場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

冬の足音

2021-11-20 19:30:09 | 場所の記憶

お市は二十歳。そろそろ縁談話が持ち込まれる年頃である。現に叔母が嫁入り話を持ち込むことがしばしばあった。が、お市にはある思いがあった。数年前、父親の元で修業していた時次郎という男が忘れられなかった。そのため、持ち込まれた縁談話には気乗りしなかった。なぜ、時次郎は父の元を去ったのか。母親にそのことを尋ねると、悪い女に引っかかって、家の金を盗んだうえ蓄電したのだという。それを聞いてお市は思った。時次郎は悪い女にまつわりつかれて、逃れようもない場所に追い詰められていったのだと。
ある日、叔母が持ってきた話にお市は少し心を動かされた。が、その返事をする前に確かめたいことがあった。
時次郎に会って、彼の気持ちをたしかめたく思った。お市は、こんこんと身体の奥から噴き上がるものに衝き動かされていた。
久しぶりに時次郎に会うと、懐かしさがこみ上げてきた。思わず彼の胸のなかに飛び込んでいた。そして、「あのひとと別れて」と今の自分の気持ちを吐き出した。が、意外なことに、時次郎はそれはできないと泣いていた。聞けば、すでに子供が二人いるという。それを聞いて、お市はとんだ思い違いをしていたことを知った。「遠い空に血のような色に染まった雲が浮かんでいた。雲も、その雲を浮かべている暮れ色の空も冬を告げていた。風もないのに四方から寒気が押し寄せ、心の中までひびく冬の足音をお市は聞いた」   「夜の橋」より

・お市の家がある蔵前の森田町からここまで、何ほどの距離でもない。

・表通りの千住街道に出て、諏訪町の方に歩きながら、お市はそう思った。すぐにも黒江町の松ちゃんという家を訪ねたがったが、深川は遠く、町はたそがれ色に包まれていた。

・深川は橋が多い町である。お市はひとつの橋の上に立ちどまると、欄干に寄って、髪から抜き取った簪を、暗い川に投げこんだ。

小説の舞台:浅草 深川  地図:国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図「深川」、「浅草」 タイトル写真:蔵前御蔵、首尾の松碑