荒川土手のほとりのとある寺に、大震災の余韻いまださめやらない大正12年(1929)の暮れ、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車を狙撃した犯人、難波大助の墓があるらしい、というひそやかにひろまっていた伝聞を、千住に生まれ育った私が耳にしたのは、たしか中学生の頃だった。
その噂は、東京という都会のはずれに位置する、千住という町にいつの頃からか、よどんだ空気のように漂っていたもので、それが子供の私にも、いつしかもたらされたのであった。
それを耳にした時は、大人の秘密めいた世界の一端を知ってしまったような妙な気持ちにとらわれたものだった。
死刑囚の墓が自分の住む町の某寺にあるという事実は、その墓がどういう事件にかかわった人物のものなのか定かではなかったものの、私の興味をそそるに充分だった。
私には、その噂はほとんど間違いなく、本当のことのように思えた。
千住という町は江戸時代以来の古い宿場町である。古い歴史がある町ならば、その分だけ積もり積もった記憶が残されているはずだし、じっさいその痕跡が残ってもいる。古い寺社も散見されるし、旧街道沿いには、今でも宿場時代の家が残っていたりする。そんな時代の匂いがかすかではあるが今も漂っている。
そんな町のどこかに難波大助の墓がある。それは、あたかも封印された禍事として、町の片隅にひそかに存在しつづけていたのである。が、その隠微な噂の真偽をたしかめるすべもなく、長い時が過ぎていた。そのうち、その噂のことも忘れ果ててしまっていた。
それがふとしたきっかけから、その墓のことをふたたび思い出すことになったのである。
ある日、千住の町はずれ(日の出町)、荒川の土手を背にする場所にある清亮寺という寺を訪ねる機会があった。
その寺に明治のはじめ、死罪人を解剖し、埋葬した墓があるということを耳にしたからである。
私がその寺をぜひとも訪ねたいと思ったもうひとつの理由は、もしや、あの難波大助の墓もあるのではないか、と直感したからである。
そこを訪ねてみると、たしかに解剖人の墓はあった。
「解剖人墓」と刻まれた墓石には、明治3年(1871)8月、この地で解剖がおこなわれたこと、解剖された者はすべて死罪人であったこと、執刀者は日本人医師二人とひとりのアメリカ人医師であったことなどが記されていた。
その墓は、解剖された11人の死罪人の霊をとむらうために明治5年12月に建てられたが、その後、破損がひどくなったため昭和42年6月新しく建立されたものであった。
墓石には11人の死罪人の名前が刻まれていた。
武州埼玉郡柿木村、金蔵 28歳、
武州二合半領加藤村、憲隆 27歳、
武州中尾村、清兵衛 31歳、
武州巨摩郡的場村、豊吉 30歳、
常陸国布施村、文治 34歳、
下総国畔田村、治良吉 36歳、
下総国八幡町、七九良 54歳、
奥州棚倉村、粂七 30歳、
下総国堀井村、久蔵 52歳、
ほかに東京および武州小松川村出氏名不詳(碑面が摩滅していて)の2名
年齢も出身地もさまざまであり、処刑された日付も明治3年8月から4年までと幅があることが分かる。これから見ると、11人の解剖は、時期を異にして、ひそかにおこなわれた、ということが知れる。
のちに手に入れた資料によれば、解剖された死罪人はいずれも小塚原刑場で処刑された者たちで、その後、この寺に搬送され、そこで解剖に付されたのだという。
明治になってからも小塚原が刑場として使われていたことが意外だったが、事実はそういうことだったのだろう。
墓石に刻まれた記録を目にして、私は、あらためて、彼ら罪人がどのような境遇の男たちだったのだろうか、と思いをはせた。
大きく時代が転変する時代、罪を得て死罪人となった男たち。彼らひとりひとりには、曰く言いがたい事情があったのであろう。
彼らの生きざまを私は知りたく思った。
が、寺の住職に聞いてみても、墓石に刻まれた事実以外は、もはや、彼らを知る痕跡は何も残されていないということだった。
ところで、虎ノ門事件の犯人難波大助のことである。
