かの本能寺には名器蒐集の為 供の者を極端に少なくして行ったお陰で  明智光秀に滅ぼされることとなったと言う皮肉な一説がある  利休62歳の時であったが 信長亡き後 秀吉が利休を 茶頭として召抱えるのである  決して合う筈もない秀吉との確執は次第に深まり 65歳で正親町天皇から 利休の号を授かると  68歳の時利休は 昔参禅をして鍛えた禅宗の大寺・大徳寺に 自らの木造を置いた  それを見咎めた秀吉は 利休71歳の時に切腹を命じ 利休は自刃して果てたのである  尚秀吉の勘気は 正確には定かではないのだが・・・・・・・・ いずれにせよ  利休以前の茶の湯は 書院造りの大広間で行われていた  殊光が茶の道を唱えて そうして紹鷗の頃になると 標準を四畳半に置き 或いはそれ以下とし  数奇屋の小座敷として 亭主も招客も 更にこころを通わせる茶会になって行ったのである  これには利休も大賛成で それまで堺の豊富な資金力に  モノを言わせた派手な茶会は一掃されたものであった

 

    <利休の茶の有り方>

 利休は 小座敷における茶の有り方を 次のように述べている 「小座敷の茶の湯は 仏法をもととして 修行し 得道することである 結構な家に住み  珍しいモノを食べ それを楽しみとするのは 俗世のことである 家は雨の漏らない程度  食事は飢えない程度で事足りる これが仏の教えであり 茶の湯の本旨である  水を運び 薪を取り 湯を沸かし 茶を点てて 仏に供え 人にも施し 

我も飲み 花を立て 香を焚く これは仏祖の行いの跡を学ぶ僧侶の日常の行事であり  小座敷で茶の湯を催す人々も やはりこうした僧侶と同様な心持で  仏祖の行跡を学ぶべきである この道理を忘れたのでは 草庵の茶事は成り立たない」と このように 茶の湯は宗教芸術の一環であり 然も実生活のうちに 日常茶飯事として催されるべきものだと言う意味だ 物質文明とはっきり区別され 近代主義をも拒否しようとし 科学万能では割り切れないモノを持っているのだ 小座敷の茶の湯における亭主の心得 招客の心得も 仏法の実現の一つだと 理解しなければ 何一つ理解は出来ないようになっている  侘び寂びの美意識や心境も これらの原理を抜きに  何一つ理解出来ないようにしているわけだ 言わば贅沢の対する大いなる反骨であった

 

        <利休の言う茶事の心得>

 茶の湯で 炉と風炉と 夏と冬の茶事の心得を 或る者が利休に質問をした すると利休は  「夏は如何にも涼しいように 冬は如何にも暖かいように 炭は湯の沸くように  茶は服のよいようにつとめれば それで茶の湯の極意は尽きた」と応える  怪訝に思った質問者は 誰でもやっている事だと言い張る  再び利休は「それならば 今教えたこころに適うようにして この利休をお客にして御覧なさい  ついでにあなたの弟子になってもいいでしょう」と応えている つまりこうなのだ 言うは易く 行うは難しいと言う意味なのである  特に茶の湯は 日常茶飯事の所作のことだから 理屈より 実行が大切であると言うわけだ  茶の湯を説くことは簡単であっても 道の通りに行うことは 大変難しいわけで  飽くまでも口先の問題ではなく 所作の原動力になるのは こころの動きだと  まごころの発露こそ 亭主と招客の間に 初めて通じ合うモノが出来て来ると言うのだ 

 

長谷川等伯が描いた「利休図」

 

       <利休の逸話>

 天才利休の逸話は数々ある それらの一端を垣間見 利休の人となりを考えてみたい  或る茶の朝会に 相客とともに招かれた時 朝の嵐の後 椋の木の葉が散り積もって 露地の表がまるで山林に差し掛かったような風情であった なかなか面白いと思っていた お茶の巧者であれば きっと これを掃き清めないであろうと予測していたが  予測とは違って 後入り(ごいり)の時 落ち葉が一枚も見られなかった  そこで利休は「朝方の茶会ならば 宵のうち 昼の茶会ならば朝のうちに掃除し その後幾ら落ち葉が散り積もっても そのまま掃かないのが 巧者と言うものだ」と教えている  露地の掃除は招客の時刻より早めにし 招客到着後はそのままにしていた方が風情があると言うものだと  自然な様子を説いていて 掃除の時期も きちんと決められている 

