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愛の欠乏が生む哀しき魂、トルーマン・カポーティ”冷血”

2013-03-23 00:09:19 | 本たち
愛で満たされたことのない心は、御者をなくした疾走する馬車、調教師のない猛獣。
その悲劇性は更なる悲劇を生む。
戦争の世でも、平和な世でも、決して絶えることはないだろう。
愛を受けられずに成長した人々、その存在を認められることのない人々、自分に自信が持てず生きる意味を見出せない人々、魂の器に愛を注がれることなくその空虚さに身を捩り咆哮する不幸は無くならない。

これは、実際にあった事件をカポーティは綿密に構築した、ノンフィクション・ノベルだ。
中には、たくさんの家族と人とその物語がぎっしりと詰まっている。
どの人にもそれぞれの思いと人生があった。
愛に満たされたことのない哀しき魂は、自らの欠乏を補完するかのようにブラックホールの如く周りの人々の命を吸い込んでいく。
あたかもその命が、購いの子羊とでも言うように、訳もなくあっさりと奪い去られる。
それを狂気と言ってしまうには切なくて、なんともやりきれなく悲しい生き物なのだろう、人間とは。

つまり、この悲劇は、普遍的なのだ。
”冷血”の中にも、主人公達と似たような魂の欠乏の業苦により破滅へ向かう者たちが描かれているが、日本にも永山則夫という悲劇が存在した。
いや、ペリー・スミスや永山則夫は、いたるところに存在し続けている。
また、幾重にも襲い掛かる不運が、彼らを生んでいく。
そして、彼らを裁く側の者たちの立場と苦悩も、残念なことに一番の解決方など存在しはしない。
奪い取る者、奪われる者、双方に人生はあるのだから。
確かに、命は重いのか軽いのかと問われれば、重いと答えたほうがいいに決まっているのだが、どちらでもあると言えると思うのだ。
そうでなければ、この世の中を説明できないし、社会は回っていかないのが現実だから。

カポーティは、自らの不幸な生い立ちを客観視して清算するために、この本を書いたのだろうか。
本を読み進むにつれて、言いようのない哀しさが自分の心に蓄積されていった。
同情ではない、人間の脆さに避けられない悲劇を見たからだと思っている。




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