場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

2022-07-30 19:08:43 | 場所の記憶
新撰組局長芹澤鴨が誅殺されたのは文久三年(1863)9月18日のことだ。 
その日、久しぶりに島原にある角屋総揚げの宴会が催された。これは当時、京都所司代の任に当たっていた会津侯からお手当が出たということで行われたものだった。
生憎、朝から雨模様の日で、夜に入ってからは篠突くような雨が降りつけていた。昼頃になると、すでに隊士たちが三々五々角屋に集まりだしていた。
宴会がはじまるといつものように座は大いに賑わった。その日ばかりは誰も無礼講で呑み、騒ぐのが習わしだった。
なかでも、ことのほか局長筆頭の芹澤は機嫌よく酔い大声でわめき立てていた。その泥酔ぶりはいつになく目立つものだった。芹澤は酒乱気味で乱暴狼藉する性癖があったが、その日はそういうこともなかった。
酔いすぎたのか、芹澤は、宴会もそこそこに中座し、一足早く駕篭に揺られて屯所に帰ってしまった。珍しいこともあるものだと一同思ったが、その時は別段誰も気にとめる者はいなかった。
芹澤には平山五郎と平間重助という腹心がいた。彼らも芹澤に従って宴会の席を立って、屯所に帰っていた。彼らはいずれも水戸藩出身で、新撰組結党以来、芹澤と行動を共にする仲間だ。同郷ということで気の知れた者同士であった。
その日、夜も深更に及んだ時刻である。
泥酔した芹澤はお梅という女と同衾していた。実は、お梅という女は、芹澤が四条堀川の大物問屋菱屋の主人の妾を力づくで奪い取った女であった。それにも関わらず、不思議なことに、女は芹澤になついて、懇ろになっていた。
その日も夕暮近くなってお梅がやって来た。が、芹澤が不在だったので戻るまで屯所で待っていたのである。
腹心の平山と平間は共に馴染みの女を連れて帰り、隣あわせの部屋でそれぞれ寝ていた。平山は腰が立たないほど酔いしれていたが、平間はほとんど酔っていなかった。る。
そして同衾していた女たちはといえば、芹澤と一緒にいたお梅は芹澤とともに斬り殺された。が、平山と平間と寝ていたふたりの女は助かった。偶然か故意か運命が分かれたのである。
深夜の八木邸の庭先に四つの影が白刃を光らせて立っていた。そのうちのひとつの影が音もなく母屋の玄関から忍び入り、芹澤らが寝ている一番奥の部屋の唐紙をそっと開けて中の様子をうかがった。
それからしばらく立ってからのことである。庭で待機していた黒いかたまりが、互いに頷き合ったかと思うやいなや、玄関から芹澤たちの部屋に飛び込んでいった。 
芹澤を襲ったのは土方歳三と沖田総司だった。山南敬助と原田左之助は平山を斬った。隣室の平間はかろうじて闇にまぎれて逃走した。
芹澤グループが寝起きしていた家は八木源之丞邸であった。新撰組はこの八木邸と隣り合わせの前川荘司邸と南部亀二郎邸に分宿し、これらを屯所としていた。当時これら三つの屋敷は壬生屋敷と呼ばれていた。 
いずれの家も古くからの旧家で、壬生十人衆と呼ばれる由緒ある土地の郷士の家格をもつ家だった。
芹澤とお梅、それに平山と連れの女が寝ていた部屋は、玄関を入った奥の突き当たりの十畳間の部屋だった。二組の男女はそこに六丈屏風を立て、それを仕切りにして寝ていたのである。
高鼾で寝ていた芹澤は、寝所に立て回していたその屏風を蒲団の上に圧しかぶせられ、その上から串刺しにされた。泥酔していたためもあり、ほとんど抵抗する間もない状態であったが、必死の思いで立ち上がり、八木家族が寝ていた隣の八畳間の部屋に転がりこんで、そこで素っ裸の状態で絶命した。日頃から、用心のために枕元に置いていた刀掛けには、ついに手を触れずじまいだった。
平山は喉を突き刺され、首を落とされて落命した。隣室に寝ていた平間と連れの女は蒲団の上から一度は突かれたが、死んだふりをして危機一髪、逃げおおせた。その時の乱闘の刀傷が今も八木邸の鴨居に残ってい
お梅という女は目元のすっきりした、口元の引き締まった色白の美人で、年の頃は二十二、三であった。隊士の誰もがひそかに憧れていた女であった。