利休はわざと庭木を揺すり 落ち葉を落とし 掃かぬは巧者だと言う逸話があるくらいだ 又或る田舎の侘び茶人が 金子一両を 利休のもとへ送り届け 「どのようなものでもいいから これでお茶の道具を買って下され」と頼んだ  無論利休を 天下一の茶匠として 日頃蓄えたお金を委託したものであったろう  ところが利休は「この金子残らず白布を買ってあげよう」と返事をした  「侘び茶人とは 他の道具がなくても ただ茶巾さえ綺麗なものであったら お茶は飲める」と付け加えたと言う  これは奇言奇行ではまったくなく 利休の茶に対する見識の高さが伺える逸話だ  人が茶を飲むのに 常によく漱ぎ お茶を点て勧めるものであって  うす汚れた茶巾でぬぐうのを 侘びと勘違いなされぬようにと言うことで  茶碗を清潔に保つ為には 茶巾は幾らあってもいい  名器を求める金銭に余裕のない侘び茶人にとって  生半可な茶器を求めるより 遥かに理に適ったものであると言う意味である  又或る日 婿の百万代屋宗安を伴い 侘び茶人のところに行った時 露地の内側に 古い狐戸が釣ってあった  それを見た宗安は如何にもさびていて 面白いと言った 利休は全く関心を示さない 何故と問い質すと  利休は これは遠方の山寺に所望して そこから大枚を叩いて 持ち込んだものであろう  もし本当にさびたこころがあったなら そうはしないだろう  私なら 戸を売る店に行って 如何にも粗末な猿戸を欲しいと頼むだろう  そうすると戸屋は 松や杉の板屑を継ぎ合せて 何とか作りましょうと言うに違いない  そのようにして出来た戸を そのまま釣ってこそ さびて面白いと言うものだ  こんなちょっとしたことでも その茶人のお手並みは分かろうと言うものだと伝えられている 人に見せびらかす侘びやさびであってはならない 茶の侘びとは 亭主の心得のあらわれなのだからと  そのさびは さびと言う仮面をつけた贅沢に他ならない  万事このような偽りのこころで 招客を持て成すのではない  真実のこころでしか お持て成しは出来ないものだと 又 或る人が 茶の湯のへつらいと言うことを聞いた  利休は 山科のノ貫と言うオトコの話を 例に出して話し始めた  「ノ貫が私を茶に招いた時 刻限通り山科のノ貫の家に行くと  内露地のくぐり戸の前に穴を掘り その上に簀の子が敷いてあって  土を被せてあったのが分かった 何気なくその上を通り 中に入ろうとした時  土が崩れて 穴の中に落ち込んでしまった 穴の中は粘土質でベトベトであった  やっと這い出し 湯浴みをして 茶室に入り 「湯上りの清々した気分で お茶を戴いた」と言う  かねて期明(きめい)と言う人が来て もし山科のノ貫のところに招かれたら  入り口に穴がある そのような仕掛けがあるのを用心された方がいいと 早くから知っていた  然しそれだからと言って 亭主のこころ尽くしを無駄にする手はない  その志を汲んでわざわざ落ちたのである  これでこそ その日の茶事は興趣深く 生涯の思い出となったのである  ただ相手にへつらえば いいと言うものではない  亭主と招客が 共鳴し合わなければ 茶の道は成り立たぬと教えたと言う これは山科のノ貫の奇行を伝えて世に知られているが  実は奇行でも何でもなく 亭主のこころ入れを 招客が受けて立つと言う  茶の道の極意を示したことに他ならないのである 世俗は虚偽と形式に充ちている  山科のノ貫も又 虚偽を憎み 真実に生きる勇気ある茶人であったのだ  千利休は 何も小難しいのではない 虚偽が嫌いなだけであった

 

        <利休のこころは生きているか>

 侘びさびは 日本独特の美意識である  千利休によって大成された美意識と言って過言ではない  侘びさびと言った古色蒼然とした粗末な中に 美を見つけようとした利休は  幾ら粗末で侘びていても こころ豊かにと言うのが本義であろう そして物質文明に対する毅然とした挑戦であったろうし  贅沢に 怒りを持ってなした反骨であったろう  然れば現代の茶道と言えば 利休後に造られた作法が多く  がんじがらめになっていて 学ぶのは 大枚を叩かなければならない  これでいいのだろうか 利休が聞いたら 嘆くのではなかろうかと  不図淋しい気持ちになって来る 利休の目指した日常における仏事の如き茶事を  もう少し一般庶民に到るまで やり易く 普及発展しても良さそうなものである  如何にも残念な部分がないわけではない

 利休のお墓を中心に 千宗淳(千家二世宗匠)・宗旦(宗淳の子で 千家三世)・宗守(宗旦の子で 武者小路千家の祖) ・宗左(宗旦の三男で 表千家の家元)・宗室(宗旦の四男で 裏千家の家元)・道安(利休長男)の面々の墓石が堺に居並んでいる 現在の状況を 反骨の精神に満ちていた彼等は  今一体どうして何を見詰めているのであろうか 興味深いことである 

 

    巻頭図は利休居士墓石 以下利休辞世の句

「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」

 

   巻頭写真の国宝『如庵』は無為変転とし 現在は名鉄犬山ホテルにある

     http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/nyoan.html

   表千家ホームページ

     http://www.omotesenke.jp/index.html

 


    今年の大つごもり

2012年12月31日 | 季節の移ろいの中で

裏庭・土蔵にある祖父手作りの腰掛待合椅子(現在使用せず 戦災にも耐えた)

 

 

今年の大つごもり

 

 

