Chiro's Memo

My Sweet RoseとRosariumの更新記録です。

憧れと誇りと えひめ女学生ライフ

2006-11-05 23:11:00 | 歴史
「ときめくファッション~小町娘からモダンガールまで~」の
第二展示室の展示のテーマは、大正から昭和初期の愛媛の女学生です。
元女学生の生の声をもとに当時の女学生ライフの再現を試みています。

女学生
女学校を目指す少女や近隣の男子学生にとって
「女学生」というのは特別な存在でした。
かつての女学生たちの証言を見ていると、
セーラー服を身に着けた、優美で礼儀正しい「お姉様方」が
憧れの存在であったことが良くわかります。

入学したい!
「女学生」になるためには本人の学力および家庭の経済的支援と理解が必要でした。
入学したときにはチグハグだった少女たちが
卒業するときにはまるで本当の姉妹のように親密な間柄になっていることが、
入学の記念写真と卒業写真を比較するとよくわかります。
新一年生は夏の制服ができるまでは私服で登校していました。
昭和5年、7年、9年の入学記念写真を比較すると
昭和5年には和服と洋服が混在しており、
昭和7年になると和服の生徒はごくわずかになっています。
そして昭和9年には全員が洋服になっており、
洋装の急激な普及の様子を知ることができました。

制服に腕を通す
女学生にとってアイデンティティを表す「制服」は特別な衣服でした。
そして学校側にとって「制服」とは
理想とする教育や女性像を反映するものと考えられていたのです。
松山高等女学校では新入生の制服は最上級生が裁縫の実習で縫っていました。
上級生が採寸し、自分のために縫ってくれた制服に
新入生はとても感激していたそうです。
昭和初期の実際の松山高等女学校の制服や
済美高等女学校(現:済美高校)の大正から昭和にかけての制服の復元されたものが展示されていました。
大正期には着物に海老茶の袴という、いわゆる「ハイカラさん」スタイルですが、
大正14年にセーラー服が導入されています。
昭和12年にはジャンバースカートにブラウスという形となり、
昭和17年には時勢を反映してもんぺになっています。

校則を守る?/破る?
「質実剛健であれ」とされていた女学生ですが、
中には校則破りをしておしゃれにこだわる者もいました。
スカートの丈を規定よりも長めにして、
検査のときに大急ぎでたくし上げるといった生徒や
こっそりとクリームを塗っていた生徒もいたようです。
こういうことを聞くと私の中学・高校時代を思い出します。
今の女子中高生にとっては制服のスカート丈は短めがいいとされていますが、
私の頃はスカート丈は長めのほうがカッコいいとされていたのです。
服装検査の時には大急ぎでスカートをたくし上げている子がいました。
そしてこっそり色つきのリップクリームを塗ったりしている子もいました。
そういったことを考えていると、今の女子中高生には
「ちょっとだけ背伸びをする」という楽しみが無いんじゃないかな?と思います。

飛び出せ!学校の外に
修学旅行は女学生にとって最大の楽しみの一つでしたが、
制服について客観的に見直す機会ともなりました。
宇和島高等女学校の制服は電車の車掌さんと思われたようで、
修学旅行以降セーラー服に改められたようです。
また松山高等女学校の制服はバスガイドみたいと言われていたそうです。
愛媛の女学生たちは東京や京都への修学旅行で
都会の女学生のスマートな制服への憧れを募らせたようです。
私の高校の制服も本当に垢抜けないものなので、
当時の女学生の気持ちがよくわかります。
私の高校の冬服は黒の上着(下にカッターシャツ)に黒のプリーツスカート。
夏服は白のカッターシャツ(男子用と同じ型)に黒のプリーツスカートでした。
ネクタイやリボンタイなどはありません。
そのうえ合服が無かったので、衣替え前後は暑くて仕方がありませんでした。
今では夏服は新しくなっているようですが、
冬服は私の在学していた頃と変わっていません。

楽しい授業と素敵な先生

はつらつスポーツ
第一次大戦後、女学校では体育に力が入れられるようになり、
遠足や登山、水泳のほか、テニスやバレーボールの対抗戦も開かれるようになりました。

巣立ちの時 卒業
女学校を卒業後、一部の女学生は師範学校や女子専門学校へ進学しましたが、
大半の女学生は家庭で花嫁修業の期間を経て結婚しました。
卒業後の服装は和装中心のほか、洋装を選択する女性、
日常着は洋装、お稽古や冬場は和装という風に併用するという女性もいました。
当時の若い女性が好んで着用した銘仙は
チューリップ、ハイビスカスといったモダンなモティーフが使用されています。
また半襟なども薔薇や音符といった洋風の柄が流行したようです。

