「ときめくファッション~小町娘からモダンガールまで~」の
第二展示室の展示のテーマは、大正から昭和初期の愛媛の女学生です。
元女学生の生の声をもとに当時の女学生ライフの再現を試みています。
女学生
女学校を目指す少女や近隣の男子学生にとって
「女学生」というのは特別な存在でした。
かつての女学生たちの証言を見ていると、
セーラー服を身に着けた、優美で礼儀正しい「お姉様方」が
憧れの存在であったことが良くわかります。
入学したい!
「女学生」になるためには本人の学力および家庭の経済的支援と理解が必要でした。
入学したときにはチグハグだった少女たちが
卒業するときにはまるで本当の姉妹のように親密な間柄になっていることが、
入学の記念写真と卒業写真を比較するとよくわかります。
新一年生は夏の制服ができるまでは私服で登校していました。
昭和5年、7年、9年の入学記念写真を比較すると
昭和5年には和服と洋服が混在しており、
昭和7年になると和服の生徒はごくわずかになっています。
そして昭和9年には全員が洋服になっており、
洋装の急激な普及の様子を知ることができました。
制服に腕を通す
女学生にとってアイデンティティを表す「制服」は特別な衣服でした。
そして学校側にとって「制服」とは
理想とする教育や女性像を反映するものと考えられていたのです。
松山高等女学校では新入生の制服は最上級生が裁縫の実習で縫っていました。
上級生が採寸し、自分のために縫ってくれた制服に
新入生はとても感激していたそうです。
昭和初期の実際の松山高等女学校の制服や
済美高等女学校(現:済美高校)の大正から昭和にかけての制服の復元されたものが展示されていました。
大正期には着物に海老茶の袴という、いわゆる「ハイカラさん」スタイルですが、
大正14年にセーラー服が導入されています。
昭和12年にはジャンバースカートにブラウスという形となり、
昭和17年には時勢を反映してもんぺになっています。
校則を守る?/破る?
「質実剛健であれ」とされていた女学生ですが、
中には校則破りをしておしゃれにこだわる者もいました。
スカートの丈を規定よりも長めにして、
検査のときに大急ぎでたくし上げるといった生徒や
こっそりとクリームを塗っていた生徒もいたようです。
こういうことを聞くと私の中学・高校時代を思い出します。
今の女子中高生にとっては制服のスカート丈は短めがいいとされていますが、
私の頃はスカート丈は長めのほうがカッコいいとされていたのです。
服装検査の時には大急ぎでスカートをたくし上げている子がいました。
そしてこっそり色つきのリップクリームを塗ったりしている子もいました。
そういったことを考えていると、今の女子中高生には
「ちょっとだけ背伸びをする」という楽しみが無いんじゃないかな?と思います。
飛び出せ!学校の外に
修学旅行は女学生にとって最大の楽しみの一つでしたが、
制服について客観的に見直す機会ともなりました。
宇和島高等女学校の制服は電車の車掌さんと思われたようで、
修学旅行以降セーラー服に改められたようです。
また松山高等女学校の制服はバスガイドみたいと言われていたそうです。
愛媛の女学生たちは東京や京都への修学旅行で
都会の女学生のスマートな制服への憧れを募らせたようです。
私の高校の制服も本当に垢抜けないものなので、
当時の女学生の気持ちがよくわかります。
私の高校の冬服は黒の上着(下にカッターシャツ)に黒のプリーツスカート。
夏服は白のカッターシャツ(男子用と同じ型)に黒のプリーツスカートでした。
ネクタイやリボンタイなどはありません。
そのうえ合服が無かったので、衣替え前後は暑くて仕方がありませんでした。
今では夏服は新しくなっているようですが、
冬服は私の在学していた頃と変わっていません。
楽しい授業と素敵な先生
はつらつスポーツ
第一次大戦後、女学校では体育に力が入れられるようになり、
遠足や登山、水泳のほか、テニスやバレーボールの対抗戦も開かれるようになりました。
巣立ちの時 卒業
女学校を卒業後、一部の女学生は師範学校や女子専門学校へ進学しましたが、
大半の女学生は家庭で花嫁修業の期間を経て結婚しました。
卒業後の服装は和装中心のほか、洋装を選択する女性、
日常着は洋装、お稽古や冬場は和装という風に併用するという女性もいました。
当時の若い女性が好んで着用した銘仙は
チューリップ、ハイビスカスといったモダンなモティーフが使用されています。
また半襟なども薔薇や音符といった洋風の柄が流行したようです。
乙女の宝石箱
大正から昭和初期の「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌は
少女同士の親密な友情をテーマにした小説や、叙情的なイラストで
女学生たちをとりこにしていました。
少女雑誌に登場する女学生の姿は
愛媛の女学生にとって憧れの女学生ライフであったようです。
高畠華宵、林唯一、中原淳一らの挿絵が表紙を飾る少女雑誌が展示されていました。
これまでにあげた「女学生ライフ」を満喫できたのは
一部の中流以上の家庭の少女に過ぎないかもしれませんが、
それでも大正から昭和初期の少女たちの生活は
思っていた以上に伸びやかなものであったことがわかります。
そして当時花開いた少女文化が無ければ、
現代の少女文化も生まれなかったのではないか?と感じました。
この時代の少女文化については大変に興味深い題材なので、
機会があればまた調べてみたいと思います。
第二展示室の展示のテーマは、大正から昭和初期の愛媛の女学生です。
元女学生の生の声をもとに当時の女学生ライフの再現を試みています。
女学生
女学校を目指す少女や近隣の男子学生にとって
「女学生」というのは特別な存在でした。
かつての女学生たちの証言を見ていると、
セーラー服を身に着けた、優美で礼儀正しい「お姉様方」が
憧れの存在であったことが良くわかります。
入学したい!