  それぞれの季節はあっという間に過ぎ、我が生涯、どれほどの季節を、再びいとおしく過せるのでしょうか。原発被災地の田圃のただ中で、辺り一帯に、高々と咲くセイタカアワダチソウは、先端が真ん丸く萎み、背丈は何と3㍍にも達しズッと延びて、再び稲作耕地に回帰出来るのかと嘆き悲しみました。思いっきり力をこめ、一株をやっと抜き取ると、恐ろしきばかりの根っこの大きさ!ただオロオロとし茫然とするばかり。鳥や虫の姿さえない殆ど見えない田園に、久しくしゃがみこんでいると、都会の喧騒が、何と遠巻きに、矢鱈と大きく聴こえてきそう。何という軽薄さなのでしょうか。野生化した牛たちが怒涛のごとく駆け去っていく様とそう違いはないのかも。小雪まじりの北からの風だけが、何事もなかったかのように、不気味に静まりかえった大空を吹きわたっているのです。もうアレもコレも風化したとでもいうのでしょうか。 

 都内は東京スカイツリーやソラマチやヒカリエやエキナカなど、華々しくグロテスクな化け物たちが怒号と狂乱とで荒れ狂い、現実の危機と、ぞんな善男善女の浮かれ気分、なんという悲劇的な段差なのでしょう。どう表現したらいいか小生には分かりません。これでもかと銭だけが踊り、その正体は白けた資本主義の極みなんでしょう。或いは亦、魂の抜けた抜け殻か、やり場のないやけくそだけが突っ走り、僕と同年代で夭逝した尾崎豊の絶叫がどこからともなく聞こえてきそうです。『脱原発』『卒原発』とか空々しくスローガンが響き渡り、いい迷惑でした。スローガンだけで政治がは出来るものではありません。政権与党がエイヤッと中途半端で断じていいものでもありません。検証は甚だ不十分で、いかにもポピュリズム政権がやりそうなことです。国際社会との兼ね合いもあるでしょう。

 我が家は大通りから若干中に入っているために、雑踏と少しばかりご縁がありません。粛々と勉強するのにいい環境です。でも子供たちや父や叔母や、他の家人もいるため、僅かに出来た時間を家族と一緒に楽しむようにしています。千両や万両も真っ赤な実をつけ、それで最後の正月飾りをして終えました。28日には餅つきも終え、自らの手で御節も作り、今夜は年越し蕎麦用に蕎麦打ちも終えています。来年はどんな年になるのでしょう。どんなことがあっても、特に岩手・宮城・福島の三県の仮設住宅で不自由な生活を余儀なくされていらっしゃる方々と、思いだけは一つにして新しき年を迎えたいものです。

 八ヶ月余のブログの更新をしなかったのは、ここで書く時間より、重大な行動の必要だったためです。岐阜山中の、我が苗場の整理や周辺森林の伐採、基地建設。更には尊敬する宮崎昭先生と300キロにわたる巨大防潮堤創りのため、広葉樹や照葉樹を提供させて戴いたり、宮脇先生と同時に代表をしておられる細川護煕さんの『瓦礫を活かす森の長城プロジェクト』に参加したり、また地元で立ち上がったさくらプロジェクト3.11に全面協力させて戴いたり、全国にいらっしゃる林業再生にお取り組みの森人の皆さまとの交流も少なくなく、息をもつけない忙しさでありました。尚、ここで一つだけお詫びしておかなければならないことが出て参りました。私たちの財団で運営している櫻塾は現実にはその名称は御座いません。横文字のグループ名で年々巨大化しています。あれこれ公的活動を致しますと、つい数多くの検索機関に取り上げられることになり、仕方なく来春にはホームページを公開しようと考えております。各位さまにおかれましては我がほうの悪意や他意はなかったことだけを是非ともご理解戴き、お許し賜りますことを心からお願い申し上げます。

 今年は数限りない思い出で溢れました。後年にはきっと何かが結実することでしょう。皆さまもいいお年であられたことでしょう。来る新年は残り数時間です。よりいっそうのご健勝とご健康を深くお祈り申し上げます。

                            硯水亭主人

 

復原された東京駅に 相変わらず六ヶ所のゼロキロポストがある


   この春、一番嬉しかったこと

2012年04月22日 | 季節の移ろいの中で

 屋敷の中は菫だらけ 茎が長い菫はニオイマルハで 素敵な香りがする

 

 

この春、一番嬉しかったこと

 

 

この春一番嬉しかったことは我が塾生が進学したこと。

一人は京都大学へ、三人は千葉大園芸学部へ。

農業高校への入学はあちこちで合計11名。

 

中でも最も嬉しかったのはお茶の水女子大への入学したことだ。

どの子も愛おしいが、この女の子の入学が最も嬉しかったかも。

3月8日、正午に合格発表。4月4日に入学式があった。

家族が出席出来ない事情があったため、私が式に付いていったが、

他の子に付き添いはなく一人が多い、大学正門で待つことに。

ただ偶然だが、親御さまのお気持ちが痛いほど分かり、泣けた。

 

中にはコスミレという白い菫もあるが 目立たない

 

数時間後、入学式を終えて帰ってきた彼女は本当に嬉しそう。

きちっと始まる格式ばったことはなく、学長入場までだらだら待ち、

そして学長が登壇しお話があって、何となく終わったそうである。

でも直ぐに英語の試験があり、更に進路決定のため遅れたそうだ。

理系の専門分野で、その部門の合格者はたった18名。

更に英語力によってグループに分けられるという。少数精鋭主義。

大丈夫、あなたならきっと大丈夫!

 

最も寡黙でひたすら苗場で働いていた彼女を、今愛おしく思う。

そう言えば梅の開花まだき3月8日に「サクラサク」が、我が心境であった。

有難う諸君!ともに元気で頑張ろう!!

