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五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。 このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。
この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年を経て完成したものだ。
一方、五稜郭の工事は安政四年の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断。計画の五分一段階での終了であった。未完成の理由は予算不足だったのである。
そもそも、弁天台場と五稜郭の築造はセットで計画され、工事が行われたものだった。弁天台場に対して、五稜郭が奥の台場と呼ばれたのもそれを裏付けている。
その弁天台場も五稜郭も設計、監督者は竹田斐三郎という人物であった。
彼は伊予大洲の出身の洋式軍学者で、大坂にあった緒方洪庵の適塾に入門。その後、江戸に出て、佐久間象山の弟子になる。
その彼が、ふとしたことで、当時箱館にあった箱館奉行支配の学問所・諸術調所の教授になった。そこで彼は蘭、英、露語をはじめ、航海術、測量術、築城術などを教えることになる。自由な気風にあふれた学問所にはたくさんの俊才が集まったという。
生来、器用なところがあり、なんでもつくってしまうという異才を発揮していた竹田に、ある日、奉行所から特命が下った。それが溶鉱炉の建造であり、台場砲台、五稜郭の築造であった。
実際、工事が始まってからの竹田の苦労は大変なものであったらしい。
机上プランは、幾度か現場の状況によって変更を余儀なくされ、そのため予定外の出費がかさなることになった。
五稜郭の工事は日に六千人もの労役人を使役して行われたといわれている。広く全国各地から人夫の募集がなされたが、それだけでは追いつかず、付近の農民までが労働に駆り出されることになった。
このため大量の人が五稜郭周辺に人が集まり、にわかの町ができて賑わったという。安政六年には、先の条約に従って、箱館が貿易港として開港したこともあって、さらに人口が急増した。
海防強化の目的の一環で造られた五稜郭が、後年、榎本武揚ら幕府脱走軍の立て籠もる砦になったのは皮肉なことである。
ところで、その榎本脱走軍は、どのような経緯で五稜郭に拠ったのだろうか。
慶応四年(1868)八月、幕府海軍副総裁、榎本武揚率いる八隻の軍艦、輸送船が、江戸湾を脱出した。そこには新政府に不満な旧幕府の武士たちが乗り込んでいた。
この艦隊のなかに、八年前の万延元年、勝海舟、福沢諭吉らが遣米使節団に随行した際に乗船した咸臨丸もまじっていた。咸臨丸はその後、銚子沖で座礁してしまい、箱館には行けなかったのだが。
艦隊の船上にあったのは武士ばかりではなかった。町人や農民までもまじっていた。彼らはいまやフランス式歩兵大隊の兵士の一員であった。それに上野の戦争に敗れ、逃れてきた彰義隊士や土方歳三をはじめとする新撰組の残党もいた。
当時、その艦隊がいずこに向かうか誰も知らなかった。北へ進んだ艦隊は、仙台湾を通過したあと、北海道の南、噴火湾内森町付近の鷲ノ木沖にその姿を現した。
そこは箱館のはるか北方に位置する場所である。直接、箱館に行かず、鷲ノ木に上陸したのは、外国船が出入りする箱館湾で一戦を交えた際の、周辺の被害を考えてのことだった、といわれている。
すでに明治と改元された、同じ年の旧暦十月二十日(現在の十一月)のことである。 彼らは鷲ノ木に上陸するや、雪降るなかを、二手にわかれ、一隊は本道の森〜峠下の内陸コースを、他の一隊は森〜川汲の間道をたどって、一路、箱館郊外にある五稜郭を目指した。
彼らは以前から、箱館に五稜郭という要塞があり、そこを根城にすることが、戦略上有利であることを知っていた。
そのことをいちばん知りぬいていたのは、総督の榎本本人であった。彼は、若かりし頃そこを訪ねたことがあった。わずかながら土地勘があった。