乙女の宝石箱
大正から昭和初期の「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌は
少女同士の親密な友情をテーマにした小説や、叙情的なイラストで
女学生たちをとりこにしていました。
少女雑誌に登場する女学生の姿は
愛媛の女学生にとって憧れの女学生ライフであったようです。
高畠華宵、林唯一、中原淳一らの挿絵が表紙を飾る少女雑誌が展示されていました。

これまでにあげた「女学生ライフ」を満喫できたのは
一部の中流以上の家庭の少女に過ぎないかもしれませんが、
それでも大正から昭和初期の少女たちの生活は
思っていた以上に伸びやかなものであったことがわかります。
そして当時花開いた少女文化が無ければ、
現代の少女文化も生まれなかったのではないか?と感じました。
この時代の少女文化については大変に興味深い題材なので、
機会があればまた調べてみたいと思います。

愛媛県歴史文化博物館

2006-11-04 11:24:11 | 歴史
愛媛県歴史文化博物館は、古い町並みの残る西予市宇和町にあり、
この博物館は「愛媛の歴史と民俗」をテーマにしています。

常設展示室は2階と1階に分かれています。

2階は
 1.愛媛のあけぼの
 2.中世武家社会下の伊予
 3.幕藩体制下の伊予
 4.愛媛県の誕生と歩み
となっていて、縄文時代から昭和に至る愛媛県の歴史をたどれる構成です。
実際の文化財のほか、模型を使った復元も数多く展示されています。
中でも村上水軍が使用していた「小早」と呼ばれる和船の実物大復元模型や
昭和初期の松山の繁華街の町並みの実物大復元は見ごたえがあります。

1階は「愛媛の暮らし」「祭りと芸能」「四国遍路」をテーマに
民俗的展示が行われています。
「愛媛の暮らし」では明治から昭和初期の農家や漁家の再現が行われ
実際に家の中を見ることができます。
「祭りと芸能」では、愛媛の祭りに登場する神輿や山車などの展示と同時に
祭りの映像も上映され、臨場感あふれる展示となっています。
「四国遍路」ではお遍路の歴史が判りやすくたどれます。

このほか体験学習室や考古展示、文書展示なども行われています。
図書室では本の貸し出しも行っています。
東洋文庫など私の町の市立図書館にはない本も揃っているので借りたいのですが、
返しに行くのが大変なので、図書室の利用登録はしていません。

この博物館は山の上にあって、バスは一日4便だけです。
町の中心から歩いて15分くらいなのですが、坂道を上がっていくことになります。
ほとんどの人は車で博物館へ行きます。
歩いて上がる人はめったにいません。(多分私くらいです)
今回降りるときは近道をしたのですが、
「どこが『遊歩道』なんだ?」という急な下りでした。

ときめくファッション~小町娘からモダンガールまで~

2006-11-03 23:34:56 | 歴史
西予市宇和町にある愛媛県歴史文化博物館で開催中の
「ときめくファッション~小町娘からモダンガールまで」を見てきました。

この企画展は江戸時代後期から昭和初期にかけての女性の装いを
社会や時代背景とともに展観するというものです。

百花繚乱 小袖の時代
江戸後期から明治初期にかけて作られた小袖を通して
当時の女性の心意気や美意識を探っています。

会場に入ってまず目に入ってきたのが
明治時代に作られた『萌黄紋縮緬地椿子犬模様打掛』です。
模様をすべて刺繍で表した公家風の小袖で、
萌黄色の地の一面に紅白絞りの椿が刺繍され、
更に裾には白・白黒・茶白の三匹の子犬が刺繍されています。
明治に入ってから用いられるようになった化学染料によって
鮮やかな色彩が生み出されています。
小型犬は高貴な女性のペットとして大変好まれたため、
小袖の装飾にも取り入れられたものと思われます。

江戸後期に作られた『紫鼠染分縮緬地花筏模様振袖』は
身頃の上半分は美しい紫色、下半分は鼠色で水を表し、
全体に桜の花がちりばめられています。
友禅染の振袖なのですが、
ところどころ桜の花が刺繍になっているのがアクセントになっています。

江戸後期から明治初期の『金茶八橋織綾地蝙蝠模様小袖』は
裾一面に青と黒の蝙蝠があしらわれています。
蝙蝠の「蝠」が「福」と音が同じであることから
中国ではめでたい意匠とされています。
江戸後期には日本でも蝙蝠のような奇抜な意匠を「粋」とみなしていました。
実際にこの小袖を見るととてもモダンで
現代のファッションショーに登場しても斬新な作品に見えそうです。