 

京都大学も理系。家内の実家のお世話で下宿先に行ったのは3月末。

この子だけは寮から離れて生活するが、他の全員は寮から通学。

そして13名が当塾を辞めて、それぞれ就職をした。全員私の知り合いへ。

将来は半農・半○○をやりたいそうだ。中に二組結婚の約束をした模様。

地方を目指し、山間に生きる勇気と覚悟があったならきっと生きられる。

但し私たちと縁切りではなさそうで、今年のアラスカ遠征に連れて行こう。

 

新規入塾した子は男女合わせて8名。私は我が信じる道を進もう。

こんな滅茶苦茶な今の政治ショーは御免で、将来のビジョンに甚だ欠ける。

莫大なバカバカしい税金を払うぐらいなら、一人でも多くに私財を叩いて、

節税をしつつ、彼らの力となろう。

 

毎年櫻の時季に 邸内でびっしりと咲かせる菫(マルハタチツボスミレ中心)

 

英語力は日頃から鍛えてある。

家訓の講座をしながら、自らの進路は漠然であってはならぬと、

常々教えてきた結果、多くの子供たちが学習意欲を高めてきた。

無論半分以上は自ら肉体労働を選んだ。進学する子とそうでない子が

お互いのことに思い遣って、実に清々しい。英語を怖がる子は誰もいない。

新しく入った子は英語を日常的に話すのに面食らっているが、

イギリス人スタッフは優しいし、力があるから大丈夫!

 

裏門の菫は葉先のとがった通常のスミレ

 

兎に角、私は若い人たちは大好きである。

70億人目の赤ちゃんはやがて、100億人目の赤ちゃんが出来る。

水源やエネルギー源や食料で、争った過去の数え切れない幾多の

戦争になることなど無きよう、自分を信じてパワフルに生きて欲しい。

切迫しているのは地球温暖化問題だが、小さくとも前へ進もう。

私はあなたたちの手助けをする以外に能がない。

 

私の子供たちも本当に大事だが、若い子たちみんなが、

同じように大切である。櫻は簡単に育たない。

我が生涯で出来ることは限定的である。

人を育てることと櫻を育てることは全く同じことである。

千年の櫻を育てるのに、私のたった7,80年の人生では不十分であり、

新しく若い人たちに継続的に育って貰わなければ困る。

無私の心以外、私を生かす道はなさそうである。

 

純白のコスミレを 未来あるあなたに捧げよう!

 

 


草木国土悉皆成佛 (あなたは優しくなれましたか)

2012年03月16日 | 季節の移ろいの中で

 

 福島市 渡利地区の花見山公園(阿部家個人所有 無料開放)

 

 

 草木国土悉皆成佛

  ~あなたは優しくなれましたか~

 

 

 あれから、まる一年。あなたは3:11以前と比べ、優しくなれましたか。以前より増して一層勉強に精を出す子もいるようです。親子や友人や様々なつながりを改めて思いを致し、絆を深くご認識された方々も大勢いらっしゃいます。そうしてどこかで何かが変わっていいはずなのに、この私心の空虚さは何でしょう。何かが前へ進んでいるのでしょうか。あの日から一歩も前へ進んでいないような、あの日のままで放置されているような、中途半端なままで時間だけが過ぎて行くようでなりません。私の中では時は止まったままの状態であり、あの衝撃から未だに脱することが出来ていません。寧ろ時が経つにつれ、失ったモノの大きさを思えてならないのです。大震災と原発事故で、何かが必ず変わらなければならないのに、納得の行くような変容が殆ど見られないからでしょうか。

 大震災から一年余。この追悼式典で、一つの区切りをつけて、前へ歩みだそうとしている方々も大勢いらっしゃいます。ただ残念ながら瓦礫の焼却処分はたった5%であり、「絆」などと言いながら、イザ瓦礫の処分をお願いするとなると、全く応じない自治体も多いようです。否、住民感情でしょうか。誇り高き日本人として恥かしくないのでしょうか。横須賀には三本の深い活断層があり、いつ我が事になるか分からないとご存知のはずです。一方ボランティアは激減し、遠慮深い被災地の方々は、ここまでよくしてもらったのだからと、声をあげようとしません。まだまだやることだらけなのに。実際汗をかく作業の継続こそ大事なことではないでしょうか。

 私たち櫻塾グループは今年の作業を3月7日に終え、5班に分かれて被災地の各地に入りました。無論テント暮らしです。一時避難所になっていた施設をなんぼお借りしたかったことでしょう。でも私たちの「自立・自助の精神」を曲げるわけにはいきません。私たちは三陸沿岸を中心に、仮役場に聴いたり、雪降る中を仕事を探したりしながら、一周年の記念日をじっと待ちました。そして11日、各地で催された式典にひっそりと参加させて戴き、手作り祭壇に花を手向け、心から皆さまのご冥福をお祈り申し上げ、一昨日帰京致した次第です。被災者の中にはそこそこにふっきれた表情も多数見られ少しばかり安堵しましたが、我が娘や孫の顔を思い出すから外へ出たくないと言う独居老人も数少なくありません。闘いは始まったばかりです。

 

天皇陛下が追悼文をお読みになられるワン・シーン

 

