Chiro's Memo

My Sweet RoseとRosariumの更新記録です。

仮装

2006-10-31 23:16:51 | Weblog
なぜ今日のタイトルが「仮装」かというと
文化祭や体育祭のことを思い出したからです。

私の高校では体育祭でチームごとに仮装して寸劇を行いました。
どんな題材で仮装をするか様々な案が出ました。

 「源氏物語」衣裳を作るのが大変なのでボツ。
 「三国志」同じく衣裳を作るのが大変、女子の出番が少ないのでボツ。
 「十戒」衣裳は簡単だけどスケールが大きすぎるのでボツ。
 「くるみ割り人形」最終選考まで残ったけれど、ボツ。

結局「アラビアン・ナイト」になりました。
ですが、「アラビアン・ナイト」といっても色々な話があるので、
どれにしようか検討した結果
最終的には「アラジンと魔法のランプ」に決まりました。
(歳がばれますがディズニー「アラジン」公開前のことです)

アラジン役は女子が、お姫様は男子が扮しました。
そしてランプの精はクラスで一番背の高い男子が顔と手足を青く塗って力演しました。
なぜ青なのかというと参考にした絵本のランプの精が青かったからです。
ちなみに私はその他大勢の召使で、アラジンの結婚式で踊る役でした。

もう一つ「仮装」といって思い出すのが大学のゼミです。
実現はしなかったのですが、
冗談で「謝恩会では自分の専攻にちなんだ仮装をしよう。」と言っていたのです。
たとえば私なら世紀末象徴主義絵画の人物のような衣裳を着るといった具合です。
他にも「化粧回しをつけて横綱の土俵入り」
(もちろん自分の髪の毛で大銀杏を結う)や
オリエンタルな衣裳を身に着ける。男装する。など
色々と謝恩会のときの仮装を考えていましたが、
結局は普通のスーツで出席しました。

今は仮装をする機会は全くありませんが、
もしできるのであれば(無謀ですが)ラファエル前派の絵画の女性のような格好をしてみたいです。

猫恋しい季節

2006-10-30 22:53:16 | 
秋も深まり、猫が恋しい季節になりました。
夕べは父のズボンの上で寝ているさっちゃんを自分の布団の上に連れて行きました。
私の足元に置いたのですが、すぐに枕元に移動してそこに定着してしまいました。
朝目覚めると足元でアンモナイトの如くまん丸になっていました。
さっちゃんは真冬でも絶対に布団の中には入ってきません。
あくまでも布団の上、それも真ん中にどっかりと寝ます。

先日はねずみを捕まえてきて、夜中に大騒ぎになりました。
野生の本能が衰えていないさっちゃんです。

世界史の学び方

2006-10-28 23:22:07 | 歴史
現在高校における世界史の未履修が問題になっております。

私の高校生時代(十数年前)は
 文系:日本史(必修)世界史・地理(どちらか選択必修)
 理系:日本史・世界史・地理の中から1科目選択必修
となっておりました。(私の出身校の場合)

しかし、理系では例年世界史の選択者が少なく、
私の学年でも世界史の授業は行われませんでした。
理系に行った世界史好きの友人は残念がっていましたが、
「受験」を第一に考えれば、日本史や地理のほうが教えやすいのかもしれません。

私は文系だったので、日本史と世界史の両方を学びましたが、
自分が高校生時代最も勉強した科目が世界史だったのでは?と思います。
世界史については今でも記憶している事柄が多くありますが、
他の科目(特に理数系)は全く頭に残っていません。

でも高校までの授業で教えられた世界史よりも、
本やテレビ番組、美術作品、あるいは漫画本に触れて知った世界の歴史のほうが
ずっと印象に残っております。
私は小説よりも歴史本やノンフィクション、
ドラマやバラエティよりも歴史もの・美術もののドキュメンタリー
恋愛ものの少女漫画よりも歴史ものの少女漫画が好きな高校生だったため、
そういったものを通して世界史を知らず知らずのうちに学んでいたのかもしれません。