暗殺事件とはいえ、これは明らかに下手人が透けて見える犯行であった。日頃から芹澤鴨の狼藉な振る舞いに強い不満を抱いていた芹澤と同格の近藤勇と同腹の者たちが闇夜に乗じて芹澤暗殺に及んだのである。
が、表向きは誰とも知れない暗殺団が芹澤らを襲ったということにした。一方で、長州の人間がやったにちがいないという噂がさかんに流された。
翌日、近藤は事の顛末を伝える届け書を会津侯に提出した。そこには「賊が就寝中を襲い、芹澤ら三人を殺害」したと、あたかも不意の出来事のように書かれてあった。
芹澤と平山の葬儀が盛大におこなわれたのは9月20日のことである。八木邸の裏の蔵の前に棺を安置し、組の一同が参列して、盛大な葬儀が執行された。
虚飾の儀式ではあったが、近藤勇が組を代表しておごそかに弔辞を読み、その後、葬列は静々と埋葬地である壬生寺に隣接する壬生墓地に向かい、そこに埋葬された。
そもそも新撰組の結成は、これより先、旗揚げされた浪士組にさかのぼる。浪士組というのは、庄内藩浪人清河八郎が中心となって結成された、十四代将軍、家茂公警護のためにつくられた組織であった。幕府が音頭をとって結成させたものである。
清河は文久3(1863)年春、浪人230名ばかりを集めると、将軍滞在中の京に向け出立した。京に到着するや本拠を壬生の新徳寺に置いて、宿坊をはじめ付近の民家に分宿した。 
ところがそこでひと悶着が起きた。清河が当初の浪士組上京の目的を変更して、別の意外な目的をぶち揚げたからである。浪士組の目的は攘夷の急先鋒を勤めることにあるというのである。
これは明らかに幕府の意向を逸脱するものであった。 
この宣言に対して、近藤勇ら江戸試衛館道場出身者をはじめ、水戸藩出の浪士たち13名が反対した。彼らはたまたま八木邸に分宿していたグループだった。
結局、話し合いはまとまらず、清河派と、近藤・芹澤派は袂を分かつことになった。そして、近藤らは京に残り、「壬生浪士組」を結成、清河らは江戸にもどり「新徴組」を結成する。 
京に残った13名は、その年の三月、長文の嘆願書を時の守護職に提出。そこには、将軍家の警備のために身命を捧げたいという主旨が書かれてあった。嘆願は即日受理され、彼らは晴れて、会津藩主松平肥後守様お預かりの身となったのである。
彼らの喜びはいかばかりであったことか。ただちに八木邸の表門に、「松平肥後守御領新撰組宿」と墨書した大札がかかげられた。今まではただの浪人集団であったものが、今や公儀の公認を得た集団になったのである。
ただちに隊士募集がおこなわれた。13名で結成された新撰組は、すぐにその数を増していった。京大阪から、浪人たちがぞくぞくと集まってきたのである。
京の西郊にあたるこの辺りは、当時は壬生村とよばれる田園のたたずまいの色濃い土地であった。田圃がひろがり、ところどころに農家と郷土屋敷、それに古寺が点在し、田圃の外れに島原遊郭の灯りが遠くかすんで見えていた。
壬生寺縁起によると、昔から一帯は泥湿地で、建物を建てようにも基礎固めが容易ではなく、他の土地から土を運んで基礎を固めるという状態であったという。 
壬生の地名の起こりも、水生、転じて壬生となったとされる。その泥地を利用して壬生菜とよばれる野菜がつくられていた。
集落の中心には南北に坊城通りが通じていた。その通りに沿って、東側に前川邸、西に八木、南部邸が並び建っていた。
前川邸の前(北側)は一面、広々とした壬生菜畑が広がっていた。そして、屋敷の南側には、清河八郎ら浪士組が一時居候した禅宗の新徳寺が隣接していた。
前川邸の正門は長屋門の構えで北向きに開き、屋敷の西側は坊城通りに接していた。表門の前には東西に走る綾小路という名の通りが通じていた。
長屋門を入ると石畳があり、それを進むと玄関がある。勝手口はその左手にあり、そこから土間を突き進むと広い裏庭に出る。
庭には土蔵が2棟、ひとつは北向きに、もうひとつは西向きに建っている。その西向きの土蔵で、池田屋摘発(その結果池田屋騒動になる)のきっかけになった、長州人古高俊太郎が拷問された。
屋敷の周囲を取り囲むように、北側と西側に畳の敷かれた長屋が連なっていた。隊士が寝泊まりしていた場所である。