 天皇・皇后両陛下のご臨席をあおぎ行なわれた国立劇場での一周年。陛下は直近に心臓の手術を受けられ、短時間のご臨席ではありましたが、あの真摯なお言葉の全文を聞けば慈悲に溢れ感動せざるを得ません。その両陛下ご登場の折やご退場の折に、何故出席者一同全員でご起立をされなかったのか、海外での生活が長かった私には全く理解不能でした。確かに現法律では天皇陛下は国家元首ではありませんが、他国の国家元首とほぼ同等の激務にあたっていらっしゃって、その辺が不可思議でなりません。何とこの日が術後初めてのご公務であったとか。人の痛みが分からないような、いつそのような無分別な国家になったのでしょう。戦後の高度経済成長期あたりから、日本人は可笑しくなったのでしょうか。日本人の矜持を忘れた昨今に酷く寒気を覚えます。更に、最も早く最も多額の支援金を集め、それを日本へ送った台湾国家及び国民、私は大変尊敬しておりますが、その台湾代表の方を、一般団体のある二階席に追い遣り、しかも献花さえ許さなかった日本国政府は本当に品格のある国家なのでしょうか。感謝を表現するために多数の新聞広告を他国へ出しておきながら、台湾には全く出さず菅内閣はまことに非情でした。極めて困難な問題がないわけではありませんが、それとこれは別です。私は改めて本ブログを通じ、恥を失った我が国家の一国民として憮然たる思いを持って怒りを禁じ得ず、台湾の国民皆さまには心から心から非礼をお詫び申し上げたいと存じます。

 

NYの櫻満開の報道 (読売新聞 3月2日夕刊より)

 

 上記の写真はNYタイムズスクエアで、3月1日大型スクリーン12枚に櫻の花が一斉に映し出された時のものらしいです。観光庁が中心としてジャパン・ウィーク(1日~11日)が企画され、震災で失われた観光客を呼ぼうとしたもので、同時にアメリカの支援に感謝し、「日本は再び花を咲かせます」との文字も映し出された模様です。今年ワシントンの櫻も既に満開(2月26日頃)。両方の櫻とも日本から寄贈されて、今年でちょうど100年目の節目にあたります。お目出度いことですが、今年の北米の暖冬は不思議なぐらいです。欧州の大寒波や豪州の大水害も変です。三週間も遅れて、東伊豆の河津櫻が漸く昨日満開になりました。気候のどこかが変ですネ。でも3月末までは気温の上昇が一気に進み、染井吉野の開花は平年と比べ、多分一週間ほど遅れることになるでしょう。

 日本はどのような大災害にあっても必ず復興を遂げる民族だと信じています。この大災害により、改めて根本精神から立ち直って戴きたいと念願しましたが、どうやら怒涛のような根底からの復興は無理なようで、情けない思いがしてなりません。それでは少なくとも私たちグループだけでも前へ進まなくてはと存じました。危機に瀕した櫻の寿命の時期にあたり、全国の櫻の公園に、染井吉野ではなく、山櫻を植栽したい強い希望と、今再びの日本人の矜持をもって生きることが喫緊の私たちの課題です。新渡戸稲造が言う儒教精神から来た武士道か、本居宣長が言う「やまとごころ もののあはれ」か、佛教伝来以前の何かか、それはまだ分かりませんが、最低でもグループで取り上げて来た家訓の勉強会を通して、私たちなりの精神的基盤を作ることから始めましょう。

 巻頭写真で取り上げた福島市にある花見山は阿部一郎(92歳)さんがほぼ一人で60年以上掛けて創り上げた25㌶の観光花見園です。好きで創った山だからと言って、一切入場料は受け取りません。福島駅からタクシーでたった15分。昨年は原発事故の影響で、遠方からのお客はなく、市としても期待しているものを、今年は一部非公開にするそうです。踏まれて痛んだ場所があるからと言うのが表向きの理由ですが、風評被害で苦しんだ昨年に、阿部さんはきっと大いなる憤怒があったことでしょう。三春の瀧櫻さえも風評被害を受けました。私たちの櫻山は残念ながら、阿部さんの意図した山にはなりません。広葉樹と針葉樹も多く混在し、小鳥や虫や獣が来る自然に近い山にするつもりです。農業を含めて一次産業の復興と復活に私たちは賭けています。一部始まっておりますが、いずれ近々本ブログで公開致したく!

 


    そんぴんの美学

2012年02月18日 | 季節の移ろいの中で

 この冬一番うれしかった寒中見舞いの絵ハガキ (80歳のお婆ちゃんより)

私が被災地に差し入れした消しゴムハンコで描かれた現地からの絵ハガキ 

 

 

 

   そんぴんの美学

 

 