冒頭でふれたように、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車をステッキ銃で狙撃したのは、山口県出身の難波大助という25歳の無職の青年だった。
事件のあらましは、事件当日の午後、すなわち、大正12年12月27日、ただちに宮内省から発表された。
「今朝、摂政殿下議会院式に行啓の御途中、午前10時40虎之門跡に御差しかかり遊ばされたる所、一兇漢歯簿の右方よりお召車に対して発砲し、窓ガラスを破損せるも、殿下には些の御障りもあらせられず、そのまま開院式に臨ませられ開院式の勅語を賜はり、終了後御機嫌麗はしく、午後零時10分還啓遊ばされたり。凶漢はただちに逮捕せられたり」
事件のあった「虎ノ門跡」というのは、現在の虎ノ門交差点のあたりで、かつて、そこに、江戸城の外堀に架かる虎の御門があったことからそう呼ばれていたものである。
凶行があった当時、外堀はすでになく、そこは現在見るような交差点になっていて、東西南北に路面電車が通じていた。
その日、お召し車(英国製スペシャル号)は赤坂の離宮を出て虎ノ門の交差点を通って国会に出向く予定になっていた。
時速12キロで赤坂方面から走ってきたお召し車がちょうど虎ノ門交差点にさしかかった時であった。
黄ばんだレインコートを着、ロイドメガネをかけた若者が、とつぜん、通りの向こう側(南側)から躍り出たのである。
お召し車は、少しスピードを落としながら、今まさに交差点を左に曲がりつつあった。
警備の警察官の間をすりぬけた男は、お召し車に接近するや、隠しもっていたステッキ銃を取り出し、発砲した。
弾丸は車のガラスを貫通し線条痕をつけたが、そのあと砕けて車内に散乱した。よほど堅いガラスであったことがわかる。
発砲したあと、男は大声で「革命万歳」を叫び、さらに車に追いすがろうとした。が、後を追ってきた警察官に取り囲まれ、袋だたきにあった。その後、男は目の前にある虎ノ門北公園(文部省の建つ敷地)に連れこまれ、麻縄で手足をしばられた。
大正12年という年は、9月1日に関東大震災が起こり、東京が未曾有の混乱におちいった年だった。
大地震後も、東京にはたびたび小さな地震が起きた。それは明らかに大地震後の余震であったが、東京市民は、ふたたび大地震が襲うのではないか、という不安におびえていた。そうしたさなかの出来事だった。
山本権兵衛総理大臣を首班とする時の内閣は、ただちに緊急の閣議をひらいて、この事件の善後策を協議することになった。
想定外の出来事が勃発したのである。内閣の動揺はたとえようもなかった。
難波大助という青年は、無政府主義ないしは共産主義の思想を信奉する、いわゆる主義者で、のちに尋問調書のなかで彼は、皇太子を狙撃した目的について「社会革命を遂行する手段のひとつとして皇族にむかってテロリズムを遂行することは有効なりと認めた」ためと供述している。
ひとりの青年を、このような大胆な行動に駆り立てたその動機について、当時、さまざまな憶測が取り沙汰された。
そのひとつに、あまりにも大胆すぎる、信じがたい行為であったために、その青年は精神に異常をきたしているのではないか、あるいは、青年が健康を害していた(軽い腎臓病)ところから自暴自棄の行動ではないかと推測する者があった。報道機関もそのように報道する傾向がつよかった。常識を越えた過激すぎる行為であったために、世人はそう理解することで納得しようとした。
が、彼は異常者でも、単なる跳ね上がりでもなかった。当時の社会に満ちあふれていた不公平と混迷した日本社会を覚醒させようとして、社会主義思想にささえられたテロリストとして立つことを決意した揚げ句の果ての行動であった。
社会主義思想とテロリストとは、本来、相いれないものであろうが、難波大助は、ふたつを結びつけ、皇室にその刃を向けたのであった。そこには思想的混乱があった。
さらに、彼の過激な思想を育てた背景に、彼の生い立ち、なかでも父親(父は地方の名士であった)との対立があり、それが不幸の原因であった。
