黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京貧民窟をゆく~浜新網町

2016-05-20 02:49:53 | ・貧民窟
東京貧民窟の今を歩くシリーズの第二弾は、
浜松町駅からほど近いエリアにあった、浜新網町の貧民窟です。

四谷の鮫河橋のエリアの貧民が、
陸軍士官学校からでる残飯を目当てに集住したエリアだったのに対し、
こちらは築地の海軍兵学校からでる残飯を目当てに集まった人々でした。

この一帯は、元来江戸時代からの埋立地で、
道も碁盤の目のように造られていたので、
現在の垂直に交わる道に関しては、
江戸時代からそれほど変わっていないと考えていいかもしれません。

輪河橋に住んだ人々の職業は、おもに日雇人足や車夫でしたが、
このエリアには、それに加えて大道芸人が多かったそうです。
横山源之助の『日本の下層社会』に記された新網町の特徴として、
「表面に媚を湛えて傍らに向いてぺろり舌を出す輩多く」
とあるのは、これら大道芸人のトリッキーな行動を表した物だと思います。
それでは、現在の浜新網町を歩いてみようと思います。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら


クリックで画像拡大

JR浜松町の南口の階段を降りて、目の前に広がるエリアが
かつて貧民窟があった場所になります。(概略地図:1)
ご覧のように、現在では中小の会社と飲食店が入居する雑居ビルが建ち並び、
かつて都内屈指の貧民窟があった場所とは、想像だにできません。






クリックで画像拡大

しばらくエリアを歩くと、
正面に世界貿易センタービルが見えるます。(概略地図:2)
国内で2番目に建造された高層ビルは、今も健在。
江戸時代、貿易センターをはじめとした周辺の地域は武家屋敷が建ち並び、
そのはずれにあったのが新網町でした。
新網の名は、幕府から与えられた網干場の地を、
漁夫の住宅街としたことに由来するようです。






クリックで画像拡大

貿易センターの見える辻から東へ進むと、
JR線を越える架道橋があります。(概略地図:3)
車両は通れない、歩行専用のガード。
横には時代を感じさせるお地蔵様がいますが、
礎石の刻印を見ると、昭和二十六年とあるので、
戦後のお地蔵さんですね。






クリックで画像拡大

鉄骨補強された架道の先には、
かつての紀伊徳川家の浜御殿があった、
旧芝離宮恩師公園があります。






クリックで画像拡大

線路沿いに浜松r町の駅のほうへ戻る途中、
細い路地から西の方を見た光景。(概略地図:4)
こういった細路地ですら、昭和の香りを嗅ぎ取れるくらいで、
決して貧民窟だったそぶりはどこにもみあたりません。






クリックで画像拡大

エリアのほぼ中央には讃岐小白(こはく)稲荷神社(概略地図:5)は、
江戸の文政年間に、隣接する松平家の下屋敷に創建された讃岐社を明治以降一般に開放し、
その後、古川沿い(概略地図下方)にあった小白社を合祀した神社のようです。
エリアで唯一、貧民窟の記憶を留める神社といえるでしょう。



浜新網町の貧民窟は、エリアが狭く、
現在も、なんら特徴のない街角なので、
これで終わりです。
次回は三大貧民窟の最後の一つ、
上野万年町を訪れます。


最新の画像もっと見る

2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
訂正お願いします。 (imedix)
2022-11-23 21:31:43
浜離宮ではなく、芝離宮(旧芝離宮恩賜庭園)です。
返信する
訂正お願いします。 (imedix)
2022-11-23 21:31:46
浜離宮ではなく、芝離宮(旧芝離宮恩賜庭園)です。
返信する

post a comment