受験科目としての「世界史」ではなく、
生きた「世界の歴史」に若いうちに触れておくことは、大いに刺激になると思います。

母曰く「(未履修の高校生)みんな船に乗せて世界一周の旅をしたら世界史と地理の勉強が同時にできるんじゃない?」
そういう授業があるならぜひその高校に入りたいです。

星と星座の世界

2006-10-27 19:35:55 | Weblog
本日Rosarium “Extra Room”内に
星と星座の世界をUPしました。
以前こちらで連載した「黄道十二宮」と「惑星」のシリーズをまとめたものです。

星座については機会があれば今後もブログで取り上げたいと思っております。

オルセー美術館展

2006-10-25 22:15:58 | 美術
モロー ガラテア


19世紀芸術家たちの楽園―オルセー美術館展
この展覧会は「モデルニテ:パリ近代の誕生」(1996)
「19世紀の夢と現実」(1999)に続くオルセー美術館展3部作の集大成とのことです。
(パンフレットより)

今回のテーマは19世紀の芸術家たちと
彼らの創作の源となった人間関係や場所との親密な関係についてとなっています。
私の好きな作品を中心に取り上げていきたいと思います。

Ⅰ 親密な時間
芸術家を囲む家庭的な人間関係の中で生まれた作品が紹介されています。

モリゾ ゆりかご 1872

画家の姉とその子どもを描いた、彼女の代表作です。
1874年の第一回印象派展に出品されました。
母親の穏やかな表情と眠る赤ん坊の顔の愛らしさ、
ゆりかごを覆う白いモスリンの布の質感表現が見事な作品です。


ルノワール ジュリー・マネ 1887

モデルはモリゾとマネの弟ウジェーヌの間に生まれた娘です。
ルノワールの作品といえば暖色のイメージがありますが、
この作品は白とグレーを基調に背景のピンクがアクセントとなった
落ち着いた色彩で描かれています。
輪郭線を用いて描いた「アングル風の時代」の代表作です。


ルドン セーラー襟のアリ・ルドン 1897頃

ルドンといえば幻想的な物語画や花瓶の花を描いた作品がよく知られていますが、
この作品は彼の息子を描いた作品です。
ルドンは妻や息子との満ち足りた暮らしの中でパステルカラーの夢を生み出すようになりました。


Ⅱ 特別な場所
芸術家にとって創作活動に決定的影響を及ぼした「場所」に焦点を当てています。
モネの「ルーアン大聖堂」やブーダンの「トルーヴィルの海岸」
シスレー描く「セーヌ川」ピサロ描く「田園風景」など
いずれもそれぞれの画家にとって重要な「場所」です。

ルドン ペイルルバードの道 

初期に描かれた風景画です。
ペイルルバードはルドンが生後2日目で里子に出され、
両親と離れて幼少期を過ごした村です。
ここでの孤独な生活と自然が彼の原風景になったといわれています。
空の色は美しいのですが、どこか寂寥感を感じる風景は彼の心情を表しているのでしょう。
ルドンが40歳を過ぎた頃ペイルルバードの土地が人手に渡ります。
彼はペイルルバードの呪縛から解き放たれたかのように
それまでのモノクロームの悪夢からパステルカラーの美しい夢を描くようになってゆきます。


Ⅲ はるか彼方へ
ロマン主義の台頭以後芸術家の多くは遠い異郷・異国への憧れに取り付かれます。
19世紀後半になると実際に未知の土地に向かって旅をする芸術家も現れました。
ゴッホにとってのアルル、ゴーガンにとってのタヒチ、
ベルナールにとってのブルターニュなど
どれも彼らの「憧れの異郷」でした。
セザンヌのように故郷の風景に「憧れの土地」を見出した者もいました。

モーリス・ドニ 天国 1912
著作権の関係上画像をUPしておりません。画像を見られるサイトにリンクしております。(Paradiceという作品です)
ブルターニュのドニの別荘の庭で遊ぶ天使と彼の孫たちを描いた作品です。
海辺の別荘の花咲き乱れる庭の様子は現実に即して描かれていますが、
天使と子どもたちの戯れという幻想的な要素が盛り込まれています。
彼にとって家族と過ごす日常こそが「天国」であったことを表しています。
薔薇色が画面を支配する美しい作品です。