虎ノ門事件の犯人として捕らえられた難波大助は、犯行後ただちに逮捕され、厳しい取り調べのすえ、十一カ月後の大正13年11月13日、傍聴禁止のもと秘密裡に開かれた大審院法廷で死刑の判決を言い渡された。
「日本国民にあらざる日本国民滔天の大逆人の裁き」(大阪毎日新聞)はこうして結末をむかえたのである。
そして、判決言い渡しの二日後、死刑が執行された。判決から死刑執行までは通例、一週間ほどの間があるのだが、それは異例の早さといえた。
死刑判決を申し渡された直後、大助はとつじよ立ち上がり、握りしめた両手を高くかかげながら「革命万歳、国際共産主義万歳」などとを叫んだという。この万歳三唱は、記事差し止めを通告していた当局の意図に反して、のちに世間に知れわたったため、大助への反感感情がさらに高まる結果をまねいた。
死刑の執行は東京の市ケ谷刑務所でおこなわれた。
新聞はこの事実を大々的に報道した。
その時の感慨を、作家永井荷風は日記『断腸亭日乗』の11月16日付けのなかで次のように書きつけている。
「都下の新聞紙一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎之門にて摂政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと悪むものあれど、さして悪むにも及ばず、また驚くにも当たらざるべし。皇帝を弑するもの欧州にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく欧州文明の模倣にあらざるはなし。大助の犯罪もまた模倣の一端のみ。洋装婦人のダンスと選ぶところかあらんや」「非国民」難波大助を非難する声が渦巻くなか、作家永井荷風のさめた眼差しが貴重である。
執行後、ただちに家族あてに遺体ひきとりを打診する電報がうたれたが、親族会議の結果、家族からは「貴電拝見、死体引き取りがたく、貴所においてなにとぞ適当に御処分をお願いしたし」の引き取りを辞退する返事(あまりにもこの事件が世間に与えた影響の大きさを配慮したのだろう)があった。
また、その日のうちに、自由労働連盟その他の団体に所属するという五人の男たちが遺体のひきとりに訪れたが、二十四時間経過していないという理由で断られ、揚げ句の果てに五人の男はその場で検束された。さらに、東京帝大法医学教室から解剖の申し出があったが、これも拒否された。
東京帝大のこの申請は、大助の異常な行為が精神の障害にその因があるとささやかれた当時の風説を受けて、病理学的に解明しようという意図からであった。
処刑後、難波大助の遺体の処置が問題になった。
慣例であれば、東京雑司ケ谷にある監獄墓地に埋葬されるはずであった。が、事件が事件だけにそこに埋葬しては
世間を騒がすことになると当局は考えた。あくまで隠密裡にどこか人知れずの場所に埋葬しなければならなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが東京郊外にある小管刑務所所属の囚人墓地であった。
そこは、南足立郡綾瀬村弥五郎新田(現在は足立区千住日の出町)という地番で、刑務所のある地番と同じこの村は、荒川放水路(現、荒川)の貫通によって、ふたつに分断されていたのである。
一帯は松林になっていて、墓地内の南隅にひときわ見上げるような老松がそそり立っていたという。
四人の看守が見守るなか、青色の尻切り襦袢に股引き、草鞋履き姿の四人の囚人が、その松の下に幅1・5メートル、深さ約2メートルの大きな穴をシャベルで掘り、白木綿につつまれ、荒縄で十文字に縛りつけられた遺骸の入った座棺をそこに埋めた。
以上は、難波大助の弁護人のひとり松谷與次郎氏が関係者から聞いた話として伝わるものである。
その難波大助の墓が、偶然にも掘り起こされることになった。昭和45年3月からはじまった東武線の北千住~竹ノ塚間複々線工事にともない、囚人墓地が改葬されることになったのである。
皮肉なことである。すでに忘却されたはずの難波大助の墓がふたたび世間の目にさらされることになった。