今回は展示替えで展示されていなくて残念だったのが、
『茶縮緬地遊狗草花模様小袖』です。
襟先から裾にかけて草花の間で戯れる愛らしい子犬たちの姿が刺繍された小袖なのです。
できれば実物を見てみたかったと思いました。
(私は猫好きですが、わんこも好きです。)

もし私が理想の小袖を作ってもらえるとすれば、
地の色は桜鼠で、裾に手毬にじゃれ付いて遊ぶ子猫の刺繍を施した小袖を作って欲しいです。
(子猫はシャム猫・白黒猫・三毛猫・こげ茶白猫・白猫・黒トラ+白猫で)
↑はすべて今までうちにいた猫です。

極細の美 染めと型紙
型染めに用いられた型紙の数々と、
実際に型紙を用いて染めた布や衣裳が展示されています。
「龍」「鯉」「牡丹唐草」といったダイナミックな文様、
「青海波」のような古典的な文様、
「薔薇」「南蛮人とアルファベット」のようなモダンな文様など様々です。
「南蛮人とアルファベット」で染めた小物入れが展示されていましたが、
思わず某有名ブランドのバッグ(LVのマーク)を連想してしまいました。

モダンガールの足どり 和装から洋装へ
日本で本格的に女性の洋装が紹介されるようになったのは1920年代で、
モダンガールのファッションの登場する時代と重なります。
モダンガールたちはそれまでの日本女性には見られなかった新しい生き方を実践していきます。
そのために選んだ服装が洋装でした。
モダンガールの登場と同時に和装の世界にも変化が現れ、
それまで和装には用いられなかったような意匠が好んで用いられるようになります。

明治時代に日本に紹介された洋装は「バッスル・スタイル」と呼ばれる
当時ヨーロッパのトップモードでしたが、
これは一部の上流階級に取り入れられたにとどまりました。
ここではワインレッドのバッスル・スタイルのドレスと
ピンク地にリボンとレースをあしらったドレスが展示されていました。

1920年代ヨーロッパのモード界に大きな革命が起こります。
それまでのコルセットを用い、スカート丈が爪先まであるドレスに変わって、
直線的なラインにシンプルなスタイル、膝丈のスカートが登場します。
色・素材・デザイン・着心地などに新しいスタイルを打ち出したシャネルや
古代ギリシアの衣裳や日本のキモノをヒントにしなやかなスタイルを作り上げた
マドレーヌ・ヴィヨンの作品が紹介されていました。

そして日本で一般の女性たちが洋装を取り入れていく過程も
当時のパンフレット、雑誌、型紙などによってわかるようになっています。
この時代はスリップやズロースといった肌着まですべて手作りで、
洋装のための肌着の着用法まで図解説明してあったようです。
昭和初期の女児服も展示されていましたが、
とても1930年代のものとは思えないような、
現代の子どもが着ていても全く違和感を感じない服でした。

薔薇やトランプといった洋風のモティーフを取り入れた着物も
この時代多く作られました。
こういった着物を身に着けた女性も「モダンガール」だったのです。
そして子どもの頃から洋装で育てられた少女たちによって
洋装の普及は急激に進んでいきます。

この後は大正から昭和初期の愛媛の女学生についての展示なのですが、
本日はここまでにしたいと思います。

世界史の学び方

2006-10-28 23:22:07 | 歴史
現在高校における世界史の未履修が問題になっております。

私の高校生時代(十数年前)は
 文系:日本史(必修)世界史・地理(どちらか選択必修)
 理系:日本史・世界史・地理の中から1科目選択必修
となっておりました。(私の出身校の場合)

しかし、理系では例年世界史の選択者が少なく、
私の学年でも世界史の授業は行われませんでした。
理系に行った世界史好きの友人は残念がっていましたが、
「受験」を第一に考えれば、日本史や地理のほうが教えやすいのかもしれません。

私は文系だったので、日本史と世界史の両方を学びましたが、
自分が高校生時代最も勉強した科目が世界史だったのでは?と思います。
世界史については今でも記憶している事柄が多くありますが、
他の科目(特に理数系)は全く頭に残っていません。

でも高校までの授業で教えられた世界史よりも、
本やテレビ番組、美術作品、あるいは漫画本に触れて知った世界の歴史のほうが
ずっと印象に残っております。
私は小説よりも歴史本やノンフィクション、
ドラマやバラエティよりも歴史もの・美術もののドキュメンタリー
恋愛ものの少女漫画よりも歴史ものの少女漫画が好きな高校生だったため、
そういったものを通して世界史を知らず知らずのうちに学んでいたのかもしれません。

