rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

青の世界に囲まれる、タヒチのランギロア島

2013-03-23 23:44:13 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」フランス領ポリネシアのタヒチにあるランギロア島。
澄み切った青い海に囲まれたこの島は、その海の美しさに魅了された世界中のダイバーが集まる「ダイバーの聖地」。
ランギロア島の中心はアバト、島にはおよそ全長10キロメートルの道が1本だけ走り、ラグーンでとれる貝殻で装飾した教会などがあり、青い空に映えて美しい。
ティプタ・パスは、島の間を流れる細い海水の水路で、流れが急で激しく、イルカ達の格好の遊び場となっている。
またここは、イルカの遊ぶ様子を島にいながら見られる絶好のロケーションの場でもある。
ランギロア島周辺にある白い砂でできた小さな無人島が集まる一帯を、ブルー・ラグーンといい、その無人島には浅瀬を歩いて渡り歩ける夢のようなところだ。
モツ(小島)ピクニックという、小島で白身魚を焼いて食べられるランチ付きのブルー・ラグーン・ツアーが催されているという。
他のマリンレジャーでは、ボートから生みに張られた一本のロープにこいのぼり状態で摑まりながら、シュノーケリングをして、おとなしい性質のブラックシャークの群れを見たりするものもある。
海に囲まれた土地柄、海の幸の恵み豊かだ。
「レスロラン・ヴィア・マリオ」では、サワラのスモークをあしらったサラダにバルサミコ酢とオリーブオイルのドレッシングをかけたものがある。
このあたりでとれる肉質の柔らかいシャコ貝を使った"シャコ貝のグラタン”は、甘さを感じるカレー風味。
いづれも、材のよさを引き立たせるシンプルな調理法だ。


ランギロア島からボートで15分のところにあるテパオロレヴァ島では、白ワイン作りが行われている。
サンゴが堆積してできた石灰質に富む土地は、ブドウ栽培に適し、燦々と降り注ぐ太陽を浴びて育つブドウを年二回収穫できる。
ここの白ワインは、果実味豊かで爽やかな味わいらしい。

アバトの対岸にあるティプタの特産品は、貝を使ったアクセサリー類。
タヒチの神話には、「世界の始まりは貝だった」とあるだけに、貝のアクセサリーは特別な思いが込められているのだろうか。
「ゴーギャン・パール」という真珠の養殖場は、黒真珠の直売所も兼ねていて、タヒチの中でも格安に良質な黒真珠が買えるところだ。
「ランギ・スタイル」は、タヒチの伝統的なデザインの布を使って、翌日仕上げのオーダーメイド・ドレスを良心的な価格で誂える。

ランギロアとは、「広く果てしない空」の意味だそうだ。
たしかに、画面に映る風景は、青い空とそれを写したかのような青い海、白い砂浜、濃い緑の葉を頂くヤシの木、それだけしかないようだった。
世界中が、青一色になったような錯覚を起こさせる場所は、そうそうないだろう。
まさに、ここは青に満たされた世界。
どんな人も、ランギロアに1年も滞在すれば、心の闇、毒を洗い流してしまいそうなほど、ここの青の色は浄化能力が飛びぬけて高そうに思える。
直ちに青に浸されて、透明に、溶け入ってしまいたい気持ちに無性になってしまった。

愛の欠乏が生む哀しき魂、トルーマン・カポーティ”冷血”

2013-03-23 00:09:19 | 本たち
愛で満たされたことのない心は、御者をなくした疾走する馬車、調教師のない猛獣。
その悲劇性は更なる悲劇を生む。
戦争の世でも、平和な世でも、決して絶えることはないだろう。
愛を受けられずに成長した人々、その存在を認められることのない人々、自分に自信が持てず生きる意味を見出せない人々、魂の器に愛を注がれることなくその空虚さに身を捩り咆哮する不幸は無くならない。

これは、実際にあった事件をカポーティは綿密に構築した、ノンフィクション・ノベルだ。
中には、たくさんの家族と人とその物語がぎっしりと詰まっている。
どの人にもそれぞれの思いと人生があった。
愛に満たされたことのない哀しき魂は、自らの欠乏を補完するかのようにブラックホールの如く周りの人々の命を吸い込んでいく。
あたかもその命が、購いの子羊とでも言うように、訳もなくあっさりと奪い去られる。
それを狂気と言ってしまうには切なくて、なんともやりきれなく悲しい生き物なのだろう、人間とは。

つまり、この悲劇は、普遍的なのだ。
”冷血”の中にも、主人公達と似たような魂の欠乏の業苦により破滅へ向かう者たちが描かれているが、日本にも永山則夫という悲劇が存在した。
いや、ペリー・スミスや永山則夫は、いたるところに存在し続けている。
また、幾重にも襲い掛かる不運が、彼らを生んでいく。
そして、彼らを裁く側の者たちの立場と苦悩も、残念なことに一番の解決方など存在しはしない。
奪い取る者、奪われる者、双方に人生はあるのだから。
確かに、命は重いのか軽いのかと問われれば、重いと答えたほうがいいに決まっているのだが、どちらでもあると言えると思うのだ。
そうでなければ、この世の中を説明できないし、社会は回っていかないのが現実だから。

カポーティは、自らの不幸な生い立ちを客観視して清算するために、この本を書いたのだろうか。
本を読み進むにつれて、言いようのない哀しさが自分の心に蓄積されていった。
同情ではない、人間の脆さに避けられない悲劇を見たからだと思っている。