その時の様子を知りたく思って、私はある日、かつて、その囚人墓地があったとされる場所を訪れてみた。
そこで、近くに住むひとりの老女から難波大助の墓のことを聞くことができた。
難波大助の墓があった墓域は、前述した清亮寺に隣接する場所であり、そこはかっこうの子供の遊び場で、子供たちがよくその敷地内を駆けまわっていたという。
また、墓地の中には三基の墓が建っていて、周囲には椿の木があり、季節になると美しい花を咲かせたという。そして、春の彼岸と、秋の彼岸、毎年10月20日に行はれる獄中死没者法会のおりには、刑務所関係者の墓参がかならずあったという。
さらに、墓が改葬された当時のことに話を向けると、
「いつだったかはっきり覚えていませんがねえ。東武線の工事がはじまったある日、刑務所関係の人が多勢やって来ましてね。墓の発掘作業にとりかかったんですよ。僧侶も見えまして、読経の声が聞こえてきました。テントが張られ、その中で、だいぶ長い期間にわたって作業がつづきましたよ。だから作業の内容は見えませんでしたが、なんでも、三百体くらいの遺骨が出てきたらしいですよ」
三百体という数は驚きだった。明治以来の刑死者や獄死者を埋葬した墓地であったのだから、そのくらいの数はあるのかも知れないが、かなりの数である。そのなかに難波大助の遺骨もあったのだろう。
掘り起こされた遺骨はあらためて火葬にふされ、雑司ケ谷墓地に改葬(三基の墓石がそのまま移されている)されたという。
雑司ケ谷墓地は、明治5年に東京府から共同墓地として指定されて以来、今日まで著名人の墓があることで知られている。その一角に、現在は法務省管轄になっている刑務所用の墓域がある。
彼は、生前、獄中から父親に出した手紙のなかで、「けがれた骨は引き取られるようなことはないでしょうが、万が一そういうことをせられるなら、それは絶対に御断りして置きます。私は私の愛する東京の土となることが希望なのです」と遺言したが、はたして彼が希望したような形になったといえようか。
難波大助の魂魄はいまも重い錠がかけられ、捕らわれたままの状態にあるように私には思えたのである。
その噂は、東京という都会のはずれに位置する、千住という町にいつの頃からか、よどんだ空気のように漂っていたもので、それが子供の私にも、いつしかもたらされたのであった。
それを耳にした時は、大人の秘密めいた世界の一端を知ってしまったような妙な気持ちにとらわれたものだった。
死刑囚の墓が自分の住む町の某寺にあるという事実は、その墓がどういう事件にかかわった人物のものなのか定かではなかったものの、私の興味をそそるに充分だった。
私には、その噂はほとんど間違いなく、本当のことのように思えた。
千住という町は江戸時代以来の古い宿場町である。古い歴史がある町ならば、その分だけ積もり積もった記憶が残されているはずだし、じっさいその痕跡が残ってもいる。古い寺社も散見されるし、旧街道沿いには、今でも宿場時代の家が残っていたりする。そんな時代の匂いがかすかではあるが今も漂っている。
そんな町のどこかに難波大助の墓がある。それは、あたかも封印された禍事として、町の片隅にひそかに存在しつづけていたのである。が、その隠微な噂の真偽をたしかめるすべもなく、長い時が過ぎていた。そのうち、その噂のことも忘れ果ててしまっていた。
それがふとしたきっかけから、その墓のことをふたたび思い出すことになったのである。
ある日、千住の町はずれ(日の出町)、荒川の土手を背にする場所にある清亮寺という寺を訪ねる機会があった。
その寺に明治のはじめ、死罪人を解剖し、埋葬した墓があるということを耳にしたからである。
私がその寺をぜひとも訪ねたいと思ったもうひとつの理由は、もしや、あの難波大助の墓もあるのではないか、と直感したからである。
そこを訪ねてみると、たしかに解剖人の墓はあった。
「解剖人墓」と刻まれた墓石には、明治3年(1871)8月、この地で解剖がおこなわれたこと、解剖された者はすべて死罪人であったこと、執刀者は日本人医師二人とひとりのアメリカ人医師であったことなどが記されていた。