このほかイスラム風の装飾が施された陶器やガラス器
カイロやエルサレムの風景写真などが展示され、
当時のヨーロッパの人々の東方世界への憧れを垣間見ることができます。


Ⅳ 芸術家の生活―アトリエ・モデル・友人
芸術家の創作空間であるアトリエとそれを取り巻く人間模様に焦点を当てています。
バジールやファンタン=ラトゥールの描くアトリエに集う芸術家仲間
ルノワールは絵筆を持つモネを描き、
ドガはマネの姿をデッサンに留めています。

マネ すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ 1872

詩人ヴァレリーに絶賛された作品です。
マネはモリゾをモデルに数々の作品を描いています。
モリゾは常に黒か白の服を身に着けた、美しく魅力的な女性だったそうです。


Ⅴ 幻想の世界へ
芸術家の内面が現れた幻想と神秘・象徴の世界が紹介されています。
オルセー美術館といえば「印象派の殿堂」というイメージが強いのですが、
19世紀芸術は写実主義・印象主義だけでは語ることができません。
もう一つの重要な潮流が象徴主義です。
オルセー美術館には象徴主義の作品も数多く所蔵されています。

ペリッツァ・ダ・ヴォルペード 死せる子供(あるいは夭折の花)1895-1906

ペリッツァ・ダ・ヴォルペードはイタリア人の画家です。
この作品は故郷の村で目にした子どもの葬礼を描いたもので、
死と慰霊の象徴的光景を表現しようとしたものです。

そのほかクノップフによる妹マルグリットをモデルにした写真や
英国の女性写真家ジュリア・マーガレット・キャメロンによる写真作品も展示されていました。
キャメロンの写す女性像はラファエル前派の絵画作品の影響を受けたもので、
それまでの肖像写真とは異なり、独自の詩情あふれる世界を作り出しています。

今回の展覧会では「印象派絵画」だけではないオルセー美術館の姿を見ることができました。
19世紀の芸術家たちを取り巻く「人」や「場所」の魅力が伝わってきたようです。

今日のブログでは『ガラテア』の感想を述べていませんが、
『ガラテア』については日を改めて記事にしたいと思います。

オルセー美術館展感想予告編

2006-10-24 23:50:26 | Weblog
オルセー美術館展で見た私の一番好きなものです。(『ガラテア』は別格です)

この三毛猫のにっこりとした目元、口元の満ち足りた様子から
思わず「幸せ~」とつぶやきたくなります。
そして猫の温かみと重みまで作品からは感じ取れます。

猫にとっても猫を抱く人間にとっても至福のひと時のように思えます。

この作品の全体像は明日UP予定のオルセー美術館展の感想にて御覧ください。

閑話休題

2006-10-23 23:52:40 | Weblog
京都・神戸旅行記も残りオルセー美術館展を残すのみとなったのですが、
オルセー美術館展については時間のあるときにじっくりと記事にしたいので、
今日は旅行記は休みます。

ネットサーフィンしていて面白いものを発見しました。
 BannerCodeBattler(仮)+
自分のサイトのバナーの真の姿が明らかになるそうです。

面白そうなので早速やってみました。
こちらです。

職業:魔法使い
悩み事:自分の名前を思い出せない
というのがなんとなくイメージに合っているような?気がします。

早大エジプト発掘40年展

2006-10-22 22:32:50 | 美術
京都での最後の目的地はJR京都駅にある「美術館『えき』KYOTO」です。
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」

今回の展覧会は早稲田大学創立125周年とエジプト発掘開始40周年を記念して開催されたもので、
早稲田隊による約200点の発掘品で構成されています。
日本で展示されるのは今回が最初で最後との触れ込みでした。

展示品はカイロ博物館や大英博物館の所蔵品のような煌びやかなものはないのですが、
早稲田隊の歴史や発掘の様子などをたどっていくといった感じの構成でした。

やはり会場で一番目を引いたのは
未盗掘の墓から出土した木棺とミイラマスクです。
これは中王国時代のセヌウという人物が納められていたもので、
完全な形で発見されたミイラとしては最古級といわれています。
残念ながらセヌウさんご本人(ミイラ)は来ていませんでした。