「女学生」になるためには本人の学力および家庭の経済的支援と理解が必要でした。
入学したときにはチグハグだった少女たちが
卒業するときにはまるで本当の姉妹のように親密な間柄になっていることが、
入学の記念写真と卒業写真を比較するとよくわかります。
新一年生は夏の制服ができるまでは私服で登校していました。
昭和5年、7年、9年の入学記念写真を比較すると
昭和5年には和服と洋服が混在しており、
昭和7年になると和服の生徒はごくわずかになっています。
そして昭和9年には全員が洋服になっており、
洋装の急激な普及の様子を知ることができました。
制服に腕を通す
女学生にとってアイデンティティを表す「制服」は特別な衣服でした。
そして学校側にとって「制服」とは
理想とする教育や女性像を反映するものと考えられていたのです。
松山高等女学校では新入生の制服は最上級生が裁縫の実習で縫っていました。
上級生が採寸し、自分のために縫ってくれた制服に
新入生はとても感激していたそうです。
昭和初期の実際の松山高等女学校の制服や
済美高等女学校(現:済美高校)の大正から昭和にかけての制服の復元されたものが展示されていました。
大正期には着物に海老茶の袴という、いわゆる「ハイカラさん」スタイルですが、
大正14年にセーラー服が導入されています。
昭和12年にはジャンバースカートにブラウスという形となり、
昭和17年には時勢を反映してもんぺになっています。
校則を守る?/破る?
「質実剛健であれ」とされていた女学生ですが、
中には校則破りをしておしゃれにこだわる者もいました。
スカートの丈を規定よりも長めにして、
検査のときに大急ぎでたくし上げるといった生徒や
こっそりとクリームを塗っていた生徒もいたようです。
こういうことを聞くと私の中学・高校時代を思い出します。
今の女子中高生にとっては制服のスカート丈は短めがいいとされていますが、
私の頃はスカート丈は長めのほうがカッコいいとされていたのです。
服装検査の時には大急ぎでスカートをたくし上げている子がいました。
そしてこっそり色つきのリップクリームを塗ったりしている子もいました。
そういったことを考えていると、今の女子中高生には
「ちょっとだけ背伸びをする」という楽しみが無いんじゃないかな?と思います。
飛び出せ!学校の外に
修学旅行は女学生にとって最大の楽しみの一つでしたが、
制服について客観的に見直す機会ともなりました。
宇和島高等女学校の制服は電車の車掌さんと思われたようで、
修学旅行以降セーラー服に改められたようです。
また松山高等女学校の制服はバスガイドみたいと言われていたそうです。
愛媛の女学生たちは東京や京都への修学旅行で
都会の女学生のスマートな制服への憧れを募らせたようです。
私の高校の制服も本当に垢抜けないものなので、
当時の女学生の気持ちがよくわかります。
私の高校の冬服は黒の上着(下にカッターシャツ)に黒のプリーツスカート。
夏服は白のカッターシャツ(男子用と同じ型)に黒のプリーツスカートでした。
ネクタイやリボンタイなどはありません。
そのうえ合服が無かったので、衣替え前後は暑くて仕方がありませんでした。
今では夏服は新しくなっているようですが、
冬服は私の在学していた頃と変わっていません。
楽しい授業と素敵な先生
はつらつスポーツ
第一次大戦後、女学校では体育に力が入れられるようになり、
遠足や登山、水泳のほか、テニスやバレーボールの対抗戦も開かれるようになりました。
巣立ちの時 卒業
女学校を卒業後、一部の女学生は師範学校や女子専門学校へ進学しましたが、
大半の女学生は家庭で花嫁修業の期間を経て結婚しました。
卒業後の服装は和装中心のほか、洋装を選択する女性、
日常着は洋装、お稽古や冬場は和装という風に併用するという女性もいました。
当時の若い女性が好んで着用した銘仙は
チューリップ、ハイビスカスといったモダンなモティーフが使用されています。
また半襟なども薔薇や音符といった洋風の柄が流行したようです。
乙女の宝石箱
大正から昭和初期の「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌は
少女同士の親密な友情をテーマにした小説や、叙情的なイラストで
女学生たちをとりこにしていました。
少女雑誌に登場する女学生の姿は
愛媛の女学生にとって憧れの女学生ライフであったようです。
高畠華宵、林唯一、中原淳一らの挿絵が表紙を飾る少女雑誌が展示されていました。
これまでにあげた「女学生ライフ」を満喫できたのは
一部の中流以上の家庭の少女に過ぎないかもしれませんが、
それでも大正から昭和初期の少女たちの生活は
思っていた以上に伸びやかなものであったことがわかります。
そして当時花開いた少女文化が無ければ、
現代の少女文化も生まれなかったのではないか?と感じました。
この時代の少女文化については大変に興味深い題材なので、
機会があればまた調べてみたいと思います。