その墓は、解剖された11人の死罪人の霊をとむらうために明治5年12月に建てられたが、その後、破損がひどくなったため昭和42年6月新しく建立されたものであった。
墓石には11人の死罪人の名前が刻まれていた。
武州埼玉郡柿木村、金蔵 28歳、
武州二合半領加藤村、憲隆 27歳、
武州中尾村、清兵衛 31歳、
武州巨摩郡的場村、豊吉 30歳、
常陸国布施村、文治 34歳、
下総国畔田村、治良吉 36歳、
下総国八幡町、七九良 54歳、
奥州棚倉村、粂七 30歳、
下総国堀井村、久蔵 52歳、
ほかに東京および武州小松川村出氏名不詳(碑面が摩滅していて)の2名
年齢も出身地もさまざまであり、処刑された日付も明治3年8月から4年までと幅があることが分かる。これから見ると、11人の解剖は、時期を異にして、ひそかにおこなわれた、ということが知れる。
のちに手に入れた資料によれば、解剖された死罪人はいずれも小塚原刑場で処刑された者たちで、その後、この寺に搬送され、そこで解剖に付されたのだという。
明治になってからも小塚原が刑場として使われていたことが意外だったが、事実はそういうことだったのだろう。
墓石に刻まれた記録を目にして、私は、あらためて、彼ら罪人がどのような境遇の男たちだったのだろうか、と思いをはせた。
大きく時代が転変する時代、罪を得て死罪人となった男たち。彼らひとりひとりには、曰く言いがたい事情があったのであろう。
彼らの生きざまを私は知りたく思った。
が、寺の住職に聞いてみても、墓石に刻まれた事実以外は、もはや、彼らを知る痕跡は何も残されていないということだった。
ところで、虎ノ門事件の犯人難波大助のことである。
冒頭でふれたように、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車をステッキ銃で狙撃したのは、山口県出身の難波大助という25歳の無職の青年だった。
事件のあらましは、事件当日の午後、すなわち、大正12年12月27日、ただちに宮内省から発表された。
「今朝、摂政殿下議会院式に行啓の御途中、午前10時40虎之門跡に御差しかかり遊ばされたる所、一兇漢歯簿の右方よりお召車に対して発砲し、窓ガラスを破損せるも、殿下には些の御障りもあらせられず、そのまま開院式に臨ませられ開院式の勅語を賜はり、終了後御機嫌麗はしく、午後零時10分還啓遊ばされたり。凶漢はただちに逮捕せられたり」
事件のあった「虎ノ門跡」というのは、現在の虎ノ門交差点のあたりで、かつて、そこに、江戸城の外堀に架かる虎の御門があったことからそう呼ばれていたものである。
凶行があった当時、外堀はすでになく、そこは現在見るような交差点になっていて、東西南北に路面電車が通じていた。
その日、お召し車(英国製スペシャル号)は赤坂の離宮を出て虎ノ門の交差点を通って国会に出向く予定になっていた。
時速12キロで赤坂方面から走ってきたお召し車がちょうど虎ノ門交差点にさしかかった時であった。
黄ばんだレインコートを着、ロイドメガネをかけた若者が、とつぜん、通りの向こう側(南側)から躍り出たのである。
お召し車は、少しスピードを落としながら、今まさに交差点を左に曲がりつつあった。
警備の警察官の間をすりぬけた男は、お召し車に接近するや、隠しもっていたステッキ銃を取り出し、発砲した。
弾丸は車のガラスを貫通し線条痕をつけたが、そのあと砕けて車内に散乱した。よほど堅いガラスであったことがわかる。
発砲したあと、男は大声で「革命万歳」を叫び、さらに車に追いすがろうとした。が、後を追ってきた警察官に取り囲まれ、袋だたきにあった。その後、男は目の前にある虎ノ門北公園(文部省の建つ敷地)に連れこまれ、麻縄で手足をしばられた。
大正12年という年は、9月1日に関東大震災が起こり、東京が未曾有の混乱におちいった年だった。
大地震後も、東京にはたびたび小さな地震が起きた。それは明らかに大地震後の余震であったが、東京市民は、ふたたび大地震が襲うのではないか、という不安におびえていた。そうしたさなかの出来事だった。