受験科目としての「世界史」ではなく、
生きた「世界の歴史」に若いうちに触れておくことは、大いに刺激になると思います。

母曰く「(未履修の高校生)みんな船に乗せて世界一周の旅をしたら世界史と地理の勉強が同時にできるんじゃない?」
そういう授業があるならぜひその高校に入りたいです。

ヒエログリフ

2005-08-07 22:44:57 | 歴史
私の持っている本の一つに「ヒエログリフを書こう!」という本があります。
かわいいイラストと共にヒエログリフについてわかりやすく解説した本です。
練習問題までついています。(私はまだやっていません)

私がわかるヒエログリフはカルトゥーシュに囲まれた王名くらいです。
それも有名なファラオの名前しかわかりません。
でもエジプト展の展示品のカルトゥーシュのヒエログリフを読み取ることができると、
作品を鑑賞する上で新たな楽しみが生まれます。

趣味が高じてヒエログリフのフォントまで自分のPCにインストールしてしまいました。
こうなったらこのブログもヒエログリフで記事を書いてみようか?などと思いました。(冗談です)

木乃伊さんこんにちは

2005-07-03 20:50:03 | 歴史
私の持っている本の一つに神谷敏郎 著 「あるミイラの履歴書」があります。
この本は東大医学部に保管されているエジプトミイラについての本なのですが、
冒頭で1999年に開催された企画展が紹介されています。
①ウィーン美術史美術館所蔵「古代エジプト展」
②ペルー移民百周年記念「悠久の大インカ展」
③大英博物館所蔵「古代エジプト展」
の3つです。これらの展覧会ではいずれもミイラが公開されました。

実は私はこの3つとも見に行っています。

①高知県立美術館
ウィーン美術史美術館といえばヨーロッパ絵画のコレクションが有名で、
エジプトコレクションのことはそれまで知りませんでした。
「パディスウ」という名前のミイラが出展されていました。
ミイラといっても美しい色彩の棺に収まった状態で、むき出しではありません。
CTスキャンの写真とともに展示されていました。
CT写真を見ると中にちゃんとミイラが入っていることがよくわかります。
私はこのときに見た古代のネックレスをモデルに自分でネックレスを作りました。

②松山 南海放送サンパーク
この展覧会では1995年にペルーのアンデス山中で発見された少女の氷結ミイラが展示されました。
彼女はインカ時代に生贄として神に捧げられたのです。
6000メートル級の高山の山頂近くに埋められていたため、未盗掘の状態で発見されました。
このミイラには「フワニータ」という名前がつけられました。
氷結状態のミイラが日本で公開されたのはこのときが初めてとのことです。
インカ文明も私の興味のあることのひとつです。
展示室は薄暗く、ミイラのそばにまで寄って見ることはできませんでしたが、
保存状態の良さには驚きました。

③神戸市立博物館
大英博物館のエジプトコレクションといえば世界有数のものです。
このときのテーマは「永遠の美と生命」でした。
そのためミイラや葬送に関する文物が多く展示されていました。
先王朝時代の自然ミイラ「ジンジャレラ」(髪の毛の色がジンジャー色なのでそう名づけられました)
そのほか、美しい内棺に収まったミイラが何体も展示されていました。
金彩を施した棺やマスクなど見事なものでした。

「あるミイラの履歴書」は2000年の発行なので、この本を読んだときには3つの展覧会は終了していました。
最初の一文を読んで「3つとも行ってるよ!私はミイラおたくか?」と思ってしまいました。
これよりずっと以前に、有名な「楼蘭の美女」とも対面しています。
決して私は「木乃伊大好き!」ではありません。
しかしはるか昔に実際に生きていた人の姿を目にするということは感慨深いものがあります。
でも木乃伊と対面するときには敬意を忘れないようにしないといけませんね。

私が歴史好きになったわけ

2005-06-08 20:20:25 | 歴史
私が歴史好きになったのは、母の影響が大きいと思います。
母は古代エジプトや旧約聖書、ギリシア神話といった
いわゆる「紀元前」の物語が好きで
そういう系統の映画やマンガをよく見たり読んだりしていました。
子供のころそういう母の姿を見ていたので、
自然私もそういったものに興味を抱くようになりました。

私が小学生のころ好きだったことのひとつが星座の観察ですが
古代ギリシア以来の主な星座には由来を語る神話があります。
そういったものも歴史に興味を持つようになったきっかけの一つです。

そしてマンガですが、いわゆる学習マンガもよく読んでいましたが
それ以上に歴史物の少女マンガは大好きでした。(今でも愛読しています)
マンガに描かれていることがすべて事実とは限りませんが
歴史に興味を抱くきっかけにはなります。
私の場合マンガで歴史を勉強した面が大きいです。

古代史に興味を持ち「NHK特集 ルーブル美術館」を見て、美術への関心が生まれたので
人間どこからどんなところへ知的好奇心が転がっていくかわかりません。