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やっぱり、気楽にいこう!

つれづれなるままに

NHKのあきれた番組 4

2006-06-19 08:04:12 | 国防
 おりもおり、最近の北朝鮮による、アメリカ西海岸をも射程の範疇とするという長距離弾道ミサイル、テポドン2号の発射の兆候が報道されている。
 先日のNHKの討論番組「日本の、これから 米軍基地について考えたことありますか」において奇矯な言動を重ねていた、共産党、社会党シンパでいわゆるプロ市民とおぼしき女性は、「米軍基地こそ脅威である」と、意味不明な発言をしていたが、これは隣国の中国や北朝鮮よりも米軍基地のほうが脅威であるという意味であろうか?
 いかにもプロ市民のいいそうなことであるが、核ミサイルを今にも発射しそうな北朝鮮や、覇権国家中国から、日本の自衛隊に関しての憲法上の制約の問題、またその圧倒的な軍事力によって日本の国土を現在のところ防衛することができる、あるいは抑止力として有効に機能することができるのは駐留米軍以外ありえない。しかも地理的に、北朝鮮や中国に極めて近い沖縄の米軍基地こそ日本国土防衛の要であることは間違いない。
 今回のような北朝鮮の危険な火遊びにたいしては、米空軍は軍事衛星によって敵国ミサイル発射台や軍事施設の情勢を逐一監視するとともに、嘉手納基地から電子偵察機コブラボールを飛ばして、もしもの異変があれば、余念なく対処することにぬかりのないはずである。

 万が一ミサイルが試験発射にとどまらず、日本国土等に到達する懸念があるならば、戦闘機か巡航ミサイルで発射台ごと爆破してしまうなり、発射後であれば迎撃ミサイルでこれを撃ち落としてしまう必要があるが、さすがに敵はそんな馬鹿げたことはしないだろう。そのような事態になれば北朝鮮は即座に米軍によって(この場合自衛隊は極めて残念ながら自国が攻撃されても後方支援しかできないはずだ)全面攻撃を受け、金正日体制は崩壊してしまうからだ。

 もちろん基地周辺の騒音問題や、米兵による暴行、ヘリコプターの墜落事故やら、沖縄に米軍基地があることの様々な問題やデメリット(特に沖縄の住民のかたがたの)については十分考慮されなければならないが、北朝鮮からミサイルが飛んできたり、中共軍の侵略を受けて国土を蹂躙されてしまうよりも、まだ米軍を国内に受け入れるという負担をになったほうがはるかに「まし」なのではないだろうか?

 かつて毛沢東は「朝鮮、台湾、琉球、安南(ベトナム)、周辺諸国はすべて中国の領土、および属国」と語ったという。このことばに中国共産党の本質が如実にあらわれている。中国共産党独裁政権は始皇帝の時代と全く変化がないようだ。
 つまり中国は虎視眈々と台湾を狙っている。台湾が万が一中共の領土となれば、日本は緩衝地帯なくしてこの覇権的軍事大国と向きあわねばならない。 
 中共軍は、軍事的空白地帯があれば(例えばチベットのような)容赦なくそこに攻め込んでくるであろう。こうした事態に備えて米軍の圧倒的兵力は、抑止力として日本国のみならず、周辺民主主義国家にとってきわめて有効にはたらくであろう。
 また逆に米国としても日本に基地を持っていることは、その世界戦略上極めて大きなメリットをもっているはずである。今回の米軍再編はこの点を念頭にしたものだ。今後とも日本が米国にとってなくてはならないパートナーとなることがきわめて重要であることはいうまでもない。

NHKのあきれた番組 3

2006-06-16 07:50:44 | 国防
 ではなぜ戦後日本の平和と発展は保たれたのであろうか?

 戦後の日本の学校教育が、共産党や社会党のシンパである日教組に牛耳られてさえいなかったならば、それは当然すべての日本人が義務教育において知り、共通認識されていなければならなかった国際社会の峻厳な歴史、現実である。
 中韓は日本の歴史教育について、しばしば近現代史をきちんと国民に教えていないと内政干渉してくるが、それこそかれらのシンパである日教組が正しい歴史をわざと子供たちに教えなかったのである。最もかれらのいう近現代史とは、旧日本軍が中国、および朝鮮半島において、かつていかに残虐非道なことをしてきたか、ということに限定されるのであるが・・・
( たとえば中国の歴史教科書がいかにひどいかを知るためには、以下の一冊の本を読むだけで十分であろう。読みやすい本なので1時間もあれば読めるとおもう。
逆検定中国国定教科書 中国人に教えてあげたい本当の中国史