五稜郭に入城するにあたって、そこは無人の地であったわけではなかった。すでに、新政府は、そこに知事府を置いていた。それを排除しての入城となった。
庁舎は平屋建ての入母屋造りで、屋根の中央に太鼓やぐらが載っていた。その太鼓やぐらからは、起床、点呼、食事、就寝を告げるラッパの音が響きわたった。庁舎の広間は会議室として使われ、そこでは連日軍議が開かれた。
五稜郭に地歩を固めてからの旧幕榎本軍は、そこを根城にして、ある時は、江差、松前方面へ進撃。また、ある時は、海陸両方面から攻勢をかけるという巧みな作戦でしだいに軍事的勝利を収めていく。
こうして、籠城というよりも、五稜郭を出陣基地として、彼らは周辺に勢力を拡大していった。
そして、その年の十二月十五日、晴れて蝦夷全島平定祝賀会なるものが開かれる。これは事実上の、蝦夷政府の宣言であった。
新政府が、彼ら旧幕脱走兵に追っ手を差し向けるには、多少の時間が必要だった。
新政府が、幕府脱走軍追討の行動を開始したのは、翌年の明治二年三月。追討軍はアメリカから買い入れた新鋭軍艦「甲鉄」を先頭に箱館を目指した。
政府軍艦隊はやがて青森に集結、そこから津軽海峡を越えて、渡島半島の西部、乙部に上陸する。四月九日のことだ。
政府軍は上陸するや、ただちに内陸部に侵入した。そこは、さしもの脱走軍も防備を固めていない場所であった。
官軍の艦隊は乙部に一部の軍勢を上陸させた後、その足で南下。江差を砲撃したあと、松前、木古内、矢不来と進み、じわじわと箱館に迫り、脱走軍を追い詰めていった。
そして、五月十一日、ついに五稜郭総攻撃の火蓋が切って落とされる。
政府軍はまず、軍艦による艦砲射撃を開始。その後、箱館山に三門の大砲を引き上げ、陸から砲撃を仕掛けた。
大砲の狙いは正確であった。地面に張りつくように造られた要塞ではあったが、庁舎の屋根に取り付けられた太鼓やぐらが目標になっていた。
この攻撃により、弁天台砲台は陥落、五稜郭も甚大な被害をこうむった。前衛基地である千代ケ岱砦は、白兵戦のうえ多数の戦死者を出し崩れ去った。この間、新撰組の副長であった土方歳三(34歳)が、官軍に占拠された箱館市内を奪い返すために出撃し、一本木の関門付近で戦死している。同じ頃、箱館湾で敵を迎え撃つべく待機していた旧幕軍の生き残り艦隊の回天、蟠竜、千代田もことごとく官軍の手に落ちることになる。
が、この戦闘のさなか、幾度か出された降伏勧告にもかかわらず、五稜郭側は抵抗しつづけた。
次第に籠城軍は補給路を断たれ、戦闘力を失っていった。逃亡者もあとを断たなかった。そうしたなか、五月一七日、本営内では最後の軍議が開かれた。結論は、涙をのんで降伏するということだった。結果はすでに見えていたのである。
その夜、官軍から差し入れられた酒樽が開かれ、苦い酒を口にしながら、士官、兵士たちは最後の夜を過ごした。
明治二年五月十八日朝、郭内の広場に、改めて全員が集められた。榎本はそこで「五稜郭は降伏する」旨の宣言をした。
榎本はその後、幹部三人を連れ、郭内を出た。正式に降伏の申し出をするためであった。官軍は彼らを丁重に扱い、そののちいずこかに連行していった。そして、あとに残された六百人近くの士官や兵士たちは、郭内を清掃し、武器を一カ所に集めてから、全員要塞を出た。彼らはその後、青森まで護送され、そこで全員が釈放された。
ここに明治維新の動乱は終結をみたのである。それとともに、榎本が夢見たエゾ共和国の建設も潰え去るのである。
その後の五稜郭について語ろう。
明治五年、榎本軍が本営として使っていた庁舎が取り壊される。これは廃城令に基づいての措置であった。そして、その一部は、解体された後、しばらく函館市の役所の建物として使われていたという。
現在、郭内に残る当時のものとしては寒冷地に強いということで植えられた赤松の林と古井戸と糧秣庫がある。 糧秣庫は、明治の後年、兵舎として使われた後、無人の建物として残り、あたりは雑草が生い茂る、まさに廃墟の状態であったという。
それらはいま、廃墟のなかから五稜郭公園としてよみがえり、緑が目に映える季節になると、市民の格好の憩いの場所になる。
年移り、人替わり、五稜郭の過去の記憶が遠のくなかで、そこにわずかに残る歴史の痕跡をたどれば、ありし日のできごとが改めて彷彿としてくるのである。 完
