場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

2023-10-09 00:05:01 | 場所の記憶
 日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。
 東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。
 朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。
 あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。
 その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、夜叉のよう な姿をした深沙(じんじゃ)大王があらわれ、手にした二匹の蛇を投げると蛇はたちまち橋に変じ、上人一行は川をわたることができた、という。いわゆる蛇橋(神橋)伝説である。
 勝道上人のことはのちにも触れるが、上人一行が日光を訪れ、大谷川をわたったのは、天平神護2年(766)のことだ。世は天平時代、道鏡が権勢をほしいままにしていた頃である。
 勝道上人が日光を開山したゆえんについては、ある時、夢のなかに、明星天子があらわれ、「汝はこれから仏道を学び、成人したら日光山を開け」と告げられたからだという。
 明星天子というのは、金星のことで、それを祀る星の宮という旧跡が、神橋のすぐ近くにある。勝道上人が日光開山後に祀ったものであるという。 
 無事、大谷川をわたり、山中に分け入ることができた上人は、そののち、とある場所で紫雲が立ちのぼるのを見て、そこに小さな草庵を結ぶことになる。現在、四本竜寺が建つ地で、日光発祥の地とされる場所である。
 今日、日光というと、ほとんどの人が東照宮を想起するのは自然のことだろう。それほどに、日光は徳川家康にゆかりの深い地となっている。が、日光は家康の霊廟がつくられる以前からすでに勝道上人伝説にみるように、聖なる地としてあったのである。家康がみずからの奥津城として、この地を選んだのも、その聖性ゆえであった。
 観光客のほとんどが東照宮の方角に足を向けるのを尻目に、道を右に折れ、人影のない緑陰の奥に分け入ってゆく。すぐに前方に本宮神社と四本竜寺の堂宇が見えてくる。
 古寂びた石段をのぼると、まず目にするのが本宮神社である。唐門、拝殿、本殿といずれも端正なたたずまいで建っている。忘れ去られたような建物だが、いずれも重要文化財になっている。貞享2年(1685)に建立されて以来の社殿という。
 この社が本宮とよばれるのは、男体山の奥宮、中禅寺湖の中宮祠に対する名称で、のちに東照宮の隣に二荒山神社本社(新宮)ができ、二荒山神社の別宮となったのちも呼称は変わらないでいる。それだけに由緒ある建物ということができる。
 陽をさえぎる境内は、まことに深奥という言葉がふさわしく、人影のなさが、それをいっそうきわだたせている。
 さっそく本殿の裏手に足を踏み入れてみる。
 そこは勝道上人がこの地にはじめて草庵を結んだという地で“ある。寄せ棟造りの小さな観音堂と朱塗りの三重の塔がひっそりと建っている。 
 勝道上人がこの地に草庵をもうけたわけについては、つぎのようないわれが伝わっている。
 上人一行がこの地にたどり着いた時のことだ。とつぜん前方に紫雲が立ちのぼり、紫雲はやがて、四つの雲にわかれ男体山の方角にたなびいていった。上人はこの体験から、この地が霊地であることを悟ったという。
 いまも、三重の塔の前には紫雲石とよばれる、四方が平たい石があるが、それが紫雲が立ちのぼったとされる古蹟である。四本竜寺の名の由来もその言い伝えからのものである。  
 四本竜寺をあとにして、柴垣がつらなる、いかにもリゾート風の雰囲気がただよう小道をゆく。 道は北に向かいながら、やがて小玉堂とよばれる小堂にいたる。緑の公園のなかに朱塗りのお堂が建っている。
 そのお堂は弘法大師(空海)にかかわる言い伝えがある。
 弘仁11年(820)、日光山内の滝尾の地で修行していた大師が、この地を通り過ぎたおり、そこにあった池から大小二つの白玉が浮かびあがるのを目撃したという。大の玉はみずからを妙見尊星(北極星)と称し、小の玉は天補星(北斗七星の輔星)と名乗ったという。ありがたく思った大師は、大の玉を妙見菩薩に見立てて中禅寺湖に妙見堂(現存しない)を、小の玉を虚空菩薩の本尊とし小玉堂を建てたとされる。
