蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

日本の理科教育の始まり  (bon)

2023-01-14 | 日々雑感、散策、旅行

 昨年(2022年)4月に奈良女子大学に日本初の工学部が開設され、来年にはお茶
の水女子大学にも工学部の設置計画があり、また、一昨日の新聞報道では、私立、
公立大学に理工農系学部を開設する学校に国が費用支援するとの構想が発表されて
いました。国立大や高専にも情報系部門に費用支援するとも。これらは、デジタル
や脱酸素などの成長分野の人材育成を強化する狙いだとあります。
 実際、大学で理系を専攻する学生割合がOECD平均27%であるのに対して日本のそ
れは17%とかなり低い実態であるそうです。

          (ネット画像より)

 理系強化は最近のトレンドの一つであるようですが、そもそも、日本が自然科学
分野、つまり技術を含む理化学面で外国に大きく遅れていることを、幕末、すなわち
開国に臨んで強く思い知らされたのです。

 もっとも江戸時代において、世界に匹敵する異能の科学者たちが日本にもいまし
た。 元祖マルチタレント平賀源内、和算の大家関孝和、シーボルトも絶賛した博
物学者宇田川榕菴、伊能忠敬を育てた高橋至時、コレラから日本を救った緒方洪庵
など傑出した人物がいましたが、日本全体に科学的思考の定着および科学的人材の
育成に向けた構想はなかったのです。

 開国時、何としても理化学分野の人材の育成が急務であるとのことから、未だ江戸
では彰義隊との戦いが行われている頃、大阪において、大阪府参与の後藤象二郎や
小松帯刀らによって1872年(明治2年)に、オランダ人ハラタマ技師を教授として、
大阪城の近くに理化学の専門学校『舎密局』(セイミ局)が開校するのです。

       舎密局跡(大阪市中央区)
        

 しかし、この壮大な構想のもとに開校された舎密局は、3年後には大阪開成所に
引き継がれ、舎密局は京都に移設され、後の第三高等学校(京都大学)へと引き継
がれてゆくのです。構想は望まれながらも具体的な発展には至らず、理化学の重要性、
必要性を認めつつもその人材育成面の対策がとれないまま時は流れるのです。
 電灯の導入、電報サービス開始、鉄道の開通など、文明開化と共に社会は大きく
近代国家へと変貌して行くのです。これらの新技術の内、お雇い外国人の活躍に負う
ところ大であったと言えるでしょう。その間、日清、日露などなどの外国との戦争
を経て大きく変容して行くのでした。

 時は進んで、大正時代に至るも、未だ理化学教育の振興が図れず、置き去りにさ
れた形の理科教育の実践は、東京や近畿などの地域的に中等学校(現在の高等学校)
理化学研究会組織の活動が起こり、理化学教育の実現への取り組みが始まっていま
した。理化学教育は、原理や理論。仕組みを理解するだけでなく論理的思考を育成
する上でも重要と見做され重視されていました。

 これらの動向を受け、全国的な組織活動を目指して、大日本中等教育会(会長:
嘉納治五郎氏)と大阪中等教育物理学会の主催で「全国中等学校理化学教員協議会」
(会長:嘉納治五郎氏)創立総会が大阪府立清水谷高等女学校で開催されたのです。 

 時、1926年(大正15年)5月6~8日、はじめて開催された協議会には全国から300名
を超える教員が参集して、前年校舎改築した清水谷高女の講堂および教室を使用し、
理科教育における文部省(当時)の諮問に対する答申案の審議並びに各教員からの
研究発表等が行われたのです。
 その模様は、『中等教育』特別号(第56号)に議事録として詳細に記録されてい
ます。

        『中等教育』特別号 
         


 会長の嘉納治五郎氏の開会挨拶の一部を議事録から引用しました。
 『・・・ 今日、物理化学の必要なることは論を待ちません。日常生活においても、
物理化学の知識が必要であることは明らかな事実であります。また諸種の工業にお
いて理化学の知識が必要なことは益々明瞭であります。迷信がいかに社会の発達を
妨げているかは明らかなる事実であります。
 道徳上の諸問題においても理化学の知識が欠けているために未解決の問題が甚だ
多く、これらの問題は今後理化学の進歩発達によって解決を待つべきであります。
すなわち一国の道徳の進歩に対しても理化学の力が大なる影響を有していること
は疑うべかざるところであります。
 今後において理化学の学問的研究を一層発達せしむるには、中等教育における
理化教育を完成しなければなりませんからして、中等学校理化教育の研究会は今日
我が国の最も必要とするところであります。 然るに未だ之がなかったのは誠に遺
憾に思う次第であります。後略。』

 この時の文部省への答申が基となり、後に「理科教育振興法」が制定(1953年)
され、今日の全国の学校における理科教育実施へと繋がっているのです。
 つまり、日本の学校教育における理科教育のスタート点がわが母校であったとい
う名誉な歴史があったのです。
   

 この時発足した協議会は3年後に『日本理化学協会』に名称が変更され、毎年、
総会および研究発表が行われており、2025年には創立100周年を迎えられます。

 

 

 

合唱 「浦のあけくれ」 (澤崎定之指揮 東京音楽学校)

 

 

 

 

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