~経済ニュースの森の奥~ ・・マクロな視点から。

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No.14米国型グローバル社会の中の、一日本庶民 ①

2005年10月25日 | グローバル経済
少しの間当ファイルは前回書いたように、アメリカ模倣グローバル社会へいよいよ本格的に突入しつつある小泉ニッポンが一庶民の経済生活へどう影響していくのかという大仰なテーマを、改めてわかりやすくしてみようかと思います。
根源的な表現が多くなると思うので、分り切ってる皆様には物足りないかもしれません。
読み飛ばしてください。
このネタ(グローバリズム)は私自身が、頭では理解していてもなかなか体で実感することが難しい超マクロ的な話であり、いちど自己整理してみたい意味もあって、あえて退屈かもしれない話を書きますがそれでも良ければお付き合いください。
私のようにグローバル社会を体で実感していないという方はじっくり読んでいただければと思います。
まずは今に至るこの半世紀ぐらいの流れをざっと振り返って整理してみます。


戦後の高度経済成長時代は全員が豊かな生活を目指すべく「三種の神器」をはじめとした技術開発が進み、大量生産・大量消費の時代でした。そうゆうふうに日本のことを語られることが多いのですが、実はその火付け役はアメリカです。

アメリカ(正確にはアメリカ白人社会)は世界に先駆けて便利で快適な生活を得る事に成功し、それにとてもあこがれた日本人は、アメリカの理想形を追い求めるべく国家をあげての取り組みを始めました。

そして当時のアメリカがやっていたように、日本政府は所得を庶民に再分配し(バラマき)、福祉や雇用も国が管理しながら、結果として皆が中流を味わえるような“社会全体”がほどほど豊かになる国へと進化することに成功しました。

しかし海外では80年代英国のサッチャー、米国のレーガンのころに様子が変わってきます。

イギリスは斜陽といわれた成長の行き詰まりを打破するために、アメリカも長い不況から脱却するために「小さな政府」を打ち出し、規制を廃し民間が自由に市場競争することで活力を取り戻そうというというわけです。

これまでの社会福祉による弱者保護をやめ、そのかわり高所得者への重税を取り除いて、市場での成功者が大きな報酬を得ることが国の発展に寄与するという考え方です。

80年代の米英ではすでに「自己責任」「自助努力」があるべき姿だという思考が育ちつつあったわけです。

そのころ日本では、成長の限界が見え始めていたにもかかわらず官はどんどん肥大化し規制管理を続け、大きな政府のままバラマキを重ねていました。(中曽根政権などはレーガンに倣って小さな政府を目指そうとしたが巨大化した政と官の抵抗などでほとんど実現しなかった)

しかし国家主導の大盤振る舞いと保護規制のおかげで、大波小波を乗り越えて大企業を中心に資産は増えつづけていき、余ったマネーは不動産や金融投機に回っていってついにバブルへと突入していった。

マネーが一人歩きしてしまったツケを払う形でバブル崩壊した90年代も、なんとか成長神話を保ちたい一心で人々は「政府によるバラマキ」を求めました。
政府がその要求に応えつづけた結果、国の借金は限りなく膨らみ、そして財政が限界ギリギリまできたところでようやく小泉およびブレーンによる「小さな政府」改革が始まったというわけです。・・この改革が本格的に始まったのは先の選挙に大勝した実質05年9月からだと私は考えています。

ここで初めて日本庶民は、規制緩和と自由化の徹底による競争社会・・アメリカ型グローバル資本主義へ自分たちが放り込まれた事実を除々に身をもって知るようになりますが、それでも「グローバル・スタンダード」のような言葉は経済ニュースの中の出来事で私たち庶民の生活には関係がない、と思っている日本人もまだまだ多いような気がします。
いまだ、国に守られてる感覚が日本人(特に 恩恵を受けてきた世代)の日常生活に残っているからでしょう。

「グローバルスタンダード」とか「官から民へ」などの一見響きのいいフレーズと裏腹に、それは残酷な言い方をするとセーフティネットをはずされたモラルのない競争社会を意味します。

高度経済成長時代にも、もちろん競争はありました。しかしその時は次々に新しい産業が発展して市場全体が拡大したので、つられて雇用も拡大し賃金も上昇し、国のおかげで福祉も充実していた。そういう恵まれた中での「競争」であったのに比べ、市場の拡大が行き詰まり、国の資金が行き詰まった中で「自己責任・自助努力による競争」をしなければならないのが日本におけるグローバルスタンダードの現実です。

このグローバル競争に生き残るためには「効率」が重視されます。非効率な企業・人・システムは淘汰されなければ世界の市場原理に取り残されてしまいます。
だから、“企業論理”vs“人間社会の論理”でいえば圧倒的に企業論理の勝ちになってしまいます。人間社会は効率では計りきれない良い意味でムダの多いアナログな世界だからです。徹底的に利潤を求めるグローバルマーケットは社会的弱者や非効率なスローペースに味方しません。
さらに追い打ちをかけるように、世界的なIT化が効率化に拍車をかけています。


次回は、20年前にグローバル化していったアメリカの理想と現実について書こうかと思います。