山本権兵衛総理大臣を首班とする時の内閣は、ただちに緊急の閣議をひらいて、この事件の善後策を協議することになった。
想定外の出来事が勃発したのである。内閣の動揺はたとえようもなかった。
難波大助という青年は、無政府主義ないしは共産主義の思想を信奉する、いわゆる主義者で、のちに尋問調書のなかで彼は、皇太子を狙撃した目的について「社会革命を遂行する手段のひとつとして皇族にむかってテロリズムを遂行することは有効なりと認めた」ためと供述している。
ひとりの青年を、このような大胆な行動に駆り立てたその動機について、当時、さまざまな憶測が取り沙汰された。
そのひとつに、あまりにも大胆すぎる、信じがたい行為であったために、その青年は精神に異常をきたしているのではないか、あるいは、青年が健康を害していた(軽い腎臓病)ところから自暴自棄の行動ではないかと推測する者があった。報道機関もそのように報道する傾向がつよかった。常識を越えた過激すぎる行為であったために、世人はそう理解することで納得しようとした。
が、彼は異常者でも、単なる跳ね上がりでもなかった。当時の社会に満ちあふれていた不公平と混迷した日本社会を覚醒させようとして、社会主義思想にささえられたテロリストとして立つことを決意した揚げ句の果ての行動であった。
社会主義思想とテロリストとは、本来、相いれないものであろうが、難波大助は、ふたつを結びつけ、皇室にその刃を向けたのであった。そこには思想的混乱があった。
さらに、彼の過激な思想を育てた背景に、彼の生い立ち、なかでも父親(父は地方の名士であった)との対立があり、それが不幸の原因であった。
虎ノ門事件の犯人として捕らえられた難波大助は、犯行後ただちに逮捕され、厳しい取り調べのすえ、十一カ月後の大正13年11月13日、傍聴禁止のもと秘密裡に開かれた大審院法廷で死刑の判決を言い渡された。
「日本国民にあらざる日本国民滔天の大逆人の裁き」(大阪毎日新聞)はこうして結末をむかえたのである。
そして、判決言い渡しの二日後、死刑が執行された。判決から死刑執行までは通例、一週間ほどの間があるのだが、それは異例の早さといえた。
死刑判決を申し渡された直後、大助はとつじよ立ち上がり、握りしめた両手を高くかかげながら「革命万歳、国際共産主義万歳」などとを叫んだという。この万歳三唱は、記事差し止めを通告していた当局の意図に反して、のちに世間に知れわたったため、大助への反感感情がさらに高まる結果をまねいた。
死刑の執行は東京の市ケ谷刑務所でおこなわれた。
新聞はこの事実を大々的に報道した。
その時の感慨を、作家永井荷風は日記『断腸亭日乗』の11月16日付けのなかで次のように書きつけている。
「都下の新聞紙一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎之門にて摂政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと悪むものあれど、さして悪むにも及ばず、また驚くにも当たらざるべし。皇帝を弑するもの欧州にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく欧州文明の模倣にあらざるはなし。大助の犯罪もまた模倣の一端のみ。洋装婦人のダンスと選ぶところかあらんや」「非国民」難波大助を非難する声が渦巻くなか、作家永井荷風のさめた眼差しが貴重である。
執行後、ただちに家族あてに遺体ひきとりを打診する電報がうたれたが、親族会議の結果、家族からは「貴電拝見、死体引き取りがたく、貴所においてなにとぞ適当に御処分をお願いしたし」の引き取りを辞退する返事(あまりにもこの事件が世間に与えた影響の大きさを配慮したのだろう)があった。
また、その日のうちに、自由労働連盟その他の団体に所属するという五人の男たちが遺体のひきとりに訪れたが、二十四時間経過していないという理由で断られ、揚げ句の果てに五人の男はその場で検束された。さらに、東京帝大法医学教室から解剖の申し出があったが、これも拒否された。
