rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

かつての仏領インドシナ、ベトナムの首都ハノイ

2013-03-16 17:06:31 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」ベトナムの北部に位置する首都ハノイ。
唐の時代から南方支配の拠点となり中国と深く係わり合い、近代にはインドシナ進出の足がかりとフランスの統治を受け、さらにはベトナム戦争でアメリカなど、大国の影響を受けてきた歴史がある。
今のハノイは、中国とフランス両方の影響を強く残した街並みにも見られるように、独特の文化を育んでいる。

ベトナム料理は辛すぎず、パクチーがクリアできるならば、日本人の口によく合うように思う。
米の麺の”フォー”は、ベトナムもっともポピュラーな食べ物。
「フォンマイ」では、”炒めフォー”と”揚げフォー”なども提供している。
”炒めフォー”は、昔からある焼きうどん的なもので、たっぷりの野菜と肉または魚介と炒めて食べる。
この店のアイディアで作られた”揚げフォー”は、米粉を練った塊を四角い手ごろな大きさにスライスし油で揚げると、パリッとした食感と香ばしさが新鮮だという。
もともと、余っってしまった米粉の利用法として考え出されたものだというが、悪くはない調理法だと思う。
”ベトナム風おこわ”は、伝統料理の一つ。
ウコンを入れて炊いたおこわに、必ず入っているフライドオニオン、豚の角煮や卵に野菜を炒めたものなどいろいろなものをトッピングして食べる。
このベトナム風おこわは、食事だけではなく、スイーツにも使われる。
ベトナム風あんみつ”チェ”でも、”ホット・チェ”という、ショウガスープにつけたゴマ餡入り白玉の上に、甘く煮た小豆の上にふりかけて食べるのだ。
日本人とはちょと違う、米に対する並々ならぬ執着と愛情は脱帽だ。

ベトナムのカフェといえば、べトナムコーヒー路上に椅子を並べた場所ですするのが定番だが、最近、おしゃれな隠れ家的カフェが若者に人気があるという。
しかも、飲み物は、緑茶に砂糖とレモンを入れた”緑茶レモンティー”が、口当たりに優しくてよいのだそうだ。
文化的に成熟したところは、重くて満足感の高いものより、軽くてさっぱりしたものを好む傾向にあるのだろうか。

ベトナムの伝統工芸に、漆器と刺繍画がある。
漆器は、現代風アレンジを加えヤシのみの皮を使い、その内側に貝殻や卵の殻をモザイクのように張り巡らして、漆をかけて着色した変わったものなど、カラフルで意表をつくデザインなど何でもある。
ハノイから、車で1時間のところにある「クアット・ドン村」は、刺繍の村で有名。
500年以上昔、中国から伝わって進化を遂げた刺繍画の村だ。
1000色以上の絹糸で、写真などを見ながら丁寧に色を縫っていく。
手の込んだ大作になると、一年以上費やし、モナ・リザをつくったときには2年もかかったのだとか。

伝統芸能では、無形文化財に指定されている水上人形劇がある。
せりふはまったくなく、生で奏でられる音楽と、人形などの動きから物語を汲み取る。
この人形劇の起こりは、家を建てるときに余った木材を使って人形を作ったのが始まり。
水面の下には操作棒が伸びて人形の動きを操作する。
操作者達も、腰まで水に使っているのだから、気の毒だ。

地続きで隣に大きな国があると、その干渉を受けないことは避けられない。
ハノイは、それでも強かに土着の文化を守りつつ他の文化を取り込みながら生き抜いてきた、粘り強い土地柄が、ここにはある。
風土の影響は、こうも強いものなのか、。
65年ほど前、大東亜共栄圏を目指して日本もベトナムに進出したことがある。
一昨日、日本もTPP環太平洋戦略的経済連携協定に交渉参加表明をし、ベトナムは既に交渉のテーブルについている。
今度は、アメリカ、オーストラリアなどの国が主導権を握って環太平洋共栄圏の一大ブロック経済圏を間もなくつくる。
まずは、囲い込んだその中で勝者の決まった共食いをさせて、対中国、対ロシア、対ヨーロッパへの布石を敷くのだ。
また、時代が大きく動いていく。
それでもベトナムは、息を殺して命を繫ぎ、再浮上のときを狙うのだろう。
彼らの子宮ともいえる熱帯の密林のなかで。



