場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

会津藩遠流 ・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその1ー

2021-12-24 13:17:58 | 場所の記憶

 歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。
 会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。今見ることのできる城は、昭和40年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後取り壊されてしまった。
 この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。  
 それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。
 この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつくことだろう。
 わたしが会津若松を訪れたのは、ちょうど秋祭りがとりおこなわれているさなかであった。そのためもあってか、市内は時が逆戻りしたように古色につつまれていた。
 武者行列が町のせまい街路を練り歩き、天守閣がそびえる広い中庭では、居合抜きの競技会がおこなわれていた。町は、なにやらあの籠城戦の時の雰囲気を彷彿させるあわただしさに満ちていた。
 会津戦争は慶応四年8月23日にはじまった。兵員三万とも四万ともいわれる官軍が、怒涛の勢いで一気に城下に突入したのである。以来、9月22日の落城にいたる一カ月ほどのあいだ、壮烈な籠城戦が繰り広げられた。
 この戦いの最中、数え切れぬほどの悲劇が生起した。戦いはつねに悲劇をともなうものである。しかも、それら悲劇のひとつひとつには拭いがたい残酷さが付着している。負けた側が引き受けねばならない悲惨というべきか。幾つもの悲劇が今でも土地の人々に語り継がれている。
 そのひとつに城代家老西郷頼母の家族の自刃がある。旧城下の大手筋にあたる甲賀通り沿い、ちょうど城の北出丸の追手門を目の前にする通りの東側に西郷邸はあった。甲賀通りは、幅18メートルほどの広さの通りである。ちなみに、市内の道路は、南北の通りを「通」と言い、東西の通りを「丁」と呼びならされている。
 出来事の顛末は次のようなものであった。 
 官軍が市内に迫った8月23日のことである。土佐藩を主体とする突撃隊は、鶴ガ城の北出丸に向けて突進していた。一隊は城の前面に建つ広壮な邸宅に足を踏み入れようとしていた。屋敷の内部は妙に静まりかえっている。突撃隊は屋敷の中の廊下を突き進んでいく。すると奥の間に突き当たった。
 隊長の土佐藩士中島信行は、その襖を勢いよく開け放った。中島は、その瞬間、あっと息を呑んだ。死装束をまとった幾人もの女たちが血の海の中で悶絶していたのである。
女たちは、城代家老西郷頼母の妻女をはじめ、その娘たち四人と西郷家一門の家族、総員21人の老幼男女であった。
 この出来事は、惨劇からまぬがれた頼母の長子吉十郎が、のちに登城し、父にそれとなく話したことで会津側にも明るみになった。 
 じつは頼母は、こうなることを先刻承知していたのである。登城前、頼母は自分の家族を集め、西郷家の身の処し方について言い残しておいた。そして、一人ひとりに辞世を作らせ、みずからその添削に手を染めた。
 そして、敵が押し寄せた時には、みずからの命を断つようにと、妻女らに諄々と説いておいたのである。その結果の自刃であった。
 頼母が家族にそうすることを強いた確かな理由があった。
西郷頼母は恭順派、非戦論者として知られていた。藩主松平容堂の京都守護職就任に反対し、そのために家老職を解かれ、以来、五年間藩政とのかかわりを断っていた人物であった。
 ところが、慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いの敗北が会津に伝えられるや、藩国存亡の秋(とき)来る、ということで頼母は再度登用されることになった。 彼はその時もなお恭順を説いたが、事態はもはや恭順論が受け入れられる状況ではなかった。そして、止むなく会津軍の白河口総督として出陣することとなった。
 大勢に抗しつつ、それに押し流されて行かざるを得なかった無念さはいかばかりであったであろうか。とはいえ、今や体制の外にいつづけることは、自分の気持ちが許さなかった。当時の封建道徳を信奉する者としては当然の考えであったろう。 
 すでに決死の覚悟であった。彼は自らの家族にも生き死についてのありようを悟らせていた。この姿勢は、敵味方双方に対して、武士としての気概を示そうとするものだった。それは軟弱と非難されてきた我が身に対する最後の矜持の証明といえた。
 矜持をつらぬいて自刃したこの西郷頼母家と同じような悲劇は、会津戦争のさなかにほかにも数々あった。
 寄合組中隊頭井上丘隅の家は甲賀口の本五ノ丁の角にあった。井上は敵が家のすぐそばまで押し寄せてきたことを知り、妻と子を介錯して自刃、「もろともに死なむ命も親と子のただ一筋のまことなりけり」という辞世を残している。
 本四ノ丁角に住まう寄合組中隊頭木村兵庫は、八人の家族を刺し殺したあと、自身も自刃した。
 同じく寄合組中隊頭の西郷刑部の妻は留守家族五人とともに自害している。小隊頭永井左京は戦いで負傷した身体を家で横たえている時、敵の来襲にあい、家族七人とともに自刃している。
 ほかにも、野中此右衛門とその家族の死、高木豊次郎家の死、有賀惣左衛門の妻子の死などがあげられる。さらに、悲劇は下士の家族にも及んでいる。
 これら一連の悲劇は、8月23日、薩摩、長州、土佐藩などの連合軍三千の兵が市内に突入したその日に、すべて起きたことであった。
 一方、誇りを捨てず、命を賭して戦った者たちもいた。
会津戦争最大の激戦と言われた甲賀口で、最後まで防戦し討ち死にした田中土佐と神保内蔵助は、ともに家老職の身分だった。
 甲賀町通り沿いは上級の武家屋敷が集まる地区であったが、そこが官軍の侵入通路になり、主戦場になったのである。 
 女たちも戦った。会津娘子軍の名で知られる婦女薙刀隊の隊長格であった中野竹子の討ち死にもそのひとつである。
竹子の率いる薙刀隊は、若松郊外の柳橋(市の西北)という地で敵とわたりあったが、この時竹子は敵の弾にあたって戦死した。この薙刀隊員の服装は、髪は斬髮、白羽二重を着込み、鉢巻き姿の、男勝りのいで立ちで話題になった。
 家老職にありながら城の外にあって、野戦の総指揮にあたった佐川官兵衛の、何物かにとりつかれたような戦いも、のちのちの語り草になった。
 そして、会津藩の代表者として責任を取らされた家老職のひとり管野権兵衛の死も武士の誇りを示すに充分の行いだった。落城後、管野は藩主になりかわり、この戦いの最高責任者として切腹させられたのである。
 同じ朝敵になった藩の中で、会津藩ほど薩長側から憎悪の標的とされた藩はなかった。それはいかなる理由からであったのか。   続く
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