先日放送された「世界 ふしぎ発見!」で出題されたクイズに
「古代エジプトで神様にお願いをするときに奉納する体のある部分の模型は何か?」
というのがありました。
答えは「神様の言うことによく耳を傾けるように」との意味を込めた「耳」だったのですが、
その「耳」の模型も展示されていて、
これが神様にお願いするときの耳なのか~と、ひとり納得していました。

今回の展覧会には私の大好きなバステト女神(猫の女神)に関する展示がなかったのが個人的に残念です。

角屋もてなしの文化美術館

2006-10-20 23:12:26 | 美術
JR花園駅から嵯峨野線に乗り、丹波口駅で下車し、
京都卸売市場の中の道路を通り抜けて島原へ向かいました。

角屋もてなしの文化美術館はかつての花街・島原の揚屋であった建物を保存し、
数々の書画・工芸を年2回の企画展で展示しています。
1階の展示室と台所・座敷は入館料を払えば自由に見学できるのですが、
2階の座敷の見学については要予約です。
私が行ったときにはちょうど2階の見学の予約をしていたグループがいて、
そちらに入れてもらい2階の見学もさせてもらえることになりました。

2階への案内が始まるまで、1階の企画展示室を見学します。
今開催中の企画は「島原舞太夫のよそおい展」で、
島原の太夫の衣裳や髪型などの歴史を
絵画や実際の衣裳・髪飾りなどでたどっていくというものです。
初めのころは比較的簡素だった太夫の衣裳や髪型も
時代が下るにつれて華やかなものになっていきます。
あれだけの衣裳と装身具を身に着けて、優雅な立ち振る舞いをするのですから
太夫には美貌と教養だけではなく体力も必要だったのだなと思いました。
私には無理です(美貌と教養はもちろん体力も自信無し)


2階の座敷の見学の時間となり、案内にしたがって2階に上がります。

「緞子(どんす)の間」
最初に案内された部屋です。
襖が緞子張りになっていることからこの名前がついています。
広い床の間と違い棚がこの部屋の格式の高さを表しています。
掛け軸にはかわいい子犬の絵がかけられていました。

「翠簾(みす)の間」
襖が山田峨山による「総翠簾の絵」であることからこう呼ばれます。
実際に遊宴が行われていた部屋のため襖は蝋燭の煤で汚れてしまっていますが、
それでも本物の翠簾のように描かれた様子は伝わってきます。

「扇の間」
天井に58枚の扇面画を貼り付けていることに由来します。
扇面書画の作者は多くの著名な絵師や文人です。
欄間や襖の引き手、釘隠しなども扇型になっています。
この部屋の特徴は舞台が設けられていることで、
大規模な宴会になると、緞子の間・翠簾の間・扇の間をそれぞれ隔てる襖がすべて取り外されます。
そのような時義太夫語りを舞台にて行います。

「草花(そうか)の間」
1階から階段を上がって最初に入る部屋で、廊下として用いられた部屋です。
3部屋を使って宴会が行われる際には控えの間としても用いられました。

「馬の間」
この座敷の天井は角屋が六条三筋町から現在地に移転する際に移築されたものと伝えられます。
襖は円山応挙による『少年行』で、馬に乗る人物が描かれていることから「馬の間」と名づけられました。

「桧垣の間」
天井・障子が桧垣組で作られているところからこう呼ばれます。
非常に手の込んだつくりの障子なのですが、
障子の桟はすべて一本の木を削って造られたもので、
貼り合わせは一切用いていないそうです。
これまで見てきた部屋が「書院造」であるのに対し、
この部屋は「数寄屋造」になっています。

「青貝の間」
ここは壁・建具などに螺鈿が施されており、
螺鈿細工に用いられた貝にちなんでこの名前で呼ばれます。
ここの壁は黒くくすんでいますが、もともとは浅葱色でした。
他の部屋の壁は煤で黒くなっていたのを元の色に戻していますが、
この部屋は壁に螺鈿があるため壁の塗りなおしができず、
現在まで黒い壁のままになっています。
障子には大きな窓が開けられ、オランダ製のガラスがはめ込まれています。
窓を閉めたままでも庭の景色が眺められるようになっているのです。
窓を開けると露台(ベランダ)が設けられています。
このように部屋全体が異国趣味で設えられ、他の部屋とはずいぶん雰囲気が異なります。