エル・グレコとフランシス・ベーコン

2013-03-16 00:16:39 | アート

エル・グレコ 無原罪の御宿り


エル・グレコ 字架のキリスト

エル・グレコとフランシス・ベーコンの展覧会を巡る。

エル・グレコは、マニエリスム後期のスペインで活躍したギリシャ人の画家。
引き伸ばされた身体、うねる衣、湧き立つ雲、バロックを予感させるダイナミックな空間感。
グレコの個性は、一度観たら忘れられないほど強烈だ。

この日の展覧会は、ひどく混雑しておらず、ゆったりと鑑賞できたのだが、それでも自分が思うよりは多くの鑑賞者がいた。
一週間以上前に、東京展の入場者が10万人を突破した記事を見て、「どうしてグレコの人気があるのだろうか?」と不思議に思っていた。
作品を見ながら考えるに、日本人の審美眼の幅広さにあるのだろうと思い至った。
歌舞伎や浮世絵などの奇抜にデフォルメされたものに対して慣れている文化的土壌、それから発展したマンガは得意な世界観と絵柄をより進化させている。
グレコの描く人物は、非常に類型化され、表情を誇張し、特に顔の造りは少女漫画的キラキラ感がある。
背景には、人物などに視線を集めるための集中線のような効果を持つ雲を描いたり、時にはキリストの登場を「バーン」と演出するのに、あからさまな線の効果を使っている。
なんとも思い切った一般的な美しい絵とは言えないエル・グレコの絵作り。
ボッシュやブリューゲルなどの幻想的絵画を好んだスペインの国王、フェリペ二世のいるスペインだからこそ活躍できたのではないかと、深読みしてしまうのだ。
自分は、エル・グレコを喩えて「クサヤの干物や熟れ寿司」のような絵画といっている。
初めは嫌悪感すら抱いても、心のどこかに引っかかっていて、時を経てからその存在感の大きさに気が付き、強く惹きつけられるからだ。
絵を観に会場に来ていた方々に、グレコのどこが好きで、何に惹きつけられているのか伺いたいくらいであった。

グレコから時代を下って、アイルランド人で20世紀の現代美術の巨匠フランシス・ベーコン。
ところは、梅や桃の花が満開に咲く皇居に面した国立近代美術館。

この展覧会もまた、鑑賞に好条件な人の入りだった。
もっとも、グレコよりさらに万人に向かない傾向の作品をなすベーコン展に、混雑は想像していなかったのだが。
鑑賞者の層は、明らかにグレコとは違い、スタイリッシュなクリエイター関係の方々が多い。
それもそのはず、観ていて気持ちのよくなる絵ではない。
咆哮する闇への入り口を思わせる口を持った人物、掻き消えるような半透明な身体、引き裂かれゆがめられた肉塊のような顔や身体、それらは暴力的な資質を持つ人間の本性を曝す。
一個人の中にも社会という集団の中にも、表裏一体のマゾヒズムとサディズムが交互に立ちあらわれ、いびつで果てしない欲望が人間を突き動かしているということを。
しかし、見るからに気持ちの悪いモチーフの扱いをしているのだが、それをぎりぎりのところで押し留め掬い上げているのは、画面のほとんどを占めるフラットな色面と制限された色数である。
特に、描いた主要なモチーフが生々しくなるほどに、中期から後期にかけてその傾向は強くなる。
きっとこれは、リビドーを抑制するものとしてのベーコンの理性なのだ。
ベーコンにインスパイアされたパフォーマーの土方巽やウィリアム・フォーサイスの映像が流されていた。
たぶん、彼らも人間自身の存在へのマゾヒズムとサディズムの同居する感覚を体現したかったのではないかと思ってみていた。

グレコとベーコンの共通点は・・・
身体を歪めることで解脱し超越する人の性かと、かなり強引な締めだがいかがだろうか?

絵を観ることで、漠とした人の存在や内面に問いかけるのもいい。
これぞ、ベーコンの望んだことでもあるのだが。




フランシス・ベーコン 走る犬のための習作


フランシス・ベーコン 三つの人物と肖像