 すっかりブログの更新を怠っています。私たちにとって、この時季、一年で最も重要な仕事が山積みだからです。お蔭さまで、今年の植樹のエリアは雪のない地域に限られておりますので、順調にお仕事が進んでいますが、私たちの櫻山候補地の岐阜山中の豪雪地帯では、雪の時期にしか出来ない間伐の仕事もたくさんあり、息をつく間もありません。四箇所に分かれている私たちの山地は1,300ヘクタール。それほど大きな面積ではありませんが、高浜市とほぼ同じ面積になります。東京ドームで換算すると、ドーム278個分にあたります。でも所謂人工林の密度は低く、広葉樹林と針葉樹林の入り混じった天然自然の山中です。吉野奥千本に行く時、必ず通り抜けなければならない杉林密集の大嶺山修験者の道がありますが、無呼吸状態と言いますか、酸欠状態の人工林に、私たちはひどく哀しくなります。そんな人間の勝手気ままな理由でほったらかしにされた杉林は全国にどれだけ多いことでしょう。昨年9月19日に発生した台風12号により、和歌山・奈良・三重地方に甚大な被害を与えた大雨は、最悪の土砂崩れを起こし、幾多の堰止湖が出来ました。河しもの村では村民全員が避難し、幸いコトなきを得ましたが、考えてみますと、それら堰止湖は殆どが人工林が崩れた結果で、明治時代のあの巨人・南方熊楠がお山籠もりをし思索を深めた広葉樹の森の真下でした。杉の根は浅く、容易に倒木致します。道理で、京都・北山杉で有名な場所近辺でも放置されたままの杉林が多いようです。中には所有者が転々とし、所有者の所在すら分からない林もあります。住宅建築のための木材需要で造られた杉の人工林は国内産であることから、いつしか採算が取れないという理由で、その多くは間伐どころか、手入れすらされることがありませんでした。その結果出来た危うい堰止湖は、私たち日本人に天から究極の警告を発せられているに相違ありません。私たち櫻山計画の実行者は、単に櫻で自己満足するではなく、日本の林業の実態と真摯に向き合って参る所存です。櫻だけを植林する無謀な計画では全くありません。験しにそれとなく全国の自治体へ間伐の要請があるかどうか尋ねてみましたら、既に20件を超えています。営林署ですら手が廻らない状況で、正に危機的状況にあると言えましょう。私たちは地道に、美しい自然林を取り戻すべく一つ一つ取り組んで参ります。

 

 吉野 上千本より奥千本に至る大峰修験道 

 杉も人もこの漆黒の闇で呼吸が出来るでしょうか 

虫や小鳥も来るでしょうか

 

 今年の偏西風は極端で、欧州は何処でも大寒波です。アフリカ北部まで寒冷前線が張り出しています。あのニースだって寒さでブルブル状態というのですから驚きです。そしてオーストラリア東部では大洪水。アフリカ中部のサヘル地域では旱魃によって大凶作であり、日々数万人の子供たちが犠牲になっています。東南アジアには巨大なサイクロンが間断なく発生していて、その低気圧は漸く我が国にもやって来て春を迎えるかも知れません。可笑しなことに毎年寒さで凍える北米の今年は、暖冬で、何時も4月に開花するワシントンのポトマックリヴァー沿いの櫻は既に開花致しました。日本では未だに大寒波で、特に日本海側では大雪の雪害にあっています。九州北部や四国にも降雪被害があったのですから驚きです。そして雪下ろしの際に起きた事故が多発し、多くの死者が出てしまいました。痛ましいことで、心からお悔やみを申し上げなければなりません。昨夜東京でも雪が降りました。神さまは人が為すあらゆることに怒っておいでのことなのでしょうか。ユーロ危機と合わせ、欧州の大寒波は心配でなりません。そんな色々な大きな被害に合われた地方の方々からお叱りを受けるかも知れませんが、ウェザーマップ社から今年三度目の櫻の開花予想が、『さくら開花予想 2012』として発表されました。これは染井吉野の開花時期を予想されたものですが、今年は平年並みか、やや遅い開花予報となっています。東京の我が家の庭に咲く水仙の蕾も、白梅や豊後梅の蕾もまだまだ硬い状態で、咲いたのは日当りのいい場所にあるマンサクと蝋梅だけですが、トップに掲げた被災地からの寒中見舞いの絵ハガキのように、「春よ来い!早く来い!!」という心境でしょう。私の避難する場所はお墓ですと言って自殺された福島の80過ぎのお婆ちゃんが特別に思い出されてならない日々です。でもでも、もう直ぐ春が来ることを信じましょう。

 

避難所を毎週精力的に廻られる天皇・皇后両陛下

 

 

 本日、東大付属病院にて、天皇陛下が心臓の冠動脈バイパス手術を受けられました。昨日久し振りに丸の内の我がオフィスに出社する前に、宮内庁・坂下門へ行き、ご無事を祈りご記帳させて戴きました。ご無事で終えられることを心からお祈り申し上げますが、それにしても入院する直前までご公務されていらっしゃったとは何と申し上げていいのでしょう。3,11以来、今上天皇・皇后陛下におかせられましては、華やかな宮殿にてご公務あそばされることはなく、お住まいの御所中心でのご公務でありました。陛下にとりましては、あのお年にしては激務に違いなく、その上伝統的に大災害や大震災は、ご自身のせいだとされること、真に尊いことに他ありません。厳しい節電や、お食事まで極く質素になされていらっしゃいました。古代の天皇家では跡目継承問題があったやに伺いますが、武家社会、特に足利幕府の三代将軍・足利義満時代からは、完全に政治の実権は武士に奪われ、ご維新まで天皇家、及び公家は祈ることしか出来ませんでした。明治ご維新の頃から、薩長軍閥に担がれるまで、「祈り」が唯一の国民を思う手立てだったのです。いや、明治・大正・昭和の三代天皇も同じだったかも知れません。特に昭和天皇は8月15日の玉音放送を軍部の圧力に耐え、強行なさいました。短波放送を日本人で唯一聴けた方だからです。そして戦後、昭和天皇は積極的に各地をご巡幸され、多くの国民に愛されました。それを忠実に継承された今上天皇は戦後復興や、サイパンや沖縄訪問や、昭和天皇が為しえなかった平和外交を特別に重んじられ、阪神淡路大震災の際にも、今回の東日本大震災でも、いたく御心を痛められ、徹底した物忌みのご生活を送られていらっしゃったのです。ご病状の、一刻も早いご回復なされたいご一心で、果敢にも手術を受けられ、何としても3,11の一周年の式典(国立劇場で開催される)にご出席されたい御心は大変尊く、私たち日本は、お元気な天皇陛下とともに、来月の3,11をお迎えしたいものであります。心からご無事を念じてやみません。