五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。 このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。
この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年を経て完成したものだ。
一方、五稜郭の工事は安政四年の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断。計画の五分一段階での終了であった。未完成の理由は予算不足だったのである。
そもそも、弁天台場と五稜郭の築造はセットで計画され、工事が行われたものだった。弁天台場に対して、五稜郭が奥の台場と呼ばれたのもそれを裏付けている。
その弁天台場も五稜郭も設計、監督者は竹田斐三郎という人物であった。
彼は伊予大洲の出身の洋式軍学者で、大坂にあった緒方洪庵の適塾に入門。その後、江戸に出て、佐久間象山の弟子になる。
その彼が、ふとしたことで、当時箱館にあった箱館奉行支配の学問所・諸術調所の教授になった。そこで彼は蘭、英、露語をはじめ、航海術、測量術、築城術などを教えることになる。自由な気風にあふれた学問所にはたくさんの俊才が集まったという。
生来、器用なところがあり、なんでもつくってしまうという異才を発揮していた竹田に、ある日、奉行所から特命が下った。それが溶鉱炉の建造であり、台場砲台、五稜郭の築造であった。
実際、工事が始まってからの竹田の苦労は大変なものであったらしい。
机上プランは、幾度か現場の状況によって変更を余儀なくされ、そのため予定外の出費がかさなることになった。
五稜郭の工事は日に六千人もの労役人を使役して行われたといわれている。広く全国各地から人夫の募集がなされたが、それだけでは追いつかず、付近の農民までが労働に駆り出されることになった。
このため大量の人が五稜郭周辺に人が集まり、にわかの町ができて賑わったという。安政六年には、先の条約に従って、箱館が貿易港として開港したこともあって、さらに人口が急増した。
海防強化の目的の一環で造られた五稜郭が、後年、榎本武揚ら幕府脱走軍の立て籠もる砦になったのは皮肉なことである。
ところで、その榎本脱走軍は、どのような経緯で五稜郭に拠ったのだろうか。
慶応四年(1868)八月、幕府海軍副総裁、榎本武揚率いる八隻の軍艦、輸送船が、江戸湾を脱出した。そこには新政府に不満な旧幕府の武士たちが乗り込んでいた。
この艦隊のなかに、八年前の万延元年、勝海舟、福沢諭吉らが遣米使節団に随行した際に乗船した咸臨丸もまじっていた。咸臨丸はその後、銚子沖で座礁してしまい、箱館には行けなかったのだが。
艦隊の船上にあったのは武士ばかりではなかった。町人や農民までもまじっていた。彼らはいまやフランス式歩兵大隊の兵士の一員であった。それに上野の戦争に敗れ、逃れてきた彰義隊士や土方歳三をはじめとする新撰組の残党もいた。
当時、その艦隊がいずこに向かうか誰も知らなかった。北へ進んだ艦隊は、仙台湾を通過したあと、北海道の南、噴火湾内森町付近の鷲ノ木沖にその姿を現した。
そこは箱館のはるか北方に位置する場所である。直接、箱館に行かず、鷲ノ木に上陸したのは、外国船が出入りする箱館湾で一戦を交えた際の、周辺の被害を考えてのことだった、といわれている。
すでに明治と改元された、同じ年の旧暦十月二十日(現在の十一月)のことである。 彼らは鷲ノ木に上陸するや、雪降るなかを、二手にわかれ、一隊は本道の森〜峠下の内陸コースを、他の一隊は森〜川汲の間道をたどって、一路、箱館郊外にある五稜郭を目指した。
彼らは以前から、箱館に五稜郭という要塞があり、そこを根城にすることが、戦略上有利であることを知っていた。
そのことをいちばん知りぬいていたのは、総督の榎本本人であった。彼は、若かりし頃そこを訪ねたことがあった。わずかながら土地勘があった。
五稜郭に入城するにあたって、そこは無人の地であったわけではなかった。すでに、新政府は、そこに知事府を置いていた。それを排除しての入城となった。
