夏目漱石の小説に「薤露行(かいろこう)」という作品があります。
アーサー王伝説を題材にした短編小説で、
「吾輩は猫である」を執筆していていた同じ時期に一週間で書き上げた作品です。
この作品はマロリー「アーサー王の死」テニスン「国王牧歌」の「ランスロットとエレイン」を典拠に用い、
王妃ギニヴィアと騎士ランスロットの不義の愛と
ランスロットに恋する乙女エレインの愛と死を主な内容にしており、
「トリスタンとイゾルデ」や「パオロとフランチェスカ」などと同じく
近代ロマン主義が復活させた中世ヨーロッパの愛の伝統に根ざした作品となっています。
そのことからも漱石の西洋文化に対する理解の深さを知ることができます。
「薤露行」は5章からなる作品で、第2章「鏡」はテニスン「シャロットの女」を基にしています。
本来エレインとシャロットの女は起源を同じくするキャラクターなのですが
漱石はその事実を知らなかったようで、エレインとシャロットの女を別人物として物語を執筆しています。
シャロットの女は眼(まなこ)深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。
「薤露行」
この描写から連想したのはラファエル前派(特にロセッティ)の描く美女の姿です。
本来ヴィクトリア時代「美人」とされたのは、ラファエロの描く聖母のような小柄で丸顔の愛らしい女性でした。
いわゆる「ラファエル前派風」の女性は当時の「美人」の範疇からは外れていたのですが、
ラファエル前派の画家たちの作品が評判を取るようになって
次第に世間でも「ラファエル前派風」の美女がもてはやされるようになりました。
これは私の想像なのですが
エレインはいわゆる「ヴィクトリア風」の可憐な美少女で、
シャロットの女は「ラファエル前派風」の妖しい魅力を持った美女という対照的なタイプのような感じがします。
テニスンの詩と漱石の物語の最大の違いはシャロットの女の最期です。
ランスロットの姿を直接見てしまい、呪いのかかったシャロットの女は
テニスンの詩では小舟に乗ってキャメロットを目指し、歌を歌いながら息を引き取りますが
「薤露行」では呪いのかかったシャロットの女は塔の中で息絶えてしまいます。
「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期の呪いを負うて北の方へ走れ」
「薤露行」
「薤露行」におけるシャロットの女の最期の言葉です。
ランスロットに恋しその姿を見てしまったことで、死ぬ運命となったシャロットの女にとって
ランスロットはいわば「宿命の男」(このような言葉はないのですが)です。
しかしランスロットは塔の中に住まうシャロットの女の存在を当然知る由もありません。
彼女はランスロットに呪いの言葉をかけ、自らが「宿命の女」になることによって
ランスロットへの愛を伝えようとしたのでしょうか?
「薤露行」で描かれるシャロットの女の姿には「女の業」というものを強く感じます。
第5章「舟」においてランスロットへの愛ゆえに息絶えたエレインの遺骸は
小舟に乗せられてキャメロットへ向かいます。
その途中シャロットの地で悲しい歌声が舟に聞こえてきます。
シャロットの女が塔の中で歌う声です。
ここでエレインとシャロットの女の姿が重なり合わさることとなります。
エレインは遺書を握らせて自らを小舟に乗せるよう家族に頼んでいます。
その手紙には
天(あめ)が下に慕える人は君ひとりなり。君一人の為に死ぬるわれを憐れと思え―
「薤露行」
と記されています。
エレインの遺書はあくまでもランスロットへ憐れみを請うもので
シャロットの女の最期の言葉のように烈しい呪いの言葉ではありません。
「薤露行」において対照的に描かれた「エレイン」と「シャロットの女」ですが
この二人は表裏一体の存在であるように思えます。
シャロットの女についてはこちらもごらんください。