この間初めて 山形のアンテナショップにオープンした「ヤマガタ サンダンデロ」が
山形産だんでろ~?だということを知った さかなべです。
東京出張のため大変ごぶさたしておりました
さて久々の今日は、立谷沢川流域の入口をご紹介しようと思います。
清川は、昔からの最上川交通の要路で、
最上義光時代にも関所を置かれていました。
その後の酒井藩でもここに関所を設けて藩に出入りする人を厳重に調べていたそうです。
酒井藩の関所は、
有耶無耶(うやむや)関・清川・大網・念珠関(ねんじゅぜき)の4か所
最上氏時代には、当時の亀ヶ崎城主(酒田)志村伊豆守が
新興屋をたてて関所を設けていたそうですが、
酒井藩になってから、ここを廃止して清川だけになりました。
清川関所は現在の旧清川小学校の地で、
校舎の東裏、川岸にある井戸は、関所の番所で使ったものだそうです
番所は川に向かって建てられていて、
柵をめぐらし、川岸には、しだれ柳の並木を、
徳川時代、一里塚に植えられた榎も植えられました。
関所は、中央に巾九尺の関門があって、
その左右両側に柵をめぐらし、その左側に番所がありました。
番所の中央の部屋は面番といって、
その右室は上役の役所、左室は下役の役所でありました。
上役は上番といって家中から一人勤務
清河八郎の少年時代、経書を習ったという関吏の畑田安右ェ門は、この上番だったそうです
下役は下番といい給人二人の勤務で、その外に下番の命によって日夜の警戒の任に当たる者が村から一人使われていました。
番所の左側前には警護のために常に槍(やり)五本・さすまた一本・つくぼ槍一本・からめ槍一本を立てて置いてあったそうです。怖い…
門の開閉は午前六時に開扉、午後六時には閉扉。通行には必ず手形が必要で、出判には士格以上の身分は御家老判、その他は御町奉行判を番所にだして検査を受けてここを出なければなりませんでした
明治維新によって廃藩置県となり、関所の制度は明治二年に廃止。
番所の建物は明治七年、清川小学校として開校されましたが、明治12年の洪水で流出して今はありません。
関所当時を偲ぶものとして今に残っているものは井戸と昔ながら流れている最上川と対岸の蘭山(あららぎやま)だけなんですね
山形産だんでろ~?だということを知った さかなべです。
東京出張のため大変ごぶさたしておりました
さて久々の今日は、立谷沢川流域の入口をご紹介しようと思います。
清川は、昔からの最上川交通の要路で、
最上義光時代にも関所を置かれていました。
その後の酒井藩でもここに関所を設けて藩に出入りする人を厳重に調べていたそうです。
酒井藩の関所は、
有耶無耶(うやむや)関・清川・大網・念珠関(ねんじゅぜき)の4か所
最上氏時代には、当時の亀ヶ崎城主(酒田)志村伊豆守が
新興屋をたてて関所を設けていたそうですが、
酒井藩になってから、ここを廃止して清川だけになりました。
清川関所は現在の旧清川小学校の地で、
校舎の東裏、川岸にある井戸は、関所の番所で使ったものだそうです
番所は川に向かって建てられていて、
柵をめぐらし、川岸には、しだれ柳の並木を、
徳川時代、一里塚に植えられた榎も植えられました。
関所は、中央に巾九尺の関門があって、
その左右両側に柵をめぐらし、その左側に番所がありました。
番所の中央の部屋は面番といって、
その右室は上役の役所、左室は下役の役所でありました。
上役は上番といって家中から一人勤務
清河八郎の少年時代、経書を習ったという関吏の畑田安右ェ門は、この上番だったそうです
下役は下番といい給人二人の勤務で、その外に下番の命によって日夜の警戒の任に当たる者が村から一人使われていました。
番所の左側前には警護のために常に槍(やり)五本・さすまた一本・つくぼ槍一本・からめ槍一本を立てて置いてあったそうです。怖い…
門の開閉は午前六時に開扉、午後六時には閉扉。通行には必ず手形が必要で、出判には士格以上の身分は御家老判、その他は御町奉行判を番所にだして検査を受けてここを出なければなりませんでした
明治維新によって廃藩置県となり、関所の制度は明治二年に廃止。
番所の建物は明治七年、清川小学校として開校されましたが、明治12年の洪水で流出して今はありません。
関所当時を偲ぶものとして今に残っているものは井戸と昔ながら流れている最上川と対岸の蘭山(あららぎやま)だけなんですね