庁舎は平屋建ての入母屋造りで、屋根の中央に太鼓やぐらが載っていた。その太鼓やぐらからは、起床、点呼、食事、就寝を告げるラッパの音が響きわたった。庁舎の広間は会議室として使われ、そこでは連日軍議が開かれた。
五稜郭に地歩を固めてからの旧幕榎本軍は、そこを根城にして、ある時は、江差、松前方面へ進撃。また、ある時は、海陸両方面から攻勢をかけるという巧みな作戦でしだいに軍事的勝利を収めていく。
こうして、籠城というよりも、五稜郭を出陣基地として、彼らは周辺に勢力を拡大していった。
そして、その年の十二月十五日、晴れて蝦夷全島平定祝賀会なるものが開かれる。これは事実上の、蝦夷政府の宣言であった。
新政府が、彼ら旧幕脱走兵に追っ手を差し向けるには、多少の時間が必要だった。
新政府が、幕府脱走軍追討の行動を開始したのは、翌年の明治二年三月。追討軍はアメリカから買い入れた新鋭軍艦「甲鉄」を先頭に箱館を目指した。
政府軍艦隊はやがて青森に集結、そこから津軽海峡を越えて、渡島半島の西部、乙部に上陸する。四月九日のことだ。
政府軍は上陸するや、ただちに内陸部に侵入した。そこは、さしもの脱走軍も防備を固めていない場所であった。
官軍の艦隊は乙部に一部の軍勢を上陸させた後、その足で南下。江差を砲撃したあと、松前、木古内、矢不来と進み、じわじわと箱館に迫り、脱走軍を追い詰めていった。
そして、五月十一日、ついに五稜郭総攻撃の火蓋が切って落とされる。
政府軍はまず、軍艦による艦砲射撃を開始。その後、箱館山に三門の大砲を引き上げ、陸から砲撃を仕掛けた。
大砲の狙いは正確であった。地面に張りつくように造られた要塞ではあったが、庁舎の屋根に取り付けられた太鼓やぐらが目標になっていた。
この攻撃により、弁天台砲台は陥落、五稜郭も甚大な被害をこうむった。前衛基地である千代ケ岱砦は、白兵戦のうえ多数の戦死者を出し崩れ去った。この間、新撰組の副長であった土方歳三(34歳)が、官軍に占拠された箱館市内を奪い返すために出撃し、一本木の関門付近で戦死している。同じ頃、箱館湾で敵を迎え撃つべく待機していた旧幕軍の生き残り艦隊の回天、蟠竜、千代田もことごとく官軍の手に落ちることになる。
が、この戦闘のさなか、幾度か出された降伏勧告にもかかわらず、五稜郭側は抵抗しつづけた。
次第に籠城軍は補給路を断たれ、戦闘力を失っていった。逃亡者もあとを断たなかった。そうしたなか、五月一七日、本営内では最後の軍議が開かれた。結論は、涙をのんで降伏するということだった。結果はすでに見えていたのである。
その夜、官軍から差し入れられた酒樽が開かれ、苦い酒を口にしながら、士官、兵士たちは最後の夜を過ごした。
明治二年五月十八日朝、郭内の広場に、改めて全員が集められた。榎本はそこで「五稜郭は降伏する」旨の宣言をした。
榎本はその後、幹部三人を連れ、郭内を出た。正式に降伏の申し出をするためであった。官軍は彼らを丁重に扱い、そののちいずこかに連行していった。そして、あとに残された六百人近くの士官や兵士たちは、郭内を清掃し、武器を一カ所に集めてから、全員要塞を出た。彼らはその後、青森まで護送され、そこで全員が釈放された。
ここに明治維新の動乱は終結をみたのである。それとともに、榎本が夢見たエゾ共和国の建設も潰え去るのである。
その後の五稜郭について語ろう。
明治五年、榎本軍が本営として使っていた庁舎が取り壊される。これは廃城令に基づいての措置であった。そして、その一部は、解体された後、しばらく函館市の役所の建物として使われていたという。
現在、郭内に残る当時のものとしては寒冷地に強いということで植えられた赤松の林と古井戸と糧秣庫がある。 糧秣庫は、明治の後年、兵舎として使われた後、無人の建物として残り、あたりは雑草が生い茂る、まさに廃墟の状態であったという。
それらはいま、廃墟のなかから五稜郭公園としてよみがえり、緑が目に映える季節になると、市民の格好の憩いの場所になる。
年移り、人替わり、五稜郭の過去の記憶が遠のくなかで、そこにわずかに残る歴史の痕跡をたどれば、ありし日のできごとが改めて彷彿としてくるのである。 完