東京帝大のこの申請は、大助の異常な行為が精神の障害にその因があるとささやかれた当時の風説を受けて、病理学的に解明しようという意図からであった。
処刑後、難波大助の遺体の処置が問題になった。
慣例であれば、東京雑司ケ谷にある監獄墓地に埋葬されるはずであった。が、事件が事件だけにそこに埋葬しては
世間を騒がすことになると当局は考えた。あくまで隠密裡にどこか人知れずの場所に埋葬しなければならなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが東京郊外にある小管刑務所所属の囚人墓地であった。
そこは、南足立郡綾瀬村弥五郎新田(現在は足立区千住日の出町)という地番で、刑務所のある地番と同じこの村は、荒川放水路(現、荒川)の貫通によって、ふたつに分断されていたのである。
一帯は松林になっていて、墓地内の南隅にひときわ見上げるような老松がそそり立っていたという。
四人の看守が見守るなか、青色の尻切り襦袢に股引き、草鞋履き姿の四人の囚人が、その松の下に幅1・5メートル、深さ約2メートルの大きな穴をシャベルで掘り、白木綿につつまれ、荒縄で十文字に縛りつけられた遺骸の入った座棺をそこに埋めた。
以上は、難波大助の弁護人のひとり松谷與次郎氏が関係者から聞いた話として伝わるものである。
その難波大助の墓が、偶然にも掘り起こされることになった。昭和45年3月からはじまった東武線の北千住~竹ノ塚間複々線工事にともない、囚人墓地が改葬されることになったのである。
皮肉なことである。すでに忘却されたはずの難波大助の墓がふたたび世間の目にさらされることになった。
その時の様子を知りたく思って、私はある日、かつて、その囚人墓地があったとされる場所を訪れてみた。
そこで、近くに住むひとりの老女から難波大助の墓のことを聞くことができた。
難波大助の墓があった墓域は、前述した清亮寺に隣接する場所であり、そこはかっこうの子供の遊び場で、子供たちがよくその敷地内を駆けまわっていたという。
また、墓地の中には三基の墓が建っていて、周囲には椿の木があり、季節になると美しい花を咲かせたという。そして、春の彼岸と、秋の彼岸、毎年10月20日に行はれる獄中死没者法会のおりには、刑務所関係者の墓参がかならずあったという。
さらに、墓が改葬された当時のことに話を向けると、
「いつだったかはっきり覚えていませんがねえ。東武線の工事がはじまったある日、刑務所関係の人が多勢やって来ましてね。墓の発掘作業にとりかかったんですよ。僧侶も見えまして、読経の声が聞こえてきました。テントが張られ、その中で、だいぶ長い期間にわたって作業がつづきましたよ。だから作業の内容は見えませんでしたが、なんでも、三百体くらいの遺骨が出てきたらしいですよ」
三百体という数は驚きだった。明治以来の刑死者や獄死者を埋葬した墓地であったのだから、そのくらいの数はあるのかも知れないが、かなりの数である。そのなかに難波大助の遺骨もあったのだろう。
掘り起こされた遺骨はあらためて火葬にふされ、雑司ケ谷墓地に改葬(三基の墓石がそのまま移されている)されたという。
雑司ケ谷墓地は、明治5年に東京府から共同墓地として指定されて以来、今日まで著名人の墓があることで知られている。その一角に、現在は法務省管轄になっている刑務所用の墓域がある。
彼は、生前、獄中から父親に出した手紙のなかで、「けがれた骨は引き取られるようなことはないでしょうが、万が一そういうことをせられるなら、それは絶対に御断りして置きます。私は私の愛する東京の土となることが希望なのです」と遺言したが、はたして彼が希望したような形になったといえようか。
難波大助の魂魄はいまも重い錠がかけられ、捕らわれたままの状態にあるように私には思えたのである。
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