 宮中での正月行事最後を飾るのは「宮中歌会始の儀」です。先月12日に今年も御所で行なわれました。講師(こうじ)が独特な抑揚で披講(ひこう)された御製(ぎょせい=天皇陛下の歌)と御歌(みうた=皇后陛下の歌)は東日本大震災を詠まれた歌で、皮肉にも今年のお題は「岸」。

 津波来し時の岸辺は如何なりと 見下ろす海は青く静まる (御製)

 帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく 岸といふ文字歳時記に見ず (御歌)

 海外からも寄せられた歌は全18,830首。最年少の歌詠み人は17歳の高校二年生・伊藤可奈さんでありました(岸辺から手を振る君へ振りかへす けれど夕日で君が見えない)。又成年皇族として初めて寄せられた秋篠家眞子さまの歌も披講され、大変感動的であったように思われます。日本民族の一番大切な特徴はこうした和歌にありましょう。皇后陛下の御歌にあったように、果たして歳時記には「岸」がないだろうかと探してみましたが、なるほど岸と言う文字の歳時記、或いは季語は全くありませんでした。天変地異も、どんな哀しみも、両陛下におかせられましては、果てしなくご自分のせいだとされる哀しみの思いを改めて感じた次第です。

 

遠藤きよ子さんの刺し子展より

 

 

 さて私が大好きな東北各地、中でも米沢。上杉謙信公や直江兼続の生き様が香り漂う米沢の方言は会津の方言と何処か似たところがありますが、そのうち注目すべき方言は「そんぴん」と言う言葉です。漢字に直せば、「損貧=頑固?」とでも訳せるのでしょうか。語彙は「へそまがり」とか、「ひねくれ」とか、「偏屈」とか言う意味ですが、何々これは米沢流で、現在まで残った立派な美学の言葉の一つと考えられてなりません。どんなに損しても貧しても米沢人としての矜持と誇りを頑なに忘れまいとする心意気であり、美意識です。米織と言う立派で豪華な絹織物文化はあるのですが、多分これらは藩内消費ではなく、輸出による資金作りの一環ではなかったかと、中興の祖・鷹山公に聞いてみたいものです。如かして普段では藩内の人々にとり、お粗末な木綿の着物で過ごすことが多く、着古すと着物を重ねて、純白の木綿糸で丁寧に補強し、然も様々な意匠を凝らした縫い目を縫っていたものを、大切に着ていたのではないかと思われます。お米の模様は豊作を念じ、六文銭の模様はお金に困らぬように、矢羽模様は主人の武勲をそれぞれ念じられたものでした。それを原方刺し子と言い、現在では遠藤きよ子さんと言う名人が継承していらっしゃいますが、彼女が主宰されていらっしゃる刺し子工房「創匠庵」が特に有名です。私も刺し子が大好きで、よく津軽古銀(本来は古巾=こきん)を収集しております。こうした刺し子文化の意義は究極のエコであり、何時までも無駄にしない精神文化に他なりません。特に下級武士(原方衆と呼ばれていた)の奥さまたちは、春待ちの間にやっていたようで、何故かとっても彼女たちがいとおしく思われてなりません。こんな寒い宵には多くの方々がひと針ひと針思いを籠め、趣向を凝らして木綿糸を操り手縫いしていたことでしょう。幾ら下級であっても武士の矜持を忘れぬように、玄関に縫い合わせた雑巾を置いていたようです。花ぞうきんと申します。

 今回の大震災で得た貴重な教訓は、日本的な精神文化の凄さです。エコであること、辛抱強くあること、心の立派さ、人としての誇り、そして武士道にも負けない一般庶民の痛烈な叡智でした。私たちなどたいしたことは出来ませんが、山櫻の凛とした美しさに願いを込め、ひたすら櫻道に邁進して参る所存です。原発反対を言うのなら、不必要なほどギンギラギンのパチンコ屋を嫌い、「Always 三丁目の夕日」の平常心に立ち返る毅然とした勇気が必要でしょう。例えGDPがまっさか様に落ち込んだとしても、平気なようなお顔で凛として生きる覚悟が大切だと思われてなりません。

 

 米沢・原方の刺し子 古い着物ほど美しい

 