 この話は、勝道上人が明星天子の導きで日光開山をなしとげ、一方、滝尾神社を創建した弘法大師は北極星にまつわるエピソードに関係している。いずれも日光山域にひそむ星辰信仰をうかがわせるものである
 小玉堂をあとにし、リゾートホテルが散見される広い通りをゆく。このあたり、不動苑とよばれる一帯で、江戸時代、日光参詣に訪れた大名の宿所が建ち並んでいたところだという。そう言われてみれば、土地の風格といったものが漂っている。年をへた赤松が枝を伸ばし、石垣の残骸があちらこちらに残っている。
 せまい通りをたどってゆくと、生け垣にかこまれた別荘風の建物があらわれる。季節の花々が庭を飾っている。道を曲がったところで、大きな犬を二匹散歩させている中年の女性に出会った。
 挨拶をかわし、通り過ぎようとすると、その女性が、「時間があったら庭を見てゆきませんか。この先の木戸をくぐったところが私の家ですので、どうぞ勝手に見ていってください」とすすめる。
 意外な申し出だった。見ず知らずの人間に自邸の庭の観賞をすすめる純朴さに感激した。都会では考えられないことだと思いつつ、何やらすがすがしい気分に満たされたのである。
 東照宮社務所を左に見ながら、さらに北へ向かう。行くほどに左手、木立のなかに朱塗りの建物を見る。 
 山を背にした重層の屋根を置いた宝形造りの建物は開山堂といい、日光開山の祖、勝道上人が祀られている霊廟である。
 弘仁8年(817)三月一日、勝道上人は、この地で八十三歳の天寿をまっとうしたといわれる。その遺体は、上人の弟子たちの手により、開山堂の裏手にある仏岩谷とよばれる巌谷で荼毘に付されたのである。
 ちなみに、仏岩谷は東照宮のほぼ北に接するように位置している。地図を眺めると、勝道上人の墓所(いまは開山堂に改葬されているが)である仏岩谷と家康の墓所とが至近距離にあることがわかる。偶然とは思えない、ある意図が感じられるのである。
 のちの世になって、家康が日光という地にみずからの遺骸を祀るように遺言した、その背景には、日光が古来から聖地として格別の意味をもつ場所であり、風水思想から見ても理想的な位置にあることを認識していたことがあったであろう。いわば、家康の霊廟は、古来からの聖性に守護されてある、ということになる。
 このあたり、東照宮の社域の賑わいと比べると、まるで忘れ去られたように人影もなくひっそりとしている。
 開山堂の堂内には地蔵菩薩が安置されているというが、内部をのぞいても、それらしいものがうすぼんやりと見えるだけであった。裏手にまわると勝道上人之塔と台石に刻まれた五輪塔、それに添うように弟子たちの三基の墓が並んでいる。先に述べたように仏岩谷から改葬された墓である。
 その仏岩谷が切り立った断崖をなして開山堂のすぐうしろに迫っている。崖下に半身を土中に埋めて立つ六部天をかたどった石仏たちが、いまにも動きだしそうな面持ちで並んでいる。
 開山堂のすぐわきに、将棋の駒-それも香車-ばかりを並べる一間社流れづくりの小さな社を目にする。
それは観音堂とよばれる小堂で、香車の駒が奉納されているのは安産に霊験がある駒と信じられているからだという。香車は直進しかできない駒であり、それはすなわち安産につながるというもので、安産祈願に訪れた妊婦が、ここにある香車を借り受けて帰り、出産後に新たにつくった駒とともに返すという習わしになっている。
 “開山堂をあとにしてさらに奥所に足を踏み入れてみることにする。両側に杉の並木がつらなる石畳の道がえんえんと山手の方角につらなっている。
 それは、いかにも散策にふさわしい道で、かたわらに「史跡探勝路」の道標が立っている。その探勝路は空海にゆかりのある滝尾神社にいたるもので、「史跡探勝路」は日光観光協会の指定になるものである。
 奥域とか、奥所とかいう空間概念は、われわれに非日常的なものを想起させる。そこは神秘性がたちこめ、なにかそら恐ろしいものが潜在する場所としてイメージされる。それが山の奥であればさらに近づきがたい印象をあたえ、宗教性を帯びることになった。
 どこまでもつらなる長く細い参道をゆくほどに、ときおり路傍に史跡を見たりする。
 そのひとつ北野神社左手鳥居の奥に巨岩を背にしてあった。
 北野神社となれば、菅原道真公を祀った神社ということになるが、寛文元年(1661)、筑紫の国、安楽寺の大鳥居信幽という人物が、この地に勧請したものという。