 日教組は、戦後日本の平和は日本国憲法9条の存在によって守られてきたと、馬鹿の一つ覚えのごとく無垢の小中学生に教え、わたしたちはそれを信じさせられてきたおかげで、社会科教育において国際社会の厳しい現実について考える機会を奪われてきたのである。
 たとえば現在の政治家や外務省の役人が、共産党独裁かつ覇権国家中国の態度にこれほどまで弱腰である理由が、かれらの青少年時代の日教組による自虐的歴史教育、つまり旧日本軍は隣国にたいしてひどいことをしたという教育のために、隣国とのさまざまな外交において及び腰になっているとすれば、これほど国益を損することはないのである。

 何度もいうがこんなもの(平和憲法)で、平和が保たれるのであれば、人類には何の苦労もない。
 法律に戦争をしてはいけない、しないと書いてあっても、たとえば北朝鮮からミサイルが飛んでくればそれでおしまいであるし、現実に飛んでくる可能性は少なからずあるのである。ミサイルが飛んでこないにしても、日本近海に怪しげな漁船や潜水艦があらわれて、いたいけな少女や青年を連れていってしまうなどというとんでもない国家による犯罪が北朝鮮の拉致問題にほかならない。

 ネット上でしばしば左翼系の発言やブログに集中的な批判が集まるのは(炎上というそうだが)、学生時代に日教組に誤った日本の歴史を学ばされ、それが著しく現在の日本の国益を損なわせているという憤慨がそうさせているかもしれず、私もおそらくその一人であるかもしれない。

NHKのあきれた番組 2

2006-06-13 11:40:41 | 国防
 ところで原子爆弾を落とされるまで、米軍に対して無意味な抵抗をやめなかった旧日本軍であるが、敗戦からわずか5年後の朝鮮戦争の時点で、どうして当時の日本人は米国にたいして、これほど従順になってしまったのであろうか。
 それは1945年9月に公表された昭和天皇と連合国軍総司令官マッカーサーの記念写真の強烈な日本人の心情へのアピールによるものが大きいと思う。
後ろ手をくんで傲岸にふんぞりかえるマッカーサーに対して、戦時中には現人神とされた昭和天皇が緊張感に満ちあふれ、直立不動の姿勢で恐縮しているようにみえる。
 これをみた当時の日本人のすべては、やっぱりアメリカに負けたんだ、という現実を心底実感したことであろう。
 この会談の席上で、昭和天皇は「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました。」と述べ、この勇気ある態度は私の魂までも震わせた、と後にマッカーサーは回顧録に執筆しているという。
 普通なら敗戦国の元首など、第三国へ亡命をこころみるのが通常であるが、この昭和天皇の、人のうえにたつものとしての崇高な姿勢が、国民を感動させ、現代においてもいまだ皇室が国民から変わらぬ尊敬を受けている大きな理由のひとつであると思う。

 話が横道にそれてしまったが、戦後の日本の平和と発展が維持されたのは、断じて憲法9条が存在したからではない。こんな法律の一文で平和が保たれるのであれば、有史以来人類は滞りなく繰り返される戦争の惨禍に苦悩することはない。
 台風や地震などの自然災害が、法律によって免れることがけっしてないように、戦争が法律によって回避されることなどけっしてあり得ない。そうゆう意味では戦争は自然災害に似ているといえるかもしれない。

NHKのあきれた番組 1

2006-06-11 09:42:08 | 国防
 昨夜のNHKの討論番組「日本の、これから 米軍基地について考えたことありますか」はひどかった。

 サッカーの裏でやっていたから、見た人は少ないと思うが、絶滅に瀕しているというか、それが望ましいと思われる、反日的、自虐的日本人が公共の放送で堂々と発言しているのをひさびさに見た。
 この番組には額賀防衛庁長官も出演していて、最初のうちはかれらのどんな批判や質問にも誠実に応対しているようにみえたが、時間が経つにしたがって共産党シンパと思われる連中の暴論に、あきれてものがいえなくなった様子があきらかに見てとれた。この番組には防衛庁や外務省に勤務経験のある、拓殖大学の森本 敏氏も出演していたが、同じような感じだった。
 こんな番組をどのような意図があってNHKが90分も垂れ流したのかわからないが、一般の国民が共産党シンパの無茶苦茶な論理に嫌悪感を抱かせるためにつくられたのであれば、少しは納得がいくものだ。
 要するに番組の主旨は、米軍再編によって日米同盟が強化されることにたいして、番組に出ている識者と一般市民はどのように考えるかということを、視聴者に対する電話アンケートを交えながら、討論する内容であった。

 たとえば共産党シンパの繰り返す暴論のひとつに、「憲法9条によって、戦後日本の平和は守られたのである」という主張がある。

 私は、憲法9条とは、1945年の太平洋戦争(大東亜戦争)の終結の時点で、占領軍である米国が、日本がこの戦争で敗戦したにもかかわらず、将来的には存在しつづけるであろうわが国の軍事力に対する潜在的脅威を完全に抹消する目的で、押し付けたもの、と理解している。