 ※ 今夕6時のNHKニュースで、天皇陛下の冠動脈バイパス手術が見事に成功したと。どんなに嬉しいことでしょうか。東大 小野教授、順天堂大 天野教授の技術もチームワークもすべて完璧だったとか。素晴らしい!本当によかったと存じ上げます。ホッとし心から安堵致しました。退院後、再び激務が待っておりますので、どうぞどうぞこの際心置きなく、ごゆるりとご養生下さいますことをお祈り申し上げます。(硯水亭)

 


   あれから十ヶ月

2012年01月11日 | 季節の移ろいの中で

雪降る長谷寺

 

 

あれから十ヶ月

 

 

今日で、あれから十ヶ月となりましたが、

お変わりはないですか。

今朝の報道で被災地に降った降雪量を知り、

再びひどく心配になっています。

このところ、本職のほうで繁忙を極め、

お伺いすることが出来ず、甚だ恐縮に存じます。

仮設住宅に積もった雪下ろしに、

一刻も早く参りたい衝動でいっぱいです。

どうか周囲の皆さまに、ご遠慮なさらずに申し述べられ、

少しでもお楽になられますよう、心からお祈り申し上げます。

テレビや新聞で報道されているより遥かに深刻な事態で、

復興どころか、まだまだ復旧すらままなっていません。

私たちは充分認識し、あなたと共にいます。

 

金剛流に唯一現存する能 「雪」

 

私たちに朗報があります。

染井吉野は私たちが扱わないこと、衆知の事実ですが、

全国で、たった二箇所の公共施設に、

山櫻だけを植えて良いとのこと。どんなに嬉しいことでしょう。

私たちはまだまだ努力が足りませんが、

植栽の植え替えをやらせて戴くことになったのです。

寿命が短い櫻より、より長く持つ山櫻をお薦めし、

議論に議論を尽くし、お蔭さまで漸く纏まったものです。

無論、土壌の入れ替えや伐採も、すべてこちらが行うものです。

出来れば、全国のあちこち公共公園に、

役目を終えた染井吉野に替わる櫻の、

植え替え工事を行って参りたい所存です。

 

金剛流 「雪」 使用面は小面(こおもて)

 

努力さえすれば、夢は叶うものだと知りました。

努力しても、どうにもならない無念さを持つのが、

愛おしいあなた方被災者の皆さまご自身です。

 

全部で、たった500本で、山櫻の種類は14種類ですが、

土工事・堆肥入れ替え・排水工事などなど、

結構仕事があります。更に櫻の倍の数だけ、

落葉樹や低木の草木も植える予定です。

地元の多くの業者さんにもお手伝いを願います。

 

みんなして早めにこれらの仕事を終えたら、

全員でお伺い致します。これからが頑張り時ですものネ。

どうかお風邪など召しませぬよう、お気をつけ下さりませ。

 

 

硯水亭一同

 

 


  「箙」 あけましておめでとうございます

2012年01月01日 | 季節の移ろいの中で

昨年正月放送の 金春流シテ方 本田光洋師の「箙(えびら)」

このようにシテが面なしで舞うのを直面(ひためん)でという

 

 

 

「箙」 

 

あけましておめでとうございます

 

 

 

 皆さまあけまして、おめでとうございます。昨年は色々とご心配をお掛け致しましたが、今年こそ私たち皆で、櫻道を、ただひたすら邁進して参る所存です。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 紅白歌合戦で、最も感動致しましたのは、長渕剛の「ひとつ」でした。話は変わりますが、昨年正月演能の、金春流 本田光洋師・能「箙」と、観世流家元・観世清和師の「関寺小町」と、宝生流・當山孝道師の「籠太鼓」の三番が去年感服させられた演能でした。少ない観能の中、大変勉強になりました。又今年も深く鑑賞させて戴きたいと心から願っています。長渕剛の歌は時代に最も寄り添う歌ですが、変化しやすい時代には決して迎合しない、凛々として奥深く、そして古雅な能を堪能したいものです。

 下記に記しましたのは、大変感動致しました長渕剛の「ひとつ」の歌詞です。どうか今年こそ、未来を感じられる年になりますようにと、心からの祈りを籠め貼り付け致したいと存じます。原発より、生命が大事だとの思いも籠めて!

 

   『ひとつ』歌詞全文

           作詞・作曲・編曲/長渕剛 ストリングス編曲/弦一徹

    ひとりぼっちに させてごめんね
   もう二度と
   離さない 離れない 離したくない

   君によりそい そばに生きるよ
   もう二度と
   忘れない 忘れさせない 忘れたくない

   悲しみは どこから やってきて
   悲しみは どこへ 行くんだろう
   いくら考えても わからないから
   僕は悲しみを 抱きしめようと 決めた

   ひとつになって 
   ずっといっしょに 共に生きる
   ひとつになって
   君と生きる 共に生きる

   月のしずくが 涙にゆれて
   海に光る
   逢いたくて 逢えなくて それでも僕は探した
   星が降る夜 君を想い
   ずうっと 歩いたよ
   明日きっと 明日きっと しあわせになれるね

    永遠のしあわせは どこから やってきて
     永遠のしあわせは どこへ 行くんだろう
     いくら考えても わからないから
   僕は悲しみを 抱きしめようと 決めた

   ひとつになって
   ずっといっしょに 共に生きる
     ひとつになって
     君と生きる 共に生きる