 さらにゆくと手掛けの石と名づけられた大岩があり、そなれない大岩がどういうわけか存在していることが不思議がられ、のちの世になって神秘な伝説がつくられたのだろう。
 北野神社に参拝し、この大岩の破片を持ちかえり、神棚に供えると、文字が上達するという。
 苔むした石畳は昔のままの道なのだろう。いにしえ人の行き来した痕跡は、今や摩滅した石畳にわずかに残るばかりだが、“どういう人々が、どのような思いで、この石畳を踏みしめたのだろうかと思うと、ふと不思議な念にとらわれる。 
 人影のない参道はつきるともなく果てしなくつづくようだ。
 やがて、参道の両側にいかにも年をへた巨木の老杉があらわれる。急に周囲の景観が荘厳さを増したように思える。
 これら杉の巨木は、滝尾神社の十五代別当であった昌源という人が植えたもので、今でも昌源杉とよばれているという。以来、数多の杉が、五百年もの年輪を重ねているわけである。
 ようやく参道がつき、滝尾神社の神域に達したようである。
 道の傍らに、「大小べんきんぜいの碑」と刻した石の標柱を見る。それは、これより大小便を禁じる旨を告知した石標なのである。誰にでも読めるようにひらがなで書かれているために、かえって、生々しいものを感じる。今も昔も人間の所業に変わりはないということか。
 かつて、そこには楼門があり、下乗石が置かれ、木の鳥居が立っていたという。
 稲荷川のせせらぎをわたり、左手に古くから白糸の滝の名で知られる小さな滝を見ながら、少し石段をのぼると、平坦な地に出る。右手草むらになっている辺りが、平安時代から江戸の初期にかけて真言宗密教の道場があったところで、「日光責め」で知られる「強飯式」も、じつはここから発祥したという。辺りにいわくありげな岩があったり祠があったりする。いまは痕跡すら残らないが、唱和する読経の声が低く、重く、繁みの奥から聞こえてきそうでさえある。
 前方に石の鳥居があらわれ、その後ろに楼門が見え隠れする。老い杉が林立し、木立がいちだんと密度をます。
 鳥居に近づくと、参拝客が鳥居にむけて、石を投げつけているのを目撃する。見れば、鳥居の額束の真ん中に穴があいている。
 聞けば、その穴に小石を三つ投げてうまく通れば願い事がかなうという言い伝えがあるらしい。運試しの鳥居というニックネームがついているくらいだから、いにしえより、参拝客に親しまれた鳥居なのだろう。徳川三代、家光将軍の遺臣である梶定良という人物が寄進したものというが、遊び心のある人物像がしのばれる。
 重層入母屋造り、漆塗りの堂々とした楼門をくぐると、いよいよ滝尾神社である。入母屋造りの拝殿があり、三間社流れ造りの本殿とつづく。いずれも江戸期のものである。
 いかにも行き詰めたところに鎮座する社の趣がある。紅葉した木々にかこまれて、朱の社殿がいちだんと神々しく映る。
 弘仁11年(820)、弘法大師がこの地に修“行したおりに創建したと言い伝えられる神社である。
 古来から、山岳信仰の霊地として、二荒山神社が男体山の男神を祀るのに対し、滝尾神社は北方にある女峰山と赤薙山(二つの山を結ぶ鞍部の凹形)の二上山の女神(田心姫命)を祀る神社として信仰されたのであった。
 その後、二荒山神社の別宮として新宮(現、二荒山神社)、本宮(神社)とともに日光三社権現のひとつとされるが、それはのちの世になってのことだ。
 かつて、神仏混交の時代には、「院々僧坊およそ五百坊」あったとされるほど栄えたとされる神域は、いまはその面影もなく、ただひっそりと静まりかえっているばかりである。 
 本殿裏手にある三本杉からなる神木のある地に足を踏み入れてみた。弘法大師が修行のおり、天つ神であるところの田心姫命(天照大神の子)の降下があったとされる地。まれは滝尾神社の主神である田心姫命が御手を掛けた岩であると説明書きに書かれてあった。にわかには信じられない話だが、見た、樹間越しに女峰山が遠望できることから、女峰山の遥拝地としても特別な場所とされた。
 空は明るく晴れわたっているが、陽をさえぎる樹林の奥深く眼をこらしてみると、なにやら目に見えない妖気のようなものが立ち込めている気配がする。それはかすかに動くようで動かない。
 ふいに私の身体が重くなったような気がしたのである。 完

画像は滝尾神社










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