2階の見学はここまでで、1階へ降ります。
「松の間」
角屋で最も広い座敷で、庭にある臥龍松からその名で呼ばれます。
庭には3つの茶室があり、それぞれ異なったつくりになっています。
ここで島原や角屋の歴史、揚屋や太夫について案内を聞きました。

なぜお客をもてなす店を「揚屋」と呼ぶのかというのは、
かつて1階は台所や居間など店の者たちの生活の場で、
お客はすべて2階に「あげて」もてなしていました。
そのため「揚屋(あげや)」と呼ぶようになったのです。
後にお客が増えて捌ききれなくなったため、
1階にもお客をもてなす座敷を設けるようになりました。
「揚屋」に対して太夫などを抱える店を「置屋」と呼びます。
現在島原に唯一残っている置屋が「輪違屋」で
置屋兼お茶屋として営業を続けています。(「観覧謝絶」の札がかかっています)

様々に趣向を凝らした座敷や調度品
あらゆる教養を身につけた接客のプロである太夫など
まさに「もてなし」の心とはこういったものであるのかと
目から鱗が落ちるような美術館でした。

龍安寺・仁和寺

2006-10-20 22:11:21 | 美術
朝7時過ぎに宿をチェックアウトして、龍安寺に向かいました。
ここは朝8時から拝観できるので、
朝早い時間から京都を巡るにはぴったりの場所の一つです。
京福電鉄の竜安寺道駅から緩やかな登りの道を行くと、門が見えてきます。
その門を抜けるとバスも通る道路に出て、
その向こうにようやく寺の境内が見えてきます。

庭園を歩いて庫裏へ向かい、方丈庭園を拝観します。
世界遺産に登録されているここの石庭については
すでに語りつくされた感があるので、多くは述べませんが、
ちょうど見ていたときは私一人だったので、
石と砂利でできた小宇宙と存分に向き合えました。
といっても私には石が「虎の子渡し」には見えず、
水面に浮かんだ海亀や地面を這うカタツムリに見えてしまい、
自分は哲学者にはなれそうに無いと痛感しました。

その後かつてはオシドリも泳いでいたという池のほとりを散策しながら門へ向かいました。
私は人気のない、大きな池のほとりというのが怖いのですが、
そのときはほとんど人がいなかったにもかかわらず
不思議に怖いとは思いませんでした。
蓮や睡蓮の咲く時期であればもっと見事だっただろうなと思います。

龍安寺を出て、道なりに10分ほど歩けば仁和寺にたどりつきます。
御殿・霊宝殿の拝観開始時間にはまだ余裕があったので、
先に金堂、観音殿のほうを散策します。
ここは京都一遅い開花で知られる「御室桜」の名所で、
今はこれといった花はありませんでした。
仁和寺の金堂はかつての御所・紫宸殿を移築したもので、
これが御所の建物なのかと感慨深くなりました。

御殿は格式の高いもので、つくりも素晴らしいのですが、
いかんせん時代が浅いためか感銘はいまひとつでした。
そして霊宝殿では国宝の阿弥陀如来像をはじめ数々の文化財が展示されていたのですが、
興味を引いたのが、仏画の下絵です。
墨で主線が引かれた中にカタカナで「コン」「アオ」などと書き込まれています。
これはおそらく着色の際の指示だったのだろうと思います。

仁和寺から妙心寺を経由してJR花園駅へ向かいました。
妙心寺は以前母と拝観したことがあったので、
今回は通り抜けながら眺めるだけでした。
以前拝観したときに昔の浴室を見たのですが、
昔の修行僧は入浴の際使えるのは桶3杯のお湯だけだったそうです。
お坊さんは髪を洗う必要が無いので
桶3杯のお湯でも間に合うのかもしれませんね。