 その証拠のひとつとして日本国と日本国民が米国にたいして完全に従順であることがあきらかになれば、自衛隊の前身、警察予備隊として旧日本軍を再武装させ、朝鮮戦争に従軍させ、米軍に協力させたことであきらかである。憲法9条を完全に無視して、である。つまり戦時下では何でもありなのだ。
 1946年に日本国憲法が公布された時点でも、1950年に朝鮮戦争が勃発した時点でも、いまだ日本は米国の被占領国であり、わが国に主権が存在しなかったのはいうまでもない。
 ちなみに日本が日米安保条約によって主権をとりあえず回復したのは、朝鮮戦争がはじまった翌翌年の1952年である。つまり朝鮮戦争によって旧日本軍が米軍にまったく従順となったことが試されたのである、といっても言い過ぎではないだろう。

憲法記念日に憲法9条を考える

2006-05-03 08:16:58 | 国防
日本国憲法9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

日本には陸海空軍に相当する自衛隊が存在し、そうとう高度な戦力を持っているのにもかかわらず、憲法にはそれが否定されている。これは極めて異常な状態である。

 また上述の憲法9条には一般的にはいわゆる集団的自衛権が保証されていないとされる。
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある他国に対して第三者による武力攻撃があった場合に、自国が直接に攻撃されていなくても、第三者による武力攻撃を実力をもって阻止・排除する権利である。(Wikipediaより)

 つまり日本国が他国から攻撃された場合(またはされようとした場合)、米軍がこれに対応して出動し、かりに戦闘になったとしても、自衛隊はその敵国を攻撃できないのである。つまりこっちに弾丸やミサイルが飛んでこない限り、指をくわえて見ていることしか出来ない。殴られてからでないと反撃できないのでは喧嘩にならない。

 折も折り、在日米軍の再編に関して神奈川の座間基地や、東京の横田基地には米軍と自衛隊の空陸軍の司令部が併設されるなど、日米同盟は深化の道をたどっている。
 これはいうまでもなく、軍事大国化する中国と、極めて不安定な政治状況にある北朝鮮の、もはや万が一ともいえない状況にある周辺有事に対応するものである。
 たとえばその可能性は、昨年だけで航空自衛隊のスクランブル発進は100回を超えるものであったというし、中国の潜水艦の度重なる日中中間線を超える航行、竹島を巡る日韓の軋轢、北朝鮮の核開発問題などに顕著な兆候がみられるのである。
 本来国防とは他国の力を借りるべきものではないと思うが、現実的には日米同盟は不可欠のものである。
 本質的に軍隊とは攻撃力よりも、抑止力をその本分とするものである。十分な軍事力を備えたうえで、領空、海侵犯を決して許さないという国家の厳格な姿勢が、小規模の紛争を未然に防止することができる。小規模な紛争はかならず大戦争に発展する可能性があるので、戦争をしないためにも十分な軍事力をもつのは極めて有益であるといえる。

 ゆえに自衛を正当化するための法体系の確立、すなわち憲法9条の改正が急務である。
 が、まだまだ現実的には憲法改正を拒む勢力や国民の世論が国内にあるかぎり、当分はそっちの方向には進まないような気がする。逆にそのような意見を封殺しないという点で日本は健全であるといえるかもしれない。
 健全ではあるかもしれないが、北朝鮮からミサイルが飛んできたり、尖閣諸島や竹島近辺で軍事的衝突があり、人が何人か死なないといまの日本ではそうゆう方向、つまり憲法9条改正に動かないであろう。しかしこれでは遅すぎるのである。

兵器について

2006-04-10 09:43:51 | 国防
 いうまでもなく刀剣甲冑のたぐいから、最新の戦闘機にいたるまで、兵器と名のつくもののすべては殺人のために開発された道具にほかならない。
 倫理上あきらかに「ひとごろし」という忌むべき行為のために、国家はなぜ公然と軍隊を所有し、殺人兵器の開発に余念がないのであろうか?
それは兵器というものが殺人の道具であるのと同時に、いっぽうで人を生かす、つまり丸腰の国民の生命、財産、そして文化等を護衛するために必ず不可欠の道具であるからである。
 人間社会、あるいは国家間に「争い」の可能性がある限り、また来るべき外敵から身を守るために国は、その可能性をあらゆる角度から分析し、予想し、つねに防衛の努力を怠るべきではない。
 戦争が悪であることはいうまでもないが、いったい人間社会、人間心理において、争いの要素の絶えることがあるであろうか?小さな感情の対立から時には殴り合いが生じるように、国家間のささいな対立、あるいは指導者の無謀な感情から戦争が勃発し、国家を灰燼に帰してしまうことなど歴史上極めて頻繁に生じてきた事実なのだ。
 私の大好きな宮沢賢治は「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」といった。それはそれで全く真理であり、このようなことがあれば実際すばらしいと思うが、賢治さんには申し訳ないけれども、この言葉は理想論にすぎず、人間心理から「争い」の要素が消えない限り、そのようなことが実現することはおそらく永久にあり得ないであろう。