そして、北側の長屋左右のそれぞれには武者窓が、西側の長屋には小さな出入口があった。坊城通りを隔てて位置していた八木邸や南部邸へは、隊士がそこから出入りした。
坊城通りの西側にあった、今は菓子舗を営んでいる八木邸は、同じく長屋門が東向きに開き、母屋が南面していた。
隊士は、はじめ母屋の東に建つ離れに寝泊まりしていたが、いつの間にか芹澤らは勝手に母屋にも居座るようになっていた。
近藤や土方らが前川邸の長屋に寝起きしていたのに対して、芹澤をはじめ腹心の者は、八木邸に居候していた。身分と出身地の違いによる対立関係が住まいを分ける格好で鮮明になっていた。
芹澤暗殺後、新撰組は局長近藤勇、副長土方歳三の体制が確立し本営は前川邸と定められた。
この前川邸が本営になってからは、門前に看板をだすわけでもなく、そこが新撰組の屯所であるということさえわからなかったという。また、後の世に知られるようになる、緋羅紗の生地に白く「誠」という文字を抜いた隊旗を門前に飾ることもなかったという。
新撰組の任務というのは、京都守護職の配下として京の市中の警備であった。毎日のように20人ほどの隊士が一団となって、槍をかつぎ、市中を巡回した。 
その服装といえば、例の袖と裾に白い山形のあるぶっ裂き羽織を着た者はほとんどなく、皆めいめい勝手な服装をしていたという。
そうした一方で、厳しい隊中規則が定められていた。隊規の厳正化によって、近藤らの支配力を強めようとしたのである。
隊則には組織を守るために一にも切腹、二にも切腹とあった。結果、疑心暗鬼による切腹、あるいは斬死に追い込まれてゆく者があとを絶たなくなった。規律の強化による組織の団結力は、芹澤暗殺後十カ月後に起きた池田屋騒動において遺憾なく発揮され、新撰組の名を京洛の地に知らしめることとなった。とくに、隊長の近藤は、「近藤ひとたび出づれば、敵も味方も茫然として目を注ぐのみ」と評された。
前川邸を舞台に幾つもの切腹や斬死事件が記録されている。
新撰組の幹部で芹澤の仲間であった野口健司という人物が、何とも知れぬ理由で切腹させられたのは、坊城通りとの角に、今もある武者窓のある部屋だった。また、のちになって、生え抜きの隊士であり副長格の山南敬助が、脱走の罪で同じ部屋で切腹させられている。山南脱走事件は、新撰組の分裂のはじまりを象徴する出来事だった。
またある時は、前川邸の前の壬生菜畑で、ひとりの隊士が惨殺されたことがあった。隊中美男五人衆のひとりといわれた楠小十郎という若者で、その男は、長州の間者であることが発覚して処刑されたのである。
これら切腹ないし斬死事件で落命した隊士たちを埋葬した寺が前川邸の前の綾小路を東に少し歩いたところにある。 
その寺は浄土宗の光縁寺という寺で、今は家が建ち並んで見通せないが、当時は指呼の間に見えただろう。
そこは新撰組のいわば菩提寺のような寺で、現在知られているだけでも二十数人の隊士の墓が確認できる。前述の野口や山南、それに沖田総司に関わりがあるとされる沖田氏縁者と記された墓もある。
死者が出るたびに、葬送の列が屯所から出て、この寺の山門をくぐった。そして、本堂で法要が営まれたあと埋葬された。
ここに口碑が残る。 
寺の門前に、綾小路をへだてて大銀杏の木が聳え立っていた。幹がじつに太く、春になるとそこにゴイサギが巣をつくり、やがて、雛が巣立ち、付近を渡り飛んだ、というのである。
亭亭と空に聳え立つ銀杏の姿は、新撰組隊士たちも日々目にしたはずである。それは激動の日々を過ごす隊士たちにどれほどか心の安らぎとなったことだろうか。

それにしても芹澤鴨が暗殺された夜のことが思い出される。その日は大層な雨が降っていた。雨はしぶきを上げ、何もかも洗い流した。が、果たして、芹沢を暗殺することで、新撰組の汚濁は洗い流すことができたのだろうか。
こののち、壬生屋敷を引き払った新撰組は、幾度か屯所を変えながら、京洛の巷で血塗られた歴史を積み重ねていった。
が、やがて、時代の荒波に呑み込まれ、藻屑となって消えていったのである。


タイトル写真:八木邸内部
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