1
幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、たしか高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の妙に近代的な風貌を備えた要塞というのがその時の印象だった。
江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。
いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭をある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。
函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。
五稜郭はすっかり雪のなかにあった。
まずはその姿を俯瞰してみようと、隣接する五稜郭タワーに上ってみる。
ところが、案に相違して、上空から眺め見ようとした五稜郭は、舞い落ちる雪のため、すっかり霞んでしまい、その全貌を見通すことができなかった。目にしたものは、要塞の外郭をぐるりとかこむ凍てついた濠ばかりであった。
それにしても、かつては、荒野の真ん中に、突如生まれた要塞であったというが、いま上空から眺めるそれは、古代古墳のように町並みにぐるりと囲まれて片身がせまい。
要塞の敷地内には幾つかの構築物が立っていたはずである。それらが消えてしまっているためと、城郭がすっぽり雪の中に埋まってしまっているので、要塞全体がじつに立体感を欠いた、変哲のないものに見える。まさに廃墟というにふさわしい眺めである。
実際、五稜郭を見るまでは、もっと起伏のある場所にあるものと想像していた。城郭というものは、そうしたものだという先入観がつくりだした幻像であったかも知れないが。
ところが、意外なことに、それはじつに平坦な地に横たわっているのであった。しかも、ずいぶんと内陸部に位置している。 海防の目的で構築された要塞にしては海からだいぶ離れているのである。
五稜の位置については、当初、もっと内陸に築造すべき、という意見があった。五稜郭の設計者、竹田斐三郎は、海から放たれる大砲の飛距離から考えて、充分に安全な地ではないと終止反対したという。当時、すでに大砲の飛距離は四キロもあったのである。
実際、函館戦争のおり、政府の最新鋭艦ストンウォール号から放たれた砲弾が、この五稜郭に着弾している。
結局、反対意見があるにもかかわらず、現在の地に定められたのは、ここが要塞以外の役割、すなわち、公的機能をもつ拠点にするという役割をも持たせられたからだった。となれば、あまり辺鄙なところではなく、人の出入りが容易な、地形的にも平らなところである必要があった。
五稜郭タワーをおり、地上から五稜郭を観察することにする。
降り積もる雪の中を、半月堡に架かる橋を渡り、さらに大手門に通じる橋を通って郭内に足を踏み入れてみた。
雪をかぶった赤松が濠に沿う土塁伝いに気品ある風情で並んでいる。雪に埋もれた要塞跡は、まさに歴史が凍りついたように、ひっそりと息づいていた。
郭内を歩きながら、五稜郭が五角形をしているのには、どんな意味があったのだろうかと、ふと考える。
いわゆる将棋頭堡と呼ばれる、せり出した五つの堡塁のひとつの先端に立ってみる。視覚が左右にぐっと開ける。両隣の堡塁が雪交じりの灰色の空の下でもよく見通せる。
なるほど、これであれば、ひとたび外部からの攻撃があっても、どこからでも対応できると合点する。そこには、大砲が備えられ、弾薬庫が置かれていたのである。
上空からはよく分からなかったが、要塞の周囲を取り巻くように高さ六メートルの土塁が組まれ、その土塁下の濠ふちにも盛り土されている。堅固な防壁がつくられていたことが分かる。計画ではさらに濠の外側にもぐるりと巡るように長斜堤が築かれる予定だったが、それはつくられなかった。
未完成部分はほかにもある。南西側の凹部に現在も残る矢尻のように三角状に張り出す半月堡がある。大手門を潜る前に足を踏み入れることになる出城風のその堡塁は、計画では、五稜の凹部にそれぞれ五カ所造られるはずであったというが、これも一カ所にしかない。
完成の暁には、陣地攻防に備えて、二重、三重にも手の込んだ工夫がなされるはずであった。が、結局、それは果たされることはなかったのである。 続く
幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、たしか高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の妙に近代的な風貌を備えた要塞というのがその時の印象だった。
江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。
いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭をある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。
函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。
五稜郭はすっかり雪のなかにあった。
まずはその姿を俯瞰してみようと、隣接する五稜郭タワーに上ってみる。
ところが、案に相違して、上空から眺め見ようとした五稜郭は、舞い落ちる雪のため、すっかり霞んでしまい、その全貌を見通すことができなかった。目にしたものは、要塞の外郭をぐるりとかこむ凍てついた濠ばかりであった。
それにしても、かつては、荒野の真ん中に、突如生まれた要塞であったというが、いま上空から眺めるそれは、古代古墳のように町並みにぐるりと囲まれて片身がせまい。
要塞の敷地内には幾つかの構築物が立っていたはずである。それらが消えてしまっているためと、城郭がすっぽり雪の中に埋まってしまっているので、要塞全体がじつに立体感を欠いた、変哲のないものに見える。まさに廃墟というにふさわしい眺めである。
実際、五稜郭を見るまでは、もっと起伏のある場所にあるものと想像していた。城郭というものは、そうしたものだという先入観がつくりだした幻像であったかも知れないが。
ところが、意外なことに、それはじつに平坦な地に横たわっているのであった。しかも、ずいぶんと内陸部に位置している。 海防の目的で構築された要塞にしては海からだいぶ離れているのである。
五稜の位置については、当初、もっと内陸に築造すべき、という意見があった。五稜郭の設計者、竹田斐三郎は、海から放たれる大砲の飛距離から考えて、充分に安全な地ではないと終止反対したという。当時、すでに大砲の飛距離は四キロもあったのである。
実際、函館戦争のおり、政府の最新鋭艦ストンウォール号から放たれた砲弾が、この五稜郭に着弾している。
結局、反対意見があるにもかかわらず、現在の地に定められたのは、ここが要塞以外の役割、すなわち、公的機能をもつ拠点にするという役割をも持たせられたからだった。となれば、あまり辺鄙なところではなく、人の出入りが容易な、地形的にも平らなところである必要があった。
五稜郭タワーをおり、地上から五稜郭を観察することにする。
降り積もる雪の中を、半月堡に架かる橋を渡り、さらに大手門に通じる橋を通って郭内に足を踏み入れてみた。
雪をかぶった赤松が濠に沿う土塁伝いに気品ある風情で並んでいる。雪に埋もれた要塞跡は、まさに歴史が凍りついたように、ひっそりと息づいていた。
郭内を歩きながら、五稜郭が五角形をしているのには、どんな意味があったのだろうかと、ふと考える。
いわゆる将棋頭堡と呼ばれる、せり出した五つの堡塁のひとつの先端に立ってみる。視覚が左右にぐっと開ける。両隣の堡塁が雪交じりの灰色の空の下でもよく見通せる。
なるほど、これであれば、ひとたび外部からの攻撃があっても、どこからでも対応できると合点する。そこには、大砲が備えられ、弾薬庫が置かれていたのである。
上空からはよく分からなかったが、要塞の周囲を取り巻くように高さ六メートルの土塁が組まれ、その土塁下の濠ふちにも盛り土されている。堅固な防壁がつくられていたことが分かる。計画ではさらに濠の外側にもぐるりと巡るように長斜堤が築かれる予定だったが、それはつくられなかった。
未完成部分はほかにもある。南西側の凹部に現在も残る矢尻のように三角状に張り出す半月堡がある。大手門を潜る前に足を踏み入れることになる出城風のその堡塁は、計画では、五稜の凹部にそれぞれ五カ所造られるはずであったというが、これも一カ所にしかない。
完成の暁には、陣地攻防に備えて、二重、三重にも手の込んだ工夫がなされるはずであった。が、結局、それは果